ちょっと、このブログからズレますが、私の経歴を説明します。
私は、2002~2006年の4年間、世界史の教師をしていましたなんで辞めたのかを、けっこう聞かれるので、ここに書いておきます。
聞かれた時に、「ブログ読んどいて」で済むので、のとのち楽です
辞めた理由は、結構トリッキーです。大きくいって、3つの理由があると思います。
1.世界史の先生なのに、世界を知らない
2.社会の先生なのに、社会を知らない
3.職業として、教師である必要がない
まず、1から説明します。当時の自分は、「お前は世界を知っているのか?」という自問自答が絶えずありました。教師時点で、訪れた国は、数か国程度で、それも旅行で行っただけです。
それだけで、世界について、国家について語ることができるのか。外国に住んで、他国の生活や文化を知って、はじめて世界について語れるのではないかという思いがありました。
この思いは、完全にイッてますw
これ言い出したら、ほとんどの教師は、世界史の授業ができません 他の教師の方を、批判する気は毛頭ありません
ただ、自分自身が納得できないだけです
結果、フランスのリヨンという所に、1年留学することになります。町自体が世界遺産の京都のような所です。世界史受験では、聞かれない町です。
無理矢理、世界史にするなら、カエサルの部下が建設した町です。
-リヨン-
by wikipedia
次に、2について説明します。
-教師が、先生になるまでの図-
もう、わかりますね。教師は、社会を知りませんw
これは、今でも問題意識としてあります。少なくとも社会の先生は、サラリーマンでも、漁師でも、何でもいいので、社会経験を積むべきです
50%ぐらいは、社会人経験者をいれるべきです。
これは極端にいうと、恋愛経験ない奴が、熱く恋愛について語るのと一緒です。説得力がありません。実体験のない先生の教育によって、行き着く先は明確です。
ただ受験に必要なスキルだけを教える先生になるわけです。
これは説得力あります。彼らは、元受験生だったからです。実体験があります。しかし、このような教育に支えられた生徒は、正直歪(いびつ)にしかならないと思います
そんな気持ちがあったので、私はサラリーマンとして、6年ほど働きました。
最後に、3について語りましょう。私の尊敬する人に、吉田松陰や親鸞という人がいます。彼らは、教育者として優れた側面がありますが、本質としては、一人は革命家、一人は宗教家です。
-吉田松陰-
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
-親鸞-
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E
吉田松陰は、身分制度の厳しい時代に、卑しい身分など関係なく、教育を施しました。また彼自身が、行動することで、教育者たりました。
一番凄いことは、彼は生徒のために、意図的に死刑になったことです。彼は老中暗殺を企て、裁判を受けます。時代遅れの江戸幕府を変革するため、倒幕を考えたわけです
裁判官も、彼の純粋な心に打たれていますから、何とか死刑にならないように発言を誘導しますが、松陰はそれを拒絶します
自分の志に嘘をつかないのが、彼の信条です。今でいう馬鹿です。どうしようもない馬鹿野郎です。
そんな彼が、死刑間際に詠んだ句が、以下のものです。
「かくすれば かくなるものと 知りながら
やむにやまれぬ 大和魂」
訳すと、「こういう事件を起こしたら、死刑になるのは知っていたけど、私の日本を思う心が、止められませんでした」ということになります
彼に説得力があるのは、行動が伴うからです
次に親鸞さんですが、彼は先生といわれるのを嫌います。何人もの人が、「弟子にしてください」と来ますが、決まっていうのが、「一緒に勉強するのなら、私のそばにいても構わない」です
これは。「先生=生徒」という固定関係によって生まれる、学びの硬直化を恐れた発言です。人間は不完全な生き物ですから、絶えず学び続けなければいけません。
しかし、「先生、先生」言われたら、自分を偉いと錯覚して、学ぶのを諦めてしまいますよね。なにか世界の真理を、終着点を知った気にさせてしまいます。彼自身、他の人から学ぶことが多くあると、考えています。
親鸞さんは、この学びの停止を避けたのだと思います。だからこそ、同じ宗教を学ぶ同志として、本来は檀家と言われる人を定義したんです。
彼は、流動性の中に、自分の居場所を見たのだと思います。
最後に私です。このような人たちの動きを見ていますから、職業として教師を選択する必要性を、私は感じられなくなりました。
瞬間、瞬間で、私が教師になり、生徒になりさえすれば良いのです。世界史なら、教えることができるので、私は教師の立場になります。しかし、銀行家の友人の前では、私は金融を学ぶ生徒になるわけです。
