モンゴル帝国(1206~1271)
中国から見た北方民族で、一位、二位を争うのがモンゴル帝国です
13Cの世界最強は、間違いなくモンゴルです


初代はチンギス=ハン(位1206~27)です。ちなみにハンは、王様というこです
エジプトのファラオと同じですね


語呂です
いづれ無敵(1206)のモンゴル帝国


クリルタイという部族会議で、王が決まります
彼は、ナイマン・ホラズム・西夏と次々に征服しています


軍事行政制度として、千戸制を採用しています
遊牧民らしく、金の猛安・謀克に似ている制度です


2代は、チンギス=ハンの息子のオゴタイ=ハンです
彼は、都をカラコルムとしました


彼らのストロングポイントである馬を有効に使うため、駅伝制(ジャムチ)を整備します
馬も生き物なので、走ったら疲れます。そのため、ポイントごとに馬を置いておき、
新しい馬と変えることで当時の最速スピードで移動を可能にしました

これが駅伝制です

皆が勝手に馬を使用すると困るので、もちろん証明書が必要です
それを牌符といいます


彼は、金を滅ぼします(1234)


またバトゥをヨーロッパに西征させました
有名な戦いは、ワールシュタットの戦い(1241)です

ここでドイツ・ポーランド連合軍は敗れます


語呂です
1、2のよいしょ(1241)、ワールシュタット


領土を拡大した結果、サライを都にしたキプチャク=ハン国を建国します


4代モンケ=ハン(位1251~1259)は、
後の王フビライを東南アジアに派遣して、大理を滅ぼします
またフラグを中東に派遣して、アッバース朝を滅ぼします(1258)
朝鮮の高麗も属国にします


(1271~1368)
5代のフビライ=ハン(1260~1294)の話をしましょう
彼は即位早々、内乱に巻き込まれます


モンケ=ハンは、フビライのだったので、王様を独占するなと、
他の親族から文句がでます

ちなみにフラグもモンケ=ハン、フビライと兄弟です


文句をいったのが、ハイドゥです
これをハイドゥの乱(1266~1301)といいます


このあたりの身内同士の戦いは、今の北朝鮮のニュースを見れば、
だいたい想像できると思います


ハイドゥ陣営とフビライ陣営で戦内にモンゴルは、分離独立していきます

分裂した国は、以下になります

・元
・オゴタイ=ハン国
・チャガタイ=ハン国
・イル=ハン国
・キプチャク=ハン国


XX=ハン国がめっちゃありますね。覚え方を提供します

お茶いる?キープの4ハン国


お…オゴタイ=ハン国、都はエミール
茶…チャガタイ=ハン国、都はアルマリク
いる…イル=ハン国、都はタブリーズ
キープ…キプチャク=ハン国、都はサライ


これで覚えると、時計回りで国が覚えられます
頑張ってください

2013-12-20_17-46-10



この4ハン国の中で、イル=ハン国は急速にイスラム化していきます
支配地域の影響もありますが、7代のガザン=ハンはイスラム教を国教にしています
側近のイラン人、ラシード=アッディーンも有名で、「集史」というモンゴル史を書いています


結局、この戦いにフビライ=ハンは勝ちます

次に彼の勢力圏である中国の話をしましょう


元建国の語呂いきます
人に内緒(1271)で、元建国


都は大都(現・北京)です


1274年に文永の役、1281年に弘安の役で日本を攻めてます

1279年には、崖山の戦いで南宋を滅ぼしました


語呂です
いつになく(1279)、弱い南宋

ミャンマーのパガン朝を服属させることにも成功しています
ベトナム・ジャワにも攻めてますが、これには失敗しています


成功と失敗の理由は、明らかだと思います
彼らのストロングポイントである騎馬が活かせないと、
勝てないということですね


ベトナムは、森で有名です。森では騎馬の機動力は活きません
アメリカもベトナム戦争(1965~73)時に、森には手を焼き、枯れ葉剤まで使ってます


ジャワと日本は島国です。つまり海があるため、騎馬が無理なわけです
ちなみにジャワは、今のインドネシアです


モンゴルの統治は、モンゴル人第一主義といわれます

トップは、もちろんモンゴル人で、ついで色目人、漢人、南人となります
色目人は、中央アジア・西アジアの人です。色目人は、けっこう聞かれます
漢人と南人は漢民族ですが、最後まで抵抗した南宋を南人として、一番最下層に置いてます


