世界史サロン

元教師・今社長がおくる世界史講義と、ニュースを世界史で読み解くブログ

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ギリシアが内戦状態にあったのは、すでに話したと思います
そこで着実に力を蓄えたのは、マケドニアでした

マケドニアのフィリッポス2世は、テーベに人質になった経験があります
この不幸な経験が、逆に彼を成長させます


アテネ・スパルタ衰亡以後、一番力があったのがテーベでした
そこで彼は学ぶことができました

ギリシアの強みであるファランクスも勉強できました

彼は、その戦法をさらに洗練させました


彼の戦術は、部隊を重装歩兵と軽装歩兵に分け、重装歩兵で相手の部隊を足止めし、
軽装歩兵で側面や背後を攻撃する戦法でした


これが完全に成功しました


前338年にアテネ・テーベ連合軍をカイロネイアの戦いで破ります


耳は(338)、温ったカイロネイアの戦い、覚えてくださいね


その後、コリント同盟によって、ギリシアを傘下におさめます

彼亡き後にマケドニアを継承したのがアレクサンドロス大王でした

彼のターゲットは、今までギリシアを苦しめたペルシアでした


前334年東方遠征を開始します


さみし(334)くないよ、東方遠征で覚えましょう


アレクサンドロス大王は、アケメネス朝のダレイオス3世
イッソス(前333)、アルベラ(前331)の戦い破ります


これによって、アケメネス朝は、ついに滅亡しました(前330)

アレクサンドロス大王は、遠征の中で自分の名前のついた町を建設していきました
それをアレクサンドリアといいます

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特に有名なのが、エジプトのアレクサンドリアですね
現在もある町です


彼の支配地域は、ギリシアはもちろん、エジプト・中東をおさえ、
インドと国境を接するまでになりました


しかし、運悪く彼は33歳で病気で亡くなりました
一説には、マラリアが原因だろうといわれています


一瞬で巨大化した領土の中で、王が若くして亡くなりましたから、
マケドニア領土内は、後継者選びで、揉めに揉めました


これをディアドコイ(後継者)の争いといいます


結果、国は以下の3つに分裂します


・アンティゴノス朝マケドニア
・セレウコス朝シリア
・プトレマイオス朝エジプト


この中でセレウコス朝シリアは、最大領土を確保していましたが、
イラン系パルティアギリシア系バクトリアに、次第に領土を奪われていきました


このような目まぐるしい変化の中で、かつてはなかった文化交流が起きました
インドにまで領土を伸ばしたことで、アジアの文化も流入し、エジプトやギリシアの文化と
混ざり合いました