ちょっと難しい言葉ですが、主体と客体は、絶えず入れ替わることができるわけです
この瞬間的に訪れる教師のために、わたしは松陰さんのように、行動し、実体験を積んでいくという気持ちが強くなりました。そうすると仕事を辞め、外に跳びでて、学びたい気持ちが抑えられなくなるわけです。
なので、理由の1,2,3には関係性がありますね
以上が、私が教師を辞めた理由になります。
2014年03月
講義 part56 -ヨーロッパ諸国の海外進出-
ヨーロッパで、数々の戦争があったことは、今まで勉強しましたね
今回は、その植民地版です。ポルトガル・スペインが良かった時代の後は、オランダですね。ポルトガル・スペインの主要な植民地は、すでにふれています
■講義 part43 -大航海時代 前半- (ポルトガル)
http://world-history.blog.jp/archives/2657949.html
■講義 part44 -大航海時代 後半- (スペイン)
http://world-history.blog.jp/archives/2702310.html
オランダは、けっこうな勢いで、ポルトガルから植民地をかすめ取ってます。一覧をあげると、ざっとこんな感じです
セイロン島⇒17cからオランダ
マラッカ⇒1641年からオランダ
モルッカ諸島⇒17c初からオランダ
ケープ植民地(南アフリカ)⇒1652年からオランダ
17世紀は、オランダと覚えておきましょう。そんなオランダの拠点は、バタヴィアです。これ、現在のジャカルタです。インドネシアの首都ですね
これが、オランダの東インド会社(1602)の拠点です。ちなみに3国の東インド会社の設立年は、覚えておいてください
1600年 イギリス東インド会社
1602年 オランダ東インド会社
1604年 フランス東インド会社
※フランスは、1664年のコルベールによる東インド会社再建も覚えておきましょう
江戸幕府の開府が、1603年ですから、植民地化が盛んになったのが、江戸時代のイメージを持ちましょう。
オランダにとって、インドネシアは絶対死守の場所です。当時のドル箱商品の香辛料の産地だからです。ここに、ちょっかいだしたのがイギリスです
1623年には、アンボイナ事件が発生し、イギリス人が惨殺され、インドネシアから追い出されます。インドネシアの支配権は長くオランダのものになります。このあとは、強制栽培といわれるシステムで、原住民を酷使します
語呂は、女の子名前シリーズで。
アンボイナ睦美(1623)
イギリスは、インドネシアで支配権を持てなかったため、インドに重点を置きます。インドは、フランスとの対決になります
各国の拠点都市は、以下です
イギリス…マドラス・ボンベイ・カルカッタ
フランス…シャンデルナゴル・ポンディシェリ
この都市は、場所含めてガッツリ聞かれるので、頑張って覚えましょう
17世紀は、オランダが主役でしたが、18世紀は、イギリスv.s.フランス のNO.1決定戦の時代です
イギリスv.s.フランス のインド争奪戦は、当初はフランス有利でした。フランスのリーダーは、デュプレクスという人でした
カーナティック戦争(1744~1763)では、デュプレクスが勝利を重ねましたが、彼は戦争に対する予算を莫大に要求するため、フランス側がうっとおしくなって、彼を解雇しました
このあたり、フランス絶対王政の弱点だと思います。インドの重要性を、イギリスほど理解できていなかったと思います
そこから形勢が変わります。最終的にイギリスの勝利になります。インドの支配が決定的になるのは、プラッシーの戦い(1757)です
ヨーロッパでは、七年戦争(1756~63)があった時期です。インドで活躍したのが、初代ベンガル知事のクライヴです
こんな戦いは、北米でも起きてます
イギリスの最初のアメリカ植民地は、ヴァージニアです。ヴァージン(処女)といえば、エリザベス1世です。彼女は、外交上の理由からも結婚しませんでしたね。そのため、植民地名が、こんな感じになってます
■講義 part50 -絶対王政(イギリス・フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/2902970.html
※エイザベス1世情報
この植民地を献上したのが、恋人とも噂されていたローリ(1552~1618)です。彼は、ヨーロッパにタバコを普及させたことでも有名です
-エリザベス女王との賭けに勝った男-
http://www.jti.co.jp/tobacco-world/journal/various/world1/09.html
トリッキーな問題で、「アメリカ原産のものは何ですか?」というものがあります
