世界史サロン

元教師・今社長がおくる世界史講義と、ニュースを世界史で読み解くブログ

2014-7-6_16-11-26
ピューリタン革命始まる(1642)…
無視に
(1642)
できないピューリタン

ネーズビーの戦い(1645)…今日は無事故(1645)のネーズビー
※講義では触れていませんが、ちょいちょい聞かれます

航海法(1651)…オランダにむごい(1651)航海法

審査法(1673)・人身保護法(1679)…異論、波(1673)なく(79)審査、人身保護

ナントの勅令廃止(1685)…異論は来(1685)ないナントの勅令廃止

スペイン継承戦争(1701~13)…いーな、おい(1701)!いーさ(13)、スペイン継承戦争

オーストリア継承戦争(1740~48)…なじれ
(1740)
、テレジア。世は(48)あきまーへん(アーヘン和約)

七年戦争(1756~63)…いーなコロコロ(1756)、七年戦争

ポーランド分割(1772、93、95)…何!(72)くさ!(93)人なく、ご(1795)ねるポーランド

アンボイナ事件(1623)…アンボイナ睦美(1623)

プラッシーの戦い(1757)…い~なこんな(1757)に、プラッシー
※重要なので、新しく作りました

印紙法(1765)…いーな!!無効(1765)だ!!印紙法

タウンゼント諸法(1767)・ボストン茶会事件(1773)…言いなりなるな(1767)、タウンゼント諸法。非難、波(1773)打つボストン茶会事件

茶会で怒って、大陸会議、独立の歴史に残る戦い宣言。サラっと勝って、フラ、スペ、オラは中立、よー食った!!やっぱり!!

・ボストン茶会事件(1773)
・大陸会議(1774)
・独立戦争開始・レキシントンの戦い(1775)
・独立宣言(1776)
・サラトガの戦い(1777)
・フランス参戦(1778)
・スペイン参戦(1779)
・オランダ参戦・武装中立同盟(1780)
・ヨークタウンの戦い(1781)
※ラタナコーシン朝建国(1782)
・パリ条約(1783)


※1年おきの事件を語呂にしてます。

講義part51~60から、語呂をピックアップしました。ちょっと長くなったので、今回から分けてます

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受験生にとっては、太平洋の島々をどこが取っていたかなんて、「え~!ここも聞かれるのって!?」感じだと思いますが、前回講義したアフリカのようにざっくりエリア分け戦法を使えば大丈夫です

■イギリス
まずは、メジャー系からいきます。イギリスは、オーストラリアニュージーランドを持っています。皆さんが大学生になったら、ワーホリとかで英語を学びに行く場所として人気なのを知ると思います

彼らが英語をしゃべり、白人が多いのは、この時の植民地化の流れを組んでいます。特にオーストラリアは、犯罪者の島流しとして使われていました。これを流刑植民地といいます

日本でも島流しはありますが、イギリスの島流しは、規模がデカいです。この2つの国家の先住民も聞かれます。オーストラリア⇒アボリジニー、ニュージーランド⇒マオリです

オーストラリアでは、現地に同化した白人の白濠主義(はくごう)も問題になってます。これは、現在でもくすぶっている差別問題です。ワーホリでオーストラリアに行かれる方は、調べて見てください。現時点で、オーストラリア経済は好調なのでよいですが、不調になるとまた問題化すると思います

次にイギリスのマイナー系植民地です。このあたり覚えておくと、点数に差がでます他で覚えるのは、トンガ・フィジー・ニューギニア東部の南側・ソロモン諸島です

-イギリスの植民地-
無題

■フランス
意外だと思いますが、今でも太平洋には2つのフランス領があります。この当時の影響です。ニューカレドニアタヒチを覚えましょう

-フランスの植民地-
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タヒチは、美術家のゴーガンが有名でしたね

■講義 part74 -19世紀の欧米文化史①(文学・美術)-
http://world-history.blog.jp/archives/7728455.html
※ゴーガン情報

