ロシアは、帝国主義時代にガタガタと、政治システムが変わっていく時代です
まだ説明していないですが、キッカケは日露戦争(1904~05)です。これで、ロシアは王政の変更を余儀なくされます
まず社会主義の勢力が、大きく伸長します。ロシア社会民主労働党が、まずでますが、意見の対立で、ボルシェヴィキとメンシェヴィキに分かれます
メンシェヴィキの方が、段階的な改革を望み、ブルジョワ勢力も取り込んでいます。指導者は、プレハーノフとマルトフです。ボルシェヴィキの指導者は、レーニンです
-レーニン-
他にも過激な社会主義集団、社会革命党(エス=エル)というのもあります。これは、ナロードニキの流れを組んでいます
■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※ナロードニキ情報
もちろんブルジョワ政党もあります。それは、立憲民主党です
これらの政党が、主導権争いを行います
結局の所、戦争は長続きすると、優勢だろうが、劣勢だろうが、国民の不満は鬱積します。明日食べるゴハンも、苦しむ状態になりますからね
さらにアジアなんて雑魚と思っている欧米の人にとって、簡単に日本を追い込めないロシアの状態に、国民は我慢なりません
これらの不満は、ペテルブルク冬宮前のデモにつながります。率いていたのは、ガポンという神父です。このデモを鎮圧するために、軍隊は武力で鎮圧します
これで多くの死者がうまれ、ロシア皇帝憎しの感情が作られていきます。これを血の日曜日事件(1905年1月)といいます
これがキッカケとなり、各地が暴動です。当時の皇帝ニコライ2世(在位1894~1917)はビビりますこの暴動鎮圧の責任者となったのが、ヴィッテです。彼は、日露戦争を終わらせたポーツマス会議での責任者でもあります
まず、原因を考えるとわかりますが、デモのキッカケは戦争です。これを止めるのが第一です。これを放置している間、軍隊すら暴動に参加しています
これをポチョムキン号の反乱(1905年6月)といいます
いよいよ皇帝の首が危ないですロシアは戦争継続を断念します。ポーツマス条約(1905年9月)に調印します
しかし、これだけでは無理です。戦争に負けているからです。責任は誰でしょう?どうみても皇帝になります。国民を納得させるアメでもない限り、止まりません
そこでニコライ2世は、十月宣言(1905年10月)を発表し、ドゥーマ(国会)の開設と、憲法の制定を認めます
血の日曜日事件から、ここまでの流れを第一次ロシア革命といいます
血の日曜日事件⇒ポチョムキン号の反乱⇒ポーツマス条約⇒十月宣言
並べ替え問題があれば、年号暗記がなくても、当時の流れを覚えいれば解答できます。上記の流れを自分で説明できるようにしていてくださいね
ここで力を持ったのは、立憲民主党です。ヴィッテも彼らの路線を支持しますが、皇帝は不満です。喉元すぎれば、ナントカで、自分以外の者が権力を持つことが納得できません
1906年に首相だったヴィッテを解任し、ストルイピン(在任1906~11)をあらたに任命します。これで、立憲民主党も支持者を失い、力がなくなります
ストルイピンは、暴動の芽が、ミールから生まれると考えていました。ミールは農村共同体ですね。農民は貧しい人多いですから、社会主義の影響を受けやすいです
ミールをつぶし、自立した農民を増やせば国力もあがると考えました
■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※ミール情報
この考え、ちょっと浅薄だったと思います。ミールは、国が何も助けてくれないなかで、弱い彼らが何とか生きていくための絆だったことを理解できていません
ストルイピンは、貴族出身ですから、経済的なものだけで、物を見過ぎたと思います。ただ、彼はミールを潰せば、暴動が減って、経済力もつくと思ってますから、ミール解体を断行します
最後のセーフティーネットを砕かれたわけですから、農民に貧富の格差が増大します。ここで儲かった一部の人はいいですが、頼るもののない農民は困窮し、さらに憎しみを増大させるわけです
またストルイピンは、いろいろルールを変更して、自分に操縦しやすい国会を作りました。立憲民主党や社会主革命党などは、そこで議席を失います