有名なものは、トマト、ジャガイモ、唐辛子、トウモロコシ、そしてタバコです
ローリ以後に来るのは、ピルグリム=ファーザーズという清教徒、ピューリタンです。なぜかというと、この時期にはイギリス国教会が確立される時期で、ピューリタンは、徐々に居場所をなくしていました。特にジェームズ1世は迫害していました
■講義 part52 -イギリス革命(ピューリタン革命)・名誉革命-
http://world-history.blog.jp/archives/4100267.html
彼らは、メイフラワー号という船でやってきて、植民を開始しました。そしてニューイングランドを作っています
彼らが、後のアメリカの基盤になる人たちです。そのため、アメリカの歴代大統領は、ほとんどピューリタンです
北米においてのイギリスとオランダの戦いは、イギリスが勝ちます。これは、イギリス=オランダ(英蘭)戦争のおかげです。これで1664年に、もともとオランダの領土だったニューアムステルダムを改名したニューヨークをゲットします
対するフランスも、ルイ14世にちなんで、ルイジアナを獲得し、カナダやケベックを支配下に置いています。ケベックの人たちは、今でもフランス語を話します
そんなイギリスとフランスが、めっちゃ戦争します。これは、第2次英仏百年戦争(1689~1815)といわれています。図を見てみましょう
-第2次英仏百年戦争-
同時多発的に、イザコザがありますね。こういう組み合わせは、正誤問題がよくでます。例えば、「ファルツ継承戦争があった時、北米ではジョージ王戦争があった」は、誤りですね
北米の領土は、段階的にイギリスのものになっていきます。ユトレヒト条約(1713)は、有名ですが、すでにふれていますね
■講義 part53 -ルイ14世(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/4169283.html
※ユトレヒト条約
それと同等に世界史で聞かれるのは、フレンチ=インディアン戦争を終結させたパリ条約(1763)です。ウィリアム王戦争など、いろいろありますが、北米の戦争ではフレンチ=インディアン戦争が一番聞かれます
■パリ条約(1763)
フランス⇒イギリスへの領土移動
・カナダ
・ミシシッピ川以東のルイジアナ
・ドミニカ
・セネガル※1783年にフランスに戻ります
スペイン⇒イギリスへの領土移動
・フロリダ
結局、なんでイギリスが破竹の勢いで勝てるかを分析すると、議会が整備されたことが大きいと思います。
緊急事態が起きた時に、政治家同士で話し合うのと、王様のご機嫌を伺いながら、意見をいうシステムでは、決定的に違いますよね
戦争は、勝てば総取りですから、負けた場合の負担がでかすぎます。このパリ条約(1763)の負荷が、確実にフランス革命(1789)の原因の1つになってます
日本が、いまだに中国・韓国にギャーギャーいわれるのは、敗戦という代償を払っていると考えると、理解できると思います。もう戦後、70年近いんですけどね...
次回、17~18世紀のヨーロッパ文化史に入ります
講義 part55 -啓蒙専制君主(ロシア)とポーランド分割-
啓蒙専制君主の続きです。ロシアについてふれましょう。
まずは復習からです。今、もめているウクライナにキエフ公国(9~13世紀)というのがありました。ウクライナの首都は、キエフです
ここからだけでも、ロシアとウクライナの結びつきが強いのがわかります。ロシアがウクライナを支配権に置きたい気持ちが理解できます
自分の国家のルーツになるエリアですからね
■講義 part33 -ローマ・カトリックの発展-
http://world-history.blog.jp/archives/2135662.html (キエフ公国)
キエフがガッツリ、モンゴル人にやられてしまい、その後に成立したのがモスクワ大公国(14~16世紀)でした。
■講義 part34 -ビザンツ帝国と東ヨーロッパ-
http://world-history.blog.jp/archives/2192820.html (モスクワ大公国)
この王朝衰退後、ミハイル=ロマノフがロマノフ朝(1613~1917)を建国します。できて早々は、ステンカ=ラージンの乱(1670~71)などが発生して、苦戦しました
このロマノフ朝を近代化させたのが、ピョートル1世(位1682~1725)です。この人がロシアの絶対王政を確立させますが、啓蒙専制君主ではありません
-ピョートル1世-
中国史でも、でてくる王様ですね。ネルチンスク条約(1689)を締結していましたね
■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html