■ドイツ
-ドイツの植民地-
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だいたい黄色で囲んだ地域が、ドイツ領です。ビスマルク諸島・マーシャル諸島・カロリン諸島・パラオ諸島・マリアナ諸島が、領土です

ビスマルク・マーシャルぐらいは、覚えましょうあとは、ニューギニア東部北側ですね

ドイツの場合、第一次世界大戦の敗戦後は、これらの領土を日本・アメリカに持っていかれるのを覚えておきましょう

■アメリカ
アメリカは、フィリピン・グァム・ハワイです。このあたりは、フィリピン人が英語をよく話せますし、グァム・ハワイはアメリカ領からも理解できると思います

ハワイは、カメハメハ朝(1795~1893)のリリウオカラニ(在任1891~93)が、独立維持を画策しましたが、結局アメリカに吸収されていきます

●ニューギニア
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ニューギニアといわれる地域は、3か国によって植民地化されていたため、ちょっと別枠で話します。まずニューギニア西部は、オランダ領です。ここから見て、西側にはインドネシアがあり、長くオランダ領です。上のグーグルマップからわかるとおり、現在もざっくり真ん中で国境が引かれ、ニューギニア西部はインドネシア領に組み込まれています

■講義 part56 -ヨーロッパ諸国の海外進出-
http://world-history.blog.jp/archives/4392809.html
※インドネシアの植民地化情報

ニューギニア東部は、ドイツイギリスです。1901年に自治領として自立していくオーストラリア連邦は、ニューギニアのイギリス領を引き継ぎます

ドイツが第一次世界大戦で負けると、ニューギニア東部北側を放棄することになり、オーストラリアは南北双方を管理することになり、やがてパプアニューギニアという名に変わります

この名が、現在のパプアニューギニアに受け継がれています。今回は以上です

次回は、中国分割いきます

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アフリカ植民地化の前提として覚えて欲しいのは、アフリカの大半は、イギリスフランスが所有していることです

イギリスは、アフリカ縦断政策と採用し、フランスはアフリカ横断政策を採用しています。私は受験生の時に、アフリカの地図を思い浮べ、下図のように縦線(赤)でイギリス、横線(青)でフランスを暗記しました

これで、「アルジェリアは横ラインにあるからフランス領だな」とか「ケニアは縦ライン上だから、イギリス領かな」とかの類推がききます

で、縦線と横線を引けば、ぶつかるのは当たり前で、そこがイギリスとフランスの紛争地帯になります。そこがスーダンという場所で、ファショダ事件(1898)というのが起きます

まず、この事実を前提として、知識を肉付けしてください。なぜならアフリカ史の典型的な質問が、「この国は、どこの植民地ですか?」だからです

これ以外の国であるドイツ・イタリア・ベルギー・ポルトガルが聞かれたら、難易度高い問題となります

-縦断政策(英)・横断政策(仏)-
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それでは、アフリカの植民地化を説明しますまずイギリスですが、彼らは3C政策を推し進めています。これは、彼らが植民地経営するう上で、最重要拠点です。ここを死んでも守ります。

この3Cは、3つの都市名の頭文字です。ケープタウン(南アフリカ)・カイロ(エジプト)・カルカッタ(インド)です。英語だと、Capetown・Cairo・Calcuttaです。3Cですね

ケープタウン・カイロは、今でも使われている都市名ですが、カルカッタは、コルカタと言われています。まず南アフリカは、ダイヤモンド・金等の鉱物資源が豊富です。またカイロは、スエズ運河を持つため、ここを通る船から通行料を取れます。インドは、綿花を買って、加工した綿製品を売りつけるため、必ず儲かります

以上のことから、非常に美味しい植民地ということが理解できると思います

1881年、エジプトでウラービー(オラービー)の反乱が起きます。さきほど言ったように、エジプトは絶対失いたくない領土ですから、この反乱を鎮圧します。この本乱を理由に、翌年にはエジプトを事実上の保護国化しています

