前回の講義で、海外にいいようにやられた中国を説明しました。中国国民の中にも、これに対する反発があります

その思いが結実したのが、義和団事件(1900~1901)です。キリがいい年代に発生してるので、サックリ覚えてください

これは山東省を根拠にした白蓮教系の義和団が起こした、外国排斥運動です。スローガンは「扶清滅洋」です。中国のスローガンは、よく正誤問題で出題されます

まずは、中国の省名は有名所を暗記です。「この事件は、何省で起きましたか?」みたいな設問多いです

-山東省-
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次にスローガンですが、よく太平天国の乱(1851~64)と逆にして、聞かれます。こっちのスローガンは、「滅満興漢」でしたね


■講義 part83 -中国の内乱と近代化(太平天国の乱・洋務運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/9001991.html
※太平天国の乱

「扶清滅洋」ですが、扶養家族といった言葉から想像できるように、には「助ける」という意味があります。「けて、滅茶苦茶する西してやる」で、彼らの考えが理解できると思います

太平天国の乱時代は、アヘン戦争(1840~42)とアロー戦争(1856~60)の間に起きてます。中国分割が起き始めた段階では、中国人の意識は、内部のよそ者である清に向かっています

多数派の漢人から見れば、万里の長城の向こう側から来たはよそ者ですだから、外国勢力に混乱させられ、ナンバーワンであることを証明できない清に怒りが向いてます

だから、「滅満興漢」です。清の母体民族、「州人をぼして、人の国を復させる」になるわけですね

■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html

これが義和団事件になると、継続的に中国が蹂躙されているわけですから、清⇒外国に対象が移動したのは理解できます

このように流れを理解できていれば、スローガンをどっちか忘れても、時代背景から、推量して答えに到達できます。なので、この一連の流れ、押さえておいてください

この義和団事件ですが、清で防げない外国勢力を、国民で防ぐことなんかできません。日・露・英・仏・米・独・墺・伊というオールスターで、ボコボコにされます

これを8ヵ国共同出兵といいます。義和団事件を終わらせた条約は、北京議定書です。決まり事がけっこうありましたが、北京駐兵権が一番重要です

アロー戦争を終わらせた北京条約では、公使の駐在が認められてましたが、今回は軍に格上げされてます。北京条約・北京議定書似てますね

つまり、駐在駐兵は正誤問題で聞かれます

そしてこの駐在を利用して、満州、今の遼寧省のあたりまで、伸長してきたのが、ロシアです。ロシアは、この好機を利用して、朝鮮にまで手をだそうとします

この時期の日本外交の良さは、世界NO1の国と手を握ったことです。この当時のNO1は、イギリスです。イギリスは、「光栄ある孤立」という名のもとに、同盟を結ばない風土がありましたが、ロシアの南下政策の野心を警戒していました

イギリスは、外交政策を変更し、日英同盟(1902)が成立します。朝鮮の権益にロシアが侵入したきたわけですから、日本は戦争の決断に入ります

朝鮮を譲歩して渡しても、「次は九州くれ、四国くれ」と要求がエスカレートするわけですから、日本はもう戦う以外の選択肢がありません

それが日露戦争(1904~05)です

日本はコツコツ勝利を重ね、なんとか旅順・大連を攻略します。これらの影響で、ロシア国内に厭戦気分が高まり、血の日曜日事件が1905年1月におきます

■講義 part88 -帝国主義時代(ロシア)-
http://world-history.blog.jp/archives/11098268.html
※血の日曜日事件

戦争に勝てないと、内部がグラつきだすのは典型的な話です。日本もギリギリの勝利を続けています。1905年3月奉天会戦にも勝ちましたが、まだロシアは降参しませんでした

-奉天-
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ロシアのプライド、バルチック艦隊が、わざわざバルト海から来ていたからです。すごい距離をきてます。その艦隊が、日本海軍と決戦します。それが、日本海海戦(1905年5月)です

-バルト海-
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これにも日本は、勝利しました。相手が半年かけて、来たことで疲労というアドバンテージがありましたが、日本海軍は、ロシア艦隊をほぼ壊滅させることに成功しました

朝鮮半島と日本には、日本海という海があり、もしロシアが勝利していたら、日本の権益が分断される最悪の事態が発生していました。その中での大勝利です

アメリカのセオドア=ローズヴェルトの仲介で、日本・ロシアの間にポーツマス条約が締結されます

■ポーツマス条約(1905年9月)
[日本全権・小村寿太郎 ロシア全権・ウィッテ]
・韓国の保護権
・遼東半島南部
・南満州鉄道(長春~旅順間)
・南樺太


韓国の領有は、清・ロシア・日本で争っていました。以下の流れで、日本の帰属になります

日清戦争⇒清×
日露戦争⇒露×


この当時の日米関係は、友好でしたから、ポーツマス条約の前に桂・タフト協定(1905年7月)があって、韓国は日本のもの、フィリピンは米のものと認め合ってます

このあたりあるので、韓国の人は、アメリカに守ってもらいながら、アメリカを嫌いという複雑な感情を持つことになります

日本の韓国領土化に文句をいう国はいんかうなってので、段階的に吸収していきます。それが日韓協約です

第1次日韓協約(1904)
第2次日韓協約(1905)…韓国の保護国化に成功
第3次日韓協約(1907)…韓国軍隊を解散

※第3次は、ハーグ密使事件で皇帝高宗が日本支配の不当を訴えて、失敗し、これをキッカケに協約が結ばれました

1909年には、初代韓国統監伊藤博文が、安重根に暗殺されます。韓国には皮肉ですが、これを理由に、1910年韓国併合が行われました

併合後は、統治機関として朝鮮総督府がおかれます。初代総督は、寺内正毅です。統監・総督は似た表現です。つまり正誤問題で聞かれます

このあたりまでの日本の戦略は、合理的で良かったと思います。まず世界NO1と手を組むということ。各国の同意を得て、韓国を併合したこと。条約においても、賠償金を要求せず、内情を鑑みて、領土だけで我慢したこと。自分の実力にあった、最大限の努力ができていたと思います

ここから先の日本は、本当に終わりの始まりだと思います。。。

次回、中国の辛亥革命いきます

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