基本、当時のヨーロッパの中心は、イギリスであり、フランスです。そこから離れているロシアは、田舎扱いです。ヨーロッパでロシアは2流・3流扱いです
ピョートル1世自身、それを理解しています
そしてロシアは、地政学的に致命的な弱点を持っています。それは海です海自体は領土内にありますが、凍らない港、不凍港がありません
大量の商品を運べる船による貿易は、お金を稼ぐうえで必須であるのに、1年中使える港がないのです。そのため、事あるごとにロシアは、バルト海、黒海、日本海への進出を企てます
ここで、ロシアと喧嘩になった国があります。それは、スウェーデンです。北欧の国とロシアで、バルト海をめぐる争いが始まります
スウェーデン王は有能なカール12世でしたが、これをロシア・デンマーク・ポーランド連合軍で倒します。ニスタット条約が結ばれ、ロシアはバルト海東岸の地域を手に入れます
ピョートル1世は、バルト海沿岸地域を開発し、ペテルブルグという都を作り、そこを首都にしました
モスクワから、だいぶ西側に寄せてきましたね。当時はインターネットなんてありませんから、最新の情報を得たい場合、物理的距離がそのまま影響します
そのため、いち早く情報を得たかったピョートル1世は、都を移したわけです。そのため、この都は「西欧への窓」ともいわれます
さらに彼は、東方への野心も捨てていません。探検家ベーリングを派遣して、ベーリング海峡の確認やアラスカの領有も行っています
このように基盤が整備された中で、啓蒙専制君主のエカチェリーナ2世(位1762~96)があらわれます。彼女はフランスの影響を受けてます。そのため、ヴォルテールとも親交がありました
-エカチェリーナ2世-
後発国家にありがちですが、彼女は農奴制を維持します。これに反対して1773年にコサックという集団が、プガチョフの乱を起こします。この鎮圧に苦労したため、彼女は余計、農奴制を強化します
また南下して、クリミア半島にあったクリム=ハン国を併合しています。ここから、ロシアとウクライナの因縁が生まれてきます
-クリミア半島の歴史や軍事的重要性-
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA2603W20140307 (ロイター)
さらには、当時衰退していたポーランドを、周辺のプロイセン・オーストリアとともに分割して、領土化します。全3回行い、最終的にポーランドは消滅します
ポーランドの境遇は、今の韓国に似ていると思います。まわりを中国・ロシア・日本に囲まれ、戦力的には絶対敵いませんから、中国に寄ったり、アメリカに寄ったりして、なんとか自分の立場を保持する姿勢は、日本外交よりも難易度が高いです
ポーランドの立場になれば、たまったもんじゃないです。弱肉強食の世界では、弱い者は何もできません。コシューシコという人が、これに抵抗しましたが、結局捕えられてしまいました
ポーランド人で聞かれる人は、世界史ではほとんどいません。しかし、彼の名は、受験では聞かれるので、必ず覚えましょう
-コシューシコ-
ポーランド分割の語呂です
何!(72)、くさ!(93)、人なく、ご(1795)ねるポーランド
ピョートルと同じく東への意識もあります。その影響で1792年にラクスマンが根室に来航します。部下との組み合わせを間違わないでくださいね
ピョートル1世 - ベーリング
エカチェリーナ2世 - ラクスマン
彼女のいた時代、世界でデカイ事件が起こってます。まずアメリカで独立戦争(1775~83)が起きてます。またフランス革命(1789~99)も起きます
独立戦争では、1780年に武装中立同盟を結成し、イギリスに干渉しません。当時、世界のトップはイギリスです。そこの拠点であるアメリカが独立するのは、ロシアにとって願ったり、叶ったりです。相手の力を削げますからね。
かといって、積極的に戦争もしません。自分たちの力が低下します。中立という名目で、足を引っ張るわけです。それよりも彼女にショックだったのは、フランス革命だと思います
王が主役と思っている時代に、国民が主役の価値観が台頭したわけですからね。
激動の時代に生まれた彼女ですが、ロシアの拡大化には成功したと思います
次回は、ヨーロッパの植民地について話します
講義 part54 -啓蒙専制君主(プロイセン・オーストリア)-
さて、イギリスのように議会を主役にして国をまとめる方法を前々回学びましたが、王様が賢くなることで国をまとめようという考えも生まれました
それが、啓蒙専制君主です
この考えの発案者が、フランスのヴォルテールです。この人は、文化史で激聞かれるので必ず覚えましょう簡単にいうと、理性によって国をまとめようという発想です
当時は、迷信が信じてられていた世界です。王の感情によって、人の命は紙くずのように捨てられていました。感情による判断を避け、賢く行動しましょうというのが理性であり、啓蒙思想です
