世界史サロン

元教師がおくる世界史講義と、ニュースを世界史で読み解くブログ

2014年05月

さてフランスの話です。フランスを見てると、民主主義はすぐにはできないことがよくわかります。この講義では、さらっと流していましたが、フランス革命の最終局面で、ナポレオンが登場したのは、民主主義の悲劇だと思います

民主主義は、独裁者に頼りません。にもかかわらず、独裁者のナポレオンを生んでいます。これは歴史の皮肉ですね

■講義 part62 -総裁政府とナポレオン-
http://world-history.blog.jp/archives/5437815.html
※ナポレオン情報

民主主義は、本当に少しづつしか、前に進みません。なので、独裁者がドラマティックに改革すると、「そっちがいいな」となります

これは甘い罠です。独裁は、運命的に腐敗するからです。民主主義の利点は、政治腐敗を前提に作られている所です。つまり、選挙です

これがあるので、独裁者が乱暴しても、選挙で落とすことができます。なので、民主主義は弱点もありますが、マシなんです

私の好きな政治家、チャーチル(在任1940~45、51~55)の言葉を引用しましょう。この人はイギリスの軍人かつ、首相です。第二次世界大戦あたりで勉強します

「本当に民主主義は、最悪の政治形態だ。今まで試された民主主義以外のあらゆる政治形態を除けばの話だがね」

-チャーチル-
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フランス民主主義の苦しみは、また独裁者を誕生させます。それがナポレオン3世(在位1952~70)です。皇帝就任前は、ルイ=ナポレオンといいます。名前でピンと来ると思いますが、ナポレオンのです

-ナポレオン3世-
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ナポレオン3世は、第二共和政の矛盾点をうまく突いて、トップになります。まず第二共和政で、選挙をやって実権を握ったのは、ブルジョワでした。金持ち集団です。ここと労働者・農民が対立します

労働者・農民から人気を得たのが、ナポレオン3世です。今の政治に不満を持っている人々を取り込んだわけです。国民は、彼に良かった頃のフランスを見るわけです。ナポレオン3世が七光りでなかったのが、ブルジョワもちゃんと保護したことです

就任後、国民すべてにいい顔したのが、彼です。ブルジョワは、社長です。彼らは、一杯給料を払いたくありません。労働者は給料欲しいです。矛盾がありますね。これを解消するのが戦争です

戦争で獲得した戦利品を使って、会社を保護、拡大させ、労働者のために保険を整備し、農民の土地所有を保護しました

これをボナパルティズムといいます。この政策は、戦争に負けた瞬間に終わります

まずはクリミア戦争(1853~56)で、ロシアと対立しましたが、ここに勝利します。中国にもアロー戦争(1856~60)で勝利します。イタリア統一戦争(1859)では、イタリア側で参戦し、最終的に領土をゲットしてましたね

■講義 part67 -イタリアの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6154501.html
※イタリア統一戦争情報

インドシナ出兵(1858~67)では、ベトナムを支配下に置きます。とにかく戦争ばかりで、勝利していましたから、人気もありました

しかし、メキシコ出兵(1861~67)で敗北します。この時、メキシコの責任者、マクシミリアンを見捨てて撤兵したため、人気が赤丸急降下です

このミスをなんとか回復しようとやった戦争が普仏戦争(1870)です。これがナポレオン3世の致命傷になりますこの時、弱小と思われていたプロイセンは、じっくりと戦争の準備をしていましたね

■講義 part68 -ドイツの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6184102.html
※普仏戦争情報

スダン(セダン)という町で、彼は捕虜になり、負けます。とにかくナポレオン3世は、彼が関与した戦争を覚えてくださいね「この戦争の時のフランスの大統領は誰ですか?」みたいな問題は、よくでます。以下が、彼の関与した戦争です