そのようにして生まれたものが、ヘレニズムといいます
多くの人種、民族の交流により、国を超えた世界市民的考えが普及しました

これを世界市民主義(コスモポリタニズム)といいます


このような意識の中で、共通言語を使おうとう雰囲気ができました
その結果できたのが、コイネーというものでした


今でいう英語のように、広大な領土内でも意志疎通が可能になりました


エジプトのアレクサンドリアには、ムセイオンという研究所が作られ、文化が保護されました

もちろん多くの自然科学、文化が花開くことになりました

ムセイオンからは、幾何学を研究したエウクレイデスが現れ、あのアルキメデスも学びました
ちなみに彼は、シチリア島のシラクサ出身です


アリスタルコス太陽中心説を唱え、エラトステネスは地球を球形と考えました
現代の私たちから見ても、納得できる研究結果ですよね


人間の幸福についても考える人がでてきました


ゼノンは、幸福を心の平静と考え、禁欲的生活を重視するストア派を設立しました
ストイック(禁欲的)という言葉の語源ですね


エピクロスは、幸福を快楽にあると考え、エピクロス派を作りました
これを後に、過度に快楽を追及する方向に傾斜していきました


最後に彫像ですが、これは「ミロのヴィーナス」「瀕死のガリア人」「ラオコーン」を画像込みで覚えてください
よく画像で、問題が出題されます


以上です

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今日は、ギリシア文化史です

出題頻度の高いものをピックアップしていきます


まずは、ホメロスです
彼の作品は、最古の大叙事詩である「イリアス」「オデュッセイア

この最古とか、最盛期とかは、ホントによく聞かれるパターンです

必ず覚えてくださいね


この作品は、「イリアス」がトロヤ戦争、「オデュッセイア」が戦争後を描いてます


この作品を考古学者のシュリーマンは大好きでした

多くの人は想像上の話と考えていましたが、彼は本当の出来事と考え、
トロヤ文明を発見しました

意外にも、神話が実話だったというのは珍しくありません
ノアの箱舟なども、当時本当に大洪水があったことは、地層調査で判明しています


あとは、ヘシオドスの「労働と日々」も有名です

ギリシア唯一の女性詩人サッフォーも、女性がキーワードで聞かれます


ギリシア人は、当時吟遊詩人の歌を聴いたり、劇場で舞台を見るのが好きでした
特に彼らが好きなジャンルが、悲劇です


悲劇的な話を聞いて、涙を流し、心を洗うのが大好きでした
これをカタルシス(浄化)といいます


ギリシアの悲劇作家は、3人有名です
アイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデスです

作品とセットで覚えてください


アイスキュロス…「アガメムノン

ソフォクレス…「オイディプス

エウリピデス…「メディア


喜劇作家は、1人だけ覚えましょう


アリストファネス…「女の平和


またギリシアは、哲学発祥の地としても有名です
倫理の授業などでも、西洋哲学を学ぶ場合ギリシアから始まりますね


まずギリシア人は、自然がなにによって構成されているかを考えました
これを自然哲学といいます


例えばミレトス出身のタレースは、万物の根源をと考えました


ピタゴラスは、万物の根源をと考えました
この人は、ピタゴラスの定理で有名ですね


ヘラクレイトスは、万物の根源をと考え、「万物は流転する」の言葉を残しています


デモクリトスは、万物の根源を原子(アトム)と考えました


アテネなどを想像していただくと理解できると思いますが、
彼らは大人になったら参政権があり、全員が政治家といっても過言ではありません


そのため、哲学的な教養や合理的なトークが求められました
その中で相手に話勝つための派閥として、ソフィストというのが現れました


有名なのが、プロタゴラスです
彼は「人間は万物の尺度」であるといいました
つまり相対主義ですね


ソフィストの中から、口だけ達者な屁理屈人間が多くあらわれ、
内容の伴わない話は、いかがなものかという風潮がうまれました


相対主義に対抗する形であらわれたのが、ソクラテスでした
彼は、客観的な真理は存在すると考えました


その弟子として有名なのが、プラトンです
彼はイデア論を主張しました

イデアは、アイデアの語源です。つまり理想という意味ですね
現実世界は、イデアのコピーという考え方です


これは、後に生まれるキリスト教の考えに強く影響を与えました
キリスト教は、イデアを天国に言い換えただけで、ほとんどプラトンの考え方で構成されています


プラトンは、自分の考えを広めるために学校を作りました。それをアカデメイアといいます
アカデミーの語源ですね


そのプラトンの弟子が、アリストテレスです
彼はアレクサンドロス大王の家庭教師として有名でした


歴史家も2人覚えましょう
ギリシアの大きな戦争といえば、ペルシア戦争とペロポネソス戦争でしたね


ペルシア戦争について記したのが、ヘロドトスの「歴史」です
この人は、「エジプトはナイルのたまもの」といったことでも有名ですね


ペロポネソス戦争は、トゥキディデスの「歴史」です


極めて紛らわしいので、ペルシア戦争の「歴史」・ペロポネソス戦争の「歴史」とセットで覚えてください


彫像では、フェイディアスの「アテネ女神像」ですね


建築様式も複数ありますが、ひとまずパルテノン神殿ドーリア式というのだけは、
必ず記憶してください

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いままで順調なギリシアでしたが、ついに最大の敵が来襲します
それは、アケメネス朝ペルシア(前550~前330)です