語呂です
嫌やい(1881)ウラービーの反乱、マフディーの反乱

いきなり、マフディーという言葉でてますが、エジプトの下にあるスーダンでも反乱起きてます。それが、ムハンマド=アフマド率いるマフディーの反乱(1881~98)です

ちなみに1881年は、フランスによって、チュニジア保護国化されてる年でもあります

けっこう長引いたため、太平天国の乱で活躍したゴードン戦死しています。この人は、よく聞かれるので、覚えてくださいね

■講義 part83 -中国の内乱と近代化(太平天国の乱・洋務運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/9001991.html
※ゴードン情報

アフリカ南部においては、1814年からオランダ領⇒イギリス領となっており、ここをケープ植民地として徐々に拡大していきます

ここではセシル=ローズ(在任1890~96)という人が、ケープ植民地を経営しています。教科書で3C政策の拠点であるカイロ~ケープタンを結ぶ存在として、よく紹介されてますね

-セシル=ローズ-
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■南アフリカレポート
http://world-history.blog.jp/archives/3817131.html
※自分の南アフリカ旅行で、セシル=ローズにふれてます

ここで居場所を追われた、現地に入植したオランダ人の子孫をブール人といいますが、僻地に行って、トランスヴァール共和国。オレンジ共和国を作ります

この拡大期の1898年に、ファショダ事件(スーダン)で、英・仏は衝突しますが、両国は戦争を回避します。お互いリスクを取らずに、仲良くアフリカを占領しますという意志です

ここで、ダイヤモンド・金が発見されたため、イギリスは再侵略します。まさにジャイアンですwこれを南アフリカ(南ア・ブール)戦争(1899~1902)といいます

もちろんイギリスの勝ちです。これで、今の南アフリカと同じぐらいの領土になり、ケープ植民地⇒南アフリカ連邦に格上げです。ここで、アパルトヘイトという白人優遇、黒人差別が推進されていきます

1904年、英仏は条約を結びます。これを英仏協商といいます。イギリスのエジプト領有、フランスのモロッコ領有をお互い認めたものです

以後は、代表的な聞かれる植民地を列挙します

イギリス…エジプト・南アフリカ・ケニア・ナイジェリア・アシャンティ(ガーナ)
フランス…チュニジア・モロッコ・マダガスカル

ベルギー…コンゴ
※レオポルド2世が、尽力。この植民地、聞かれますだれも、アフリカにベルギーの植民地があると考えないからです

ドイツ…カメルーン・南西アフリカ(ナミビア)・東アフリカ植民地(タンザニア)
ポルトガル…アンゴラ・モザンビーク

イタリア…リビア・エリトリア・ソマリランド


上記の植民地の位置含め、どこが支配国か、しっかり覚えてくれれば、アフリカ史はだいぶ楽ですこれで、アフリカはほとんど取り尽くされたので、あとは戦争で奪うしかありません

特に後発の、ドイツ・イタリアは焦ってますこれが第一次世界大戦の1つの要因ともいえます。ドイツは、1905年第1次モロッコ事件1911年第2次モロッコ事件を起こして、モロッコをドイツの領地にしようと画策します。フランスの背後には、イギリスの支援んがありますから、ドイツはうまくいきません

1905年の事件は、タンジール。1911年の事件はアガディールで起きています。第1回に関しては、アルヘシラス会議で、ドイツの譲歩が決定します。第2回とひっかける正誤問題に注意です

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イタリアは弱い者イジメで、領土を取ります。イタリア=トルコ戦争(1911~12)で、トリポリ・キレナイカを占領し、これをリビアとして領有するぐらいしか、できてません。ショボイです…

これ以前には、エチオピア戦争(1895~96)なんてのも起こしてますが、近代化に成功していたメネリク2世率いるエチオピアの前に敗北していますショボイです…

アフリカは、ほぼほぼ植民地されていますが、されていないレア国家もよくきかれます。それがエチオピアリベリアです。この時期に植民地を免れた2つの国家として記憶してください

-エチオピア・リベリア-
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※エチオピアは、頑張ってましたが、結局イタリアのムッソリーニが1935年に侵攻して、占領します

次回、太平洋諸地域の植民地化です

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