啓蒙思想の影響を受けた人が、啓蒙専制君主です
-ヴォルテール-
代表的な人は、プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世、ロシアのエカチェリーナ2世です
プロイセンは、ドイツにできた新興国家です。始まりはドイツ騎士団です。この騎士団領が、神聖ローマの名門ブランデルブルク選帝侯国と合併します。ここのホーエンツォレルン家が、多くの優秀な王を輩出していきます
■講義 part35 -十字軍-
http://world-history.blog.jp/archives/2362950.html
※ドイツ騎士団
■講義 part37 -封建社会の崩壊と十字軍以後の主要国家-
http://world-history.blog.jp/archives/2423381.html
※ブランデルブルク選帝侯国
フリードリヒ1世(位1701~13)の時、スペイン継承戦争で武勲をあげ、プロイセンは王国になります。赤ひげといわれ、十字軍に参戦した神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(位1152~90)とまったく同名なので、注意です
フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位1713~40)は、軍隊王といわれるように、軍隊を整備しました。で、一番聞かれるのが、フリードリヒ2世(位1740~86)です。彼は、啓蒙専制君主ですね
彼は「君主は国家第一の僕」といい、国家の拡大に尽力しました。この言葉、テストにでます記憶しておいてください
-フリードリヒ2世-
これも十字軍時代の人に同じ名前の人がいるので注意です。このフリードリヒ2世が、フランスとオーストリアの対立をうまく利用して、領土を獲得します
それが、オーストリア継承戦争(1740~48)です
語呂です
なじれ(1740)、テレジア。世は(48)あきまーへん(アーヘン和約)。
この戦争は、オーストリア・ハプスブルク家のマリア=テレジアが、神聖ローマ皇帝に即位する際、ブルボン家のフランスが反対してたことで勃発しています。下画像の右のおばちゃんです。若い時はカワイイです
-マリア=テレジア-
-若かりし、マリア=テレジア-
彼女は、16人の子供を産んでます。馬力がありますねその15番目の子供が、マリ=アントワネットです。フランス革命時の悲劇の女王ですね
よくあるブルボン家とハプスブルク家のケンカですね。これにフリードリヒ2世が、フランス側で参戦します。プロイセンはこの戦争で、工業と鉱業で有名なシュレジエンをゲットします
マリア=テレジアは、神聖ローマ皇帝に即位できましたが、プロイセンに領土が奪われたのが納得できていませんでした。そのため彼女は、宿敵フランスと同盟を結びます。これを外交革命といいます
そしてリベンジマッチを仕掛けます。それが、七年戦争(1756~63)です。
語呂です
いーなコロコロ(1756)、七年戦争
ここでプロイセンは、最大のピンチです。フランス・オーストリア、さらにロシアまでを敵に回していますからね。イギリスと同盟を結び、先制攻撃を仕掛けましたが、終始劣勢でした
フリードリヒ2世は確かに優秀でしたが、幸運もありました。まずロシアの王が亡くなり、親プロイセンの王が新たに即位します。またイギリスが、フランスとの植民地争いに勝利します
これで、オーストリアとプロイセンの単独の戦いになります。フリードリヒ2世は、なんとかフベルトゥスブルク条約で講和します。プロイセンは、シュレジエンを確保することに成功します
プロイセンの置かれている状況は、新興国家の苦労をうまく表現しています。これは、明治維新で遅れて発展した日本にも類似しています
もともとあった老舗に、ベンチャー企業が挑むようなものです
ベンチャーは不安定な経営基盤のため、少しの不安定要素があるだけで、倒産の危機がやってきます。そのため、フリードリヒ2世のような啓蒙専制君主が生まれたのは、歴史の必然だと思います。賢い王様でない限り、新興国家を拡大できませんからね
彼は、ユンカーという地主貴族を支持基盤に、国家を大きくしました。フリードリヒ2世をもってしても、一部のエリートを利用した突貫工事でしか国を拡大できませんでした
プロイセンの前近代的姿であるグーツヘルシャフトは改善されていません。グーツヘルシャフトとは、ユンカーによる農奴経営です。近代国家になる上で、農奴の解放は必須です
アダム=スミスから始まる自由主義経済学は、その名の通り、自由に重きを置いています。自由が実現されてはじめて、切磋琢磨された競争原理がうまれます