こんな感じなので、科挙も一旦止めてます

文字も、ウイグル文字の流れを組む、モンゴル文字です
儀式などでは、パスパ文字が使われました


フビライ=ハイは、チベット仏教が好きで、お坊さんのパスパに頼んで、
新しい文字を作りました。もちろんチベット仏教も厚遇されました


紙幣は、金と同じ交鈔です


暦では、イスラムの影響を受けた授時暦を、郭守敬が定めています
日本人の渋川春海は、江戸時代に授時暦から学んで、貞享暦(1684)を作成しました
だいぶ、遅いですけどね


元は最終的に、紅巾の乱(1351 ~66)で滅んでます
別名、白蓮教徒の乱です


首謀者は、韓山童・韓林児の親子です

この時期、凶作が相次ぎ、漢人の不満が爆発していました
おそらくモンゴル人が統治が下手だったのが原因です


だってモンゴル人第一主義で要職に漢民族の人つけません
彼らが農業理解できるんでしょうか?

遊牧民ですよ。そりゃ、無理です

モンゴルの強さと弱さは、本当に馬に集約されると思います

馬が使えなければ、ボロがでるわけです


文化史
モンゴル支配時代の治安は、良かったです
何か問題あれば、馬で颯爽と駆けつけるわけですからね


この時代を「タタールの平和」といいます

ローマの「パックス=ロマーナ」と同じですね
ちなみにパックス(pax)は、ピース(peace)の語源です


この時期、支配領土もかつてなく、広大なので外国人が来ます

誰と会ったかをセットで覚えてください


まず、フランチェスコ派修道士プラノ=カルピニは、ローマ教皇インノケンティウス4世の命で、カラコルムに行き、3代グユク=ハンに会ってます
往復路、ともに陸路です


次のフランチェスコ派修道士ルブルックは、ルイ9世の命で4代モンケ=ハンに会ってます
往復路、ともに陸路です


5代フビライ=ハンに仕えたことで有名なのは、マルコ=ポーロです
彼は宣教師ではなく、ヴェネツィア出身の商人です
往路は陸路で、復路は海路でした

帰国後、ヴェネツィアと仲の悪かったジェノヴァで、牢獄に入れられます
そこで書かれたのが「世界の記述(東方見聞録)」です

ちなみに実際書いたのは、友人のルスチアーノです

マルコ=ポーロが、イタリアにジェラートを伝えたといわれます
黄金の国ジパング伝説も、彼の本がきっかけです


フランチェスコ派修道士モンテ=コルヴィノは、1294年にフビライ=ハンの没後、ローマ教皇ニコラウス4世の命で大都で布教活動を行いました
彼は海路で大都に到着し、そこで亡くなっています


モロッコ出身の旅行家、イブン=バットゥータは、中国・アフリカ等を旅行しました
彼の旅行記を「三大陸周遊記」といいます
往復路、ともに海路です


あとは演劇をいくつか覚えてください
元の演劇を元曲といいます


王実甫「西廂記」は、親に反対されながらも頑張る恋愛ものの作品です
こんな感じでジャンル分けして、テスト時にヒントにしてください


馬致遠「漢宮秋」は、匈奴に呼韓邪単于に嫁いだ王昭君の話です
前漢の実話です。もし呼韓邪単于を選ばせる問題があれば、確実にトップレベルの大学です

匈奴の有名人は、全盛期の冒頓単于です。単于(ぜんう)は、王様のことです
ファラオやハンと同じです


高則誠「琵琶記」は、夫が科挙を受けるため家を離れため、
妻が琵琶を弾きながら生計をたて、夫に会う話です
ジャンルとしては、夫婦ものでしょう


次回は、について話ます

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