ほうぼうに憎まれたストルイピンは、最終的に暗殺されてしまいます
彼のやろうとしたことは理解できますが、ロシアの流れを大局から判断して、適切に行動できるまでの才覚はなかったと思います
ロシアの矛盾は解消されず、不満のマグマが溜まり、次の革命を待つことになります
次回は、帝国主義時代(アメリカ)です
講義 part87 -帝国主義時代(ドイツ)-
今日、フィリピンは祝日なので、更新します
■ドイツ
ドイツの帝国主義行きましょう
正直、ココからドイツは泥沼ですまず私も個人的に好きなビスマルクが、退陣します(1890)その後に出てくるのが、ヴィルヘルム2世(在位1888~1918)です
■講義 part68 -ドイツの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6184102.html
※ビスマルク情報
自分は、結果論で考えます。ヴィルヘルム2世を擁護する人もいますが、彼はドイツを追い込んだ責任者であり、後のヒトラーを生むトリガーの役割を果たしています
なぜ、こうなるかというと、彼が首相でなく、国王だった点にあります。この場合、国家=国王になります。行き着く先は、拡大路線です
これはイギリスやロシアとの衝突と同じ言葉です…
-ヴィルヘルム2世-
※By Wikipedia
私は、マックス=ヴェーバー著「職業としての政治」から、分析すると、ヴィルヘルム2世は結果責任を果たしていません
※ちなみに、この本は受験では聞かれません。プロテスタントのマインドと資本主義を研究した「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のほうが聞かれます
正直、国をまとめる人は「そういう気持ちでやってなかった…」と言い訳がましいことを言うべきでありません。すべては、結果で判断されるべきです
彼には、理想主義者の面が強いです。それが顕著に現れたのが、社会主義者鎮圧法の廃止です(1890)。これで社会主義勢力が、強大な力を持ちます
ビスマルクは、この勢力を危険視していまいた。国家運営において、不安定要素と捉えていたわけです。彼らのうちの大半は、労働者の立場にたって行動してますから、悪くはないと思います
ただ、無政府主義者のように、国家転覆を計る勢力もいたので、コントロールが難しい勢力です。インターナショナルのように国家を越えて連結しますからね
これは、少なからず今の日本も抱えている問題です。機会があれば、別枠で説明します。社会主義については、一言で語れない一長一短があります
■講義 part77 -19世紀の欧米文化史④(探検・国際的諸運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/8659280.html
※インターナショナル情報
少なくとも、ヴィルヘルム2世の選択は、社会主義勢力を爆発的に増やしました。まず有力な組織としてはラサール率いる全ドイツ労働者協会(ラサール派)とベーベル率いる社会民主労働者党(アイゼナハ派)があります
1875年、これが合併して、ゴータ綱領をもとに、ドイツ社会主義労働者党が結成されます。これに呼応しての社会主義者鎮圧法(1878~90)です
これで歯止めをかけようとしていましたが、これが外れます
1891年、エルフルト綱領に基づき、ドイツ社会主義労働者党はドイツ社会民主党に改称されます。この政党は、現在のドイツでも有力な政党です
全ドイツ労働者協会(ラサール派) + 社会民主労働者党(アイゼナハ派) = ドイツ社会主義労働者党 ⇒ ドイツ社会民主党
今のメルケル首相(在任2005~)の前の、シュレーダー(在任1998~2005)はドイツ社会民主党出身です
-シュレーダー-
次回、帝国主義時代(ロシア)行きます
講義 part86 -帝国主義時代(フランス)-
帝国主義時代のフランスは、第三共和政(1870~1940)の時代です。ナポレオン3世が、ビスマルクに負けてしまい、この体制が始まります
■講義 part68 -ドイツの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6184102.html