この戦争をペルシア戦争(前500~前449)といいます

発端は、前500年に起きたイオニア植民市ミレトスの反乱です
この都市は、小アジアにあります


このミレトスとアテネは友好関係にありました
なので、この反乱を裏でアテネは支援します


これにアケメネス朝が、気づかないはずがありません
ついにエーゲ海をわたり、ギリシア本土に侵攻を開始します


この時のアケメネス朝の王は、ダレイオス1世です
以前、でましたね。


アケメネス朝の最盛期の王です

創始者や最盛期、そして最後の王の名前は、よく世界史で聞かれるパターンです
必ず覚えましょう!!


前490年マラトンの戦いが発生しました

これに、アテネが勝利します

この時、勝利の伝令がマラトンからアテネまで走ったから、
マラソンという言葉が生まれたのは有名ですね


次には、前480年に大規模戦闘が発生します
この時、ペルシアの王は、クセルクセスに代わっています


この時、クセルクセスは、数万とも数十万ともいえる軍を派遣しました
一方、レオニダス率いるスパルタは、これを向い打ちましたが、テルモピレーの戦いで全滅しました


ギリシア最強のスパルタが全滅したのですから、普通士気は下がるのですが、
逆にあがりました。それは、スパルタ兵が一兵たりとも、投降することなく、討死したからです

ギリシアは、この勇敢な行為に鼓舞されました


逆転を狙うアテネは、同年のサラミスの海戦で、ペルシア軍を船の動きの取りづらい場所に誘い込み、
見事全滅させました


ちなみにこの時、アテネの貧しい市民(無産市民)が、船の漕ぎ手として参加したため、
後に参政権を得ることになります


翌、前479年、アテネ・スパルタ連合軍は、陸戦でも勝利を収めました
それをプラタイアの戦いといいます


この時、効果的だった戦術が、重装歩兵ファランクスというものです
画像で見るとわかるのですが、おしくらまんじゅうのようになって、
槍を突き出し、盾を亀の甲羅のようにして戦うのが、このファランクスです


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ついにペルシア軍を駆逐したギリシアは、再度の攻撃に備えるため、
アテネを中心にデロス同盟を結成しました


以後、ペルシアの脅威は去ったのですが、ギリシアの覇権をめぐり、
スパルタが挑戦します


アテネは、次第にデロス同盟を私物化していました
加盟ポリスは、アテネへの貢租(税金のようなもの)が義務化されていました


スパルタは、これに危機感を抱き、ペロポネソス同盟を結成し、
前431年ペロポネソス戦争を起こしました


余罪(431)追及、ペロポネソス戦争と年代を覚えてください


この時、アテネ側の主導者は、ペリクレスでした
アテネに民主主義を導入した人ですね

彼は、スパルタに対して籠城作戦を行いました

ちょっと、これがうまくいきませんでした


アテネで伝染病が発生し、籠城している側が、大きなダメージを受けました
さらにペリクレス自身が病死してしまいます


その後、アテネは民主主義の悪い部分が噴き出ます
口だけ綺麗なことをいい、中身のない扇動政治家(デマゴーゴス)によって、
アテネは、内部からグチャグチャになります


結果、この戦争はスパルタの勝利に終わります

スパルタが覇権を握ることになりましたが、皮肉にもこれがスパルタを崩壊させます


スパルタは、一匹狼のようなポリスで、独自に動いていました
しかし、ギリシアのトップになったことで富がスパルタに流入しました
ここで貧富の格差が生まれ、スパルタの戦士を生み出す従来のシステムが機能しなくなりました


この隙をつき、テーベというポリスが一時期ギリシアを支配しました


もうわかると思いますが、ペルシア戦争以後、ギリシアは内乱につぐ、内乱です
全体的なギリシアの国力は落ちる一方です


ここで新たな勢力になったのが、隣国マケドニアでした

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