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いままで順調なギリシアでしたが、ついに最大の敵が来襲します
それは、アケメネス朝ペルシア(前550~前330)です


この戦争をペルシア戦争(前500~前449)といいます

発端は、前500年に起きたイオニア植民市ミレトスの反乱です
この都市は、小アジアにあります


このミレトスとアテネは友好関係にありました
なので、この反乱を裏でアテネは支援します


これにアケメネス朝が、気づかないはずがありません
ついにエーゲ海をわたり、ギリシア本土に侵攻を開始します


この時のアケメネス朝の王は、ダレイオス1世です
以前、でましたね。


アケメネス朝の最盛期の王です

創始者や最盛期、そして最後の王の名前は、よく世界史で聞かれるパターンです
必ず覚えましょう!!


前490年マラトンの戦いが発生しました

これに、アテネが勝利します

この時、勝利の伝令がマラトンからアテネまで走ったから、
マラソンという言葉が生まれたのは有名ですね


次には、前480年に大規模戦闘が発生します
この時、ペルシアの王は、クセルクセスに代わっています


この時、クセルクセスは、数万とも数十万ともいえる軍を派遣しました
一方、レオニダス率いるスパルタは、これを向い打ちましたが、テルモピレーの戦いで全滅しました


ギリシア最強のスパルタが全滅したのですから、普通士気は下がるのですが、
逆にあがりました。それは、スパルタ兵が一兵たりとも、投降することなく、討死したからです

ギリシアは、この勇敢な行為に鼓舞されました


逆転を狙うアテネは、同年のサラミスの海戦で、ペルシア軍を船の動きの取りづらい場所に誘い込み、
見事全滅させました


ちなみにこの時、アテネの貧しい市民(無産市民)が、船の漕ぎ手として参加したため、
後に参政権を得ることになります


翌、前479年、アテネ・スパルタ連合軍は、陸戦でも勝利を収めました
それをプラタイアの戦いといいます


この時、効果的だった戦術が、重装歩兵ファランクスというものです
画像で見るとわかるのですが、おしくらまんじゅうのようになって、
槍を突き出し、盾を亀の甲羅のようにして戦うのが、このファランクスです


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ついにペルシア軍を駆逐したギリシアは、再度の攻撃に備えるため、
アテネを中心にデロス同盟を結成しました


以後、ペルシアの脅威は去ったのですが、ギリシアの覇権をめぐり、
スパルタが挑戦します


アテネは、次第にデロス同盟を私物化していました
加盟ポリスは、アテネへの貢租(税金のようなもの)が義務化されていました


スパルタは、これに危機感を抱き、ペロポネソス同盟を結成し、
前431年ペロポネソス戦争を起こしました


余罪(431)追及、ペロポネソス戦争と年代を覚えてください


この時、アテネ側の主導者は、ペリクレスでした
アテネに民主主義を導入した人ですね

彼は、スパルタに対して籠城作戦を行いました

ちょっと、これがうまくいきませんでした


アテネで伝染病が発生し、籠城している側が、大きなダメージを受けました
さらにペリクレス自身が病死してしまいます


その後、アテネは民主主義の悪い部分が噴き出ます
口だけ綺麗なことをいい、中身のない扇動政治家(デマゴーゴス)によって、
アテネは、内部からグチャグチャになります


結果、この戦争はスパルタの勝利に終わります

スパルタが覇権を握ることになりましたが、皮肉にもこれがスパルタを崩壊させます


スパルタは、一匹狼のようなポリスで、独自に動いていました
しかし、ギリシアのトップになったことで富がスパルタに流入しました
ここで貧富の格差が生まれ、スパルタの戦士を生み出す従来のシステムが機能しなくなりました


この隙をつき、テーベというポリスが一時期ギリシアを支配しました


もうわかると思いますが、ペルシア戦争以後、ギリシアは内乱につぐ、内乱です
全体的なギリシアの国力は落ちる一方です


ここで新たな勢力になったのが、隣国マケドニアでした

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