農奴はそれを放棄し、他人に依存し、自ら考えることを止めています。
つまり経済的発展が、頭打ちになるわけですね。まぁ、しょうがない部分もあります。アダム=スミスの名著「諸国民の富」が刊行されたのが1776年ですから、自由競争の原理が理解され、浸透するのには時間が必要です。プロイセンに積み残した課題があるということですね
オーストリアのほうも、農奴については考えていました。取り組んだのは、マリア=テレジアの息子、ヨーゼフ2世(位1765~90)です。ちなみにヨーゼフ2世は、マリア=テレジアの画像にも写ってます
-ヨーゼフ2世-
彼は、1781年に農奴解放令を発表します。この改革は、最終的には保守派によって潰されていますが、啓蒙思想が農奴に対しての問題意識を生んだのだと思います
次回も、啓蒙専制君主について話します
講義 part53 -ルイ14世(フランス)-
すでにルイ14世についてはふれてますが、彼のした対外政策について話したいと思います
■講義 part50 -絶対王政(イギリス・フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/2902970.html
-ルイ14世-
彼がフランスの絶対主義の最盛期でしたね。絶対主義の王様の流行は、王権神授説です。「神が王になれと言っている。だから、なんでもやっていい」という考えです
そのため彼は、自分を「朕は国家なり」と言ってます。相当な自信がないと言えないセリフです。彼が作らせたバロック式の傑作、ヴェルサイユ宮殿を見ても、彼の自信がわかります
2回行ったことありますが、とにかくデカイ場所ですパリ近郊にあります
-ヴェルサイユ宮殿-
彼は財布係のコルベールの力を借り、国力の拡大をはかります。彼は王立マニュファクチュアを設立し、輸出向けの毛織物を製造しました
また東インド会社を強化させました。ちょっと頭の悪いこともしてます。ナントの勅令廃止(1685)です
語呂です
異論は来(1685)ないナントの勅令廃止
ナントの勅令(1598)は、ユグノーの存在を認めたものでしたね。ルイ14世はカトリックなので、これを否定します。ユグノーはフランスにいられなくなり、海外に行ってしまいます。プロテスタントは商売がうまかったので、徐々にフランスの力が衰える原因になります
この結末が、フランス革命(1789)になるわけです
「朕は国家なり」と言っている人ですから、戦争を一杯します。国家が拡大すると、ルイ14世のプライドも拡大するのでしょう
最初は、南ネーデルラント継承戦争(1667~68)です。この地域は、現在のベルギーですね。当時はスペイン領でした。ベルギーの次はオランダに来るだろうということで、オランダはスペイン側にたちます
アーヘン和約によって、フランスは多少の領土を得ますが、ルイ14世はもっと領土がほしがります。邪魔したオランダに逆ギレで、戦争を仕掛けます。それがオランダ侵略戦争(1672~78)です
この戦争はナイメーヘン和約によって終結しますが、結局たいした領土をゲットできません
次がファルツ継承戦争(1688~97)です。神聖ローマの有力諸侯の領土に目をつけたわけです。ブルボン朝のライバル、ハプスブルク家の勢力を削げますからね
しかし、神聖ローマ・スペイン・イギリス・オランダと有力な国のほとんどがフランスに対抗します。ライスワイク条約を結びましたが、フランスはまたも成果をあげられませんでした
ルイ14世は最後にデカい戦を仕掛けます。それがスペイン継承戦争(1701~13)です。スペインのハプスブルク家断絶の隙をついて、ルイ14世は孫のフェリペ5世を即位させます。これ以後、スペインはブルボン家になります(1700~1931)
語呂です
いーな、おい(1701)!いーさ(13)、スペイン継承戦争
スペインのブルボン化に成功し、味を占めたフランスは、植民地の拡大にも乗り出します。いつものようにフランスは、ほとんどの国を敵にまわしますw勝てるわけないですね
ユトレヒト条約(1713)によって、フランスの拡大はだいぶ抑えられました。以下の内容は覚えましょう
■ユトレヒト条約
1.スペインとフランスの併合禁止
2.ジブラルタル・ミノルカ島は、スペイン⇒イギリス領
3.ハドソン湾地方・ニューファンドランド・アカディアもフランス⇒イギリス領
-ジブラルタル・ミノルカ島-
-ハドソン湾地方・ニューファンドランド・アカディア-
ルイ14世は、めちゃくちゃ在位期間が長いです。1643~1715年の72年間を王様しています。当時の王政は、王様が亡くなるたびに、継承で揉めます
長く君臨することは、国家の安定に貢献するわけですね。しかし、戦争し過ぎです最盛期の王は彼で間違いないですが、フランスを苦しめた人ともいえるでしょう
次回は、啓蒙専制君主の話をします