※ビスマルク情報
■講義 part69 -フランスの第二帝政・第三共和政-
http://world-history.blog.jp/archives/6498346.html
※ナポレオン3世情報
19世紀末あたりのフランスは、イギリスと植民地獲得をめぐって、揉めています。アフリカ・東南アジアで、けっこうぶつかります
さらにビスマルク外交のおかげで、フランスは有力な同盟国持てず苦しんでいましたフランスにとって幸いだったのは、ビスマルクが国王と揉めて、退位(1890)したことです
これで展開が変わります。即座に露仏同盟(1891~94)が結ばれます
このような中で、2つの大きな事件がフランスで起きます。それがブーランジェ事件(1887~89)とドレフュス事件(1894~99)です
ブーランジェ事件は、クーデタ未遂事件です。クーデタ(coup d'État)は、実はフランス語です。直訳すると、「国をぶっとばす」です
ブーランジェの身分は、軍人です。彼は、ドイツに負けた国民の悔しさを利用して、国のトップになろうとしました。これで、けっこう国が揺れましたが、失敗しています
次の事件は、反ユダヤ主義、つまり差別とリンクしています。ユダヤ人のドレフュスが、スパイとして、捕まりまりましたが、真犯人が捕まり、彼は無実と軍部はわかります
しかし、面子のため、彼のユダヤ人という素性を利用して、フランス人の差別感情を煽り、あくまでドレフュスを犯人にして、押し切ろうとしました
下画像は、軍人の権利を剥奪されて、剣を折られているドレフュスの図です。中央左手が、ドレフュスです
-ドレフュス事件-
※wikipedhia
まず差別ですが、欧米人にはユダヤ人への差別意識があります。日本人には、これが本当に理解できません。キリスト教の歴史と密接に関わっている問題です
ユダヤ人は、ユダヤ教という固有の宗教を持っており、キリスト教と違います。相違点は、簡単です。「救世主として、イエスを認めるか、認めないか」です
ユダヤ人は、最後の救世主をいまだ待ち望む宗教です
■講義 part15 -ローマ文化史-
http://world-history.blog.jp/archives/1512252.html
※キリスト教史
ここが、キリスト教が大半を占める欧米で、嫌がられる根拠です。
19世紀ともなると、こういった差別意識と戦う人々がでてきます。有名人は、自然主義作家のゾラです。「居酒屋」で有名でしたね。彼が、この非道に猛烈に抗議します
-ゾラ-
■講義 part74 -19世紀の欧米文化史①(文学・美術)-
http://world-history.blog.jp/archives/7728455.html
※ゾラ情報
他にも、政治家のクレマンソー(在任1906~09、17~20)もドレフュス側にたちました。彼は、後にフランスの首相まで上り詰めます
彼らの努力もあり、ドレフュスは無実となります
語呂です
白紙(1894)に戻そう、ドレフュス事件
これを見たヘルツルという人は、ユダヤ人国家の建設を運動化させるシオニズムを行うことになります。結果として、これでイスラエルが建国されますから、ドレフュス事件の歴史的重みは、凄いと思います
この時期は、労働組合も盛んです。フランス最大の組合は、労働総同盟(CGT)といいます。彼らは議会主義を否定し、過激に労働者の権利を求めていきました
これを、サンディカリズムといいます
このような中で、2つの有名な社会主義政党が生まれます。それが小ブルジョワ・小農民を支持基盤とする急進社会党と、第2インターナショナルがきっかけで結成されたフランス社会党ができます
フランス社会党は、今の社会党の原型になっていきます。ちなみに今のフランス大統領は、社会党のオランド(在任2012~)です
-オランド-
■講義 part77 -19世紀の欧米文化史④(探検・国際的諸運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/8659280.html
※第2インターナショナル情報
次回は、帝国主義時代(ドイツ・ロシア)行きましょう