300年の長きに渡って続いた唐が滅んでから、
中国は混乱期に入ります


五代十国(907~979)の時代です

華北に五代続く王朝、華南・江南で十国が乱立した時代をさします

江南は、広義には中国南部を意味しますが、
長江下流域の地域をさす場合もよくあります

有名な都は、上海ですね


五代だけ覚えておいてください
十国は、まず聞かれないです


五代
後梁⇒後唐⇒後晋⇒後漢⇒後周


この中で聞かれるのは、後梁後晋です
後梁は、唐を滅ぼした朱全忠が有名です。都は汴州(開封)です

後晋は、石敬瑭契丹という北方の異民族の援助で建国しました
お礼に燕雲十六州という、現在の北京あたりの土地を割譲しています


この時代は、朱全忠などのように武人あがりの人間が政治を動かしていたので、
武断政治といわれます


(960~1279)
・北宋(960~1127)
建国者は、後周の武将だった趙匡胤です


語呂いきます
苦労(960)多そう(宋)、趙匡胤


都は、開封です
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趙匡胤は武将あがりですが、武断政治の限界を感じ、
文治主義に変更しています


そのため科挙をより洗練させます
3段階式の試験にしました。長い関門ですね

それは、州試⇒省試⇒殿試ですすみます

まず州試の試験を突破すると、礼部主催の中央での省試に入ります
最後は皇帝の前での試験、殿試となります

この中で殿試が、一番聞かれます


2代太宗の時に中国の統一ができました


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1004年には、淵の盟を結び、毎年お金や贈り物をだすことで、
侵略を防ぐ条約を結びます


語呂です

遼に千円よ(1004)淵の盟


その40年後には、西夏にも類似した条件で条約を結びます
これを慶暦の和約(1044)といいます


もうわかりますね。完全なヘタレですw


泣きそうなのが、日本も最近まで同じことをしていました
私の意見ですが、日本も十分な議論の後に、憲法を改正したほうがいいと思います


戦後間もない頃の憲法は、日本政府も効果的に利用していました
吉田茂という人は、歴代総理の中で戦後三本の指に入るほど優秀だと思います


彼は、朝鮮戦争(1950)勃発時に、アメリカに「軍隊を送れ」と命令されますが、
「憲法9条で無理。そしてこの憲法は、アメリカが作ったものですよね?」と言い返します
もちろん、アメリカは言い返せません


日本はアメリカに物資の補給だけ手伝いました
結果、日本経済は急速に回復しました。これを特需といいます

この特需という言葉試験にでるので、覚えましょう


少なくとも、このブログを読んでいる方で、
憲法について考えたことある人は、少ないと思います


ブログもアップデートされるように、
憲法もアップデートされることが普通だと思います


話を戻します


6代神宗(位1067~1085)の時、まわるの国にお金をあげたり、
いろいろ大変なので改革が実施されます


責任者は、王安石です
彼は、唐宋八大家としても有名です


★王安石の新法
・青苗法
・均輸法
・市易法
・募役法
・保甲法
・保馬法


これ全部覚えておいてください

漢字のいい所は、イメージでなんとかなる所ですよね

青苗法、苗ときたら、農民向けかなと想像できますね
農民に資金や実際に穀物の苗を融資して、収穫時に返済してもらう法律です


市易法、市場の交易が容易になるのかなと想像できます
商人向けの法律で、彼らに資金を融資しています


こんな感じで覚えていってください


この新法に反対する保守派がいます
司馬光という人です


彼らの集団を旧法党といいます

新法党VS旧法党

この構図があったということです

最終的に王安石は破れ、司馬光に宰相の座を渡しています
この司馬光、「資治通鑑」という
編年体で書かれた歴史書を残していることも覚えておいてください


1126年には8代徽宗、9代欽宗が捕虜として連れ去られる事件が発生します
これは遼を滅ぼしたによって行われました

これを靖康の変といいます


語呂です
いちいち震える(1126)、靖康の変


南宋(1127~1279)
これによって一族は、開封にいられなくなり、南部に遷都しました
これ以後を南宋といいます


初代は高宗で、都は臨安(現・杭州)になります


南宋は最初、とあきらめず戦う主戦派と、戦いを回避する和平派で二分されます

主戦派は岳飛、和平派は秦檜でリーダーでした

これに和平派が勝利したため、1142年に淮河国境になりました


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1279年に南宋を滅ぼしたのは、元のフビライ=ハンです
彼は元寇で、日本を攻めてきたことでも有名ですね


語呂です
いつになく(1279)弱い、南宋


宋の社会・文化史
宋代には、完全に荘園が完成しています
そこの地主を形勢戸、小作人を佃戸というの覚えておきましょう


この時代、農業用地も拡大していきます

干拓事業が盛んになります。これを囲田といいます
囲田には2タイプあります。川・池を干拓した圩田と湖を干拓した湖田です

この干拓情報は、レベルの高い大学用です

このように干拓した土地で、有力になったのが、江南です
当時、「 蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」といわれました


さらにベトナムのチャンパーという国より、日照りに強い占稲米が輸入され、
より収穫量は増えました


このようにして農地が増えると、栄える地域も変化していきます
自然発生的にできた市場を草市といいます。これが大きくなると、といわれます


節度使が大きくなると、藩鎮になりましたね。それに似ています


町の規模も発達したため、組合もできました
商人組合を、手工業組合をといいます
ここも漢字でイメージできると思います


流通が活発化すると、貨幣はだいぶ面倒です
運ぶの大変ですよね?そのため、紙幣が生まれました


これが、さらに発展すると電子マネーになるわけです
ITが、世界を変えたわけです。
このブログもITが発展しなければ成立しないわけですから、ただただ感謝です


話を戻します


北宋の紙幣は交子、南宋の紙幣は会子といいます


この時期に栄えた陶磁器は、景徳鎮といいます
唐三彩と区別しておいてくださいね


文化史もざっくりいきます
周敦頤⇒程顥・程頤⇒朱熹(朱子)の順でまとめあげたのが、朱子学といいます
南宋の朱子は理気二元論、性即理説、大義名分論で有名です


朱子学は、簡単にいうと、支配者が国民をコントロールするのに重宝されました
朱子学は儒学の流れです。目上を敬う考えを論理化しました

この目上の頂点に皇帝がいます
徳川も、これに目をつけて、朱子学を採用します


この対極にあるのが、陸九淵心即理という考え方です
彼の考えは、後に陽明学をうみます


この考えは、幕末の吉田松陰に強い影響を与え、
彼の生徒たちは明治維新を起こしていきます


吉田松陰の妹が、2015年の大河ドラマらしいので、
興味がある人は、見てください。1年後ですがw


朱子学は支配者に、陽明学は被支配者に人気があるのは、
面白いことですね


あとは、唐宋八大家に触れましょう

唐では韓愈、柳宗元でしたね
宋は欧陽脩、蘇洵、蘇軾、蘇轍、曾鞏、王安石です


よく聞かれる人だけピックアップします

欧陽脩は、紀伝体「新唐書」という歴史書を書いてます

蘇軾は、「赤壁の賦」を書いています


絵画では、北宗画・南宗画があります
北宗画の徽宗だけ覚えておきましょう。北宋の王様でしたね
彼の書いた「桃鳩図」はセンター試験レベルで、画像問題もよくあります

それ以外は、一流大学で聞かれるレベルです


次回は、遼や金といった異民族の話です

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