・クリミア戦争
・アロー戦争
・インドシナ出兵
・イタリア統一戦争
・メキシコ出兵
・プロイセン=フランス(普仏)戦争


1871年に臨時政府がたてられ、これがまたブルジョワ中心だったので、労働者は自分たちで、他の政府を建てます。それがパリ=コミューンです。この時、大統領のティエールは、これを徹底的に弾圧して潰します

彼が後に、第三共和政(1870~1940)の初代大統領になります。また七月王政期も、首相(在任1836、40)をやっていました

ちなみに第三共和政は、ナチスに占領されるまで続きます

フランスは、覚える王朝が3つしかないので、王朝暗記は、イギリスと比較して楽ですが、政治形態が頻繁に変わるので、そこを必ず覚えましょう

■講義 part37 -封建社会の崩壊と十字軍以後の主要国家-
http://world-history.blog.jp/archives/2423381.html
※イギリス・フランス王朝情報

政治形態の流れは、以下です

第一共和政⇒第一帝政⇒復古王政⇒七月王政⇒第二共和政⇒第二帝政⇒第三共和政

「第一共和政はロベスピエールで、第一帝政はナポレオンだったな」とイメージできないと世界史では戦えませんよちなみに第二次世界大戦後は、第四、第五共和政です。現在のフランスは、第五共和政(1958~)の時代です

次回は、イギリスのヴィクトリア時代いきます

それでは、ドイツの統一を話しましょう

まずは、復習です。ドイツは長く神聖ローマ帝国(962~1806)が支配し、領邦国家といわれる小さい国の結集した連合国家みたいなものでした

他の絶対主義の国のように1つにまとまっていないので、ヨーロッパで発言権はあまりありませんでした。そこで主導的立場になりたかったのが、プロイセンオーストリアです

■講義 part54 -啓蒙専制君主(プロイセン・オーストリア)-
http://world-history.blog.jp/archives/4180347.html

ナポレオンによって、神聖ローマを滅ぼされ、まず主導権をとったのが、オーストリアです。ウィーン議定書覚えてますか?

ドイツ連邦の盟主は、オーストリアでしたね。まぁ、メッテルニヒがバリバリ活躍してますから、プロイセンは勝てません。ここまでは勉強したと思います

■講義 part63 -ウィーン会議-
http://world-history.blog.jp/archives/5889961.html
※ウィーン議定書情報

ここで、プロイセンはドイツ関税同盟(1834)を結成して、巻き返しをはかります。経済学者リストの助言に基づいています。保護貿易主義というやつです

2種類の貿易があって、それは自由貿易と保護貿易です。これは対立する考え方です。全体で見ると、長期的には自由貿易は正しいのですが、自国の利益(※これをナショナル・インタレスト=国益といいます)を考えると、軟弱な産業を保護して、成熟するまで育てる保護貿易も悪くはありません

ちなみに自由貿易は、政府など関与せず、好きにさせれば良いという考え方です

プロイセンは、新興国ですから、イギリスなんかと真っ向勝負したら砕け散るだけです。だから、プロイセンは保護貿易を採用し、自国が強くなるのを待つわけです。イタリアと同じ、弱小国の苦しみです…

次にプロイセンに来たチャンスは、二月革命(1848)です。ここでフランクフルト国民議会を開催し、フリードリヒ=ヴィルヘルム4世をドイツ皇帝にしようとしますが、失敗します

■講義 part65 -七月革命・二月革命(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/6038154.html
※二月革命情報

ドイツ統一は、プロイセンが軸の小ドイツ主義とオーストリアが軸の大ドイツ主義で揉めます。プロイセンは、二月革命のドサクサでも、ドイツを自分のものにできませんでした

オーストリアが設定したウィーン体制は崩壊し、弱体化した時にさえ、自分の意見が通らなかったのです。ここで、プロイセンはじっくり軍事力を蓄える道を選択します

私の中では、世界史上5本の指に入る政治家ビスマルク(在任1862~90)が、ここで登場します

-ビスマルク-
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また当時の国王も賢明で、ヴィルヘルム1世(在位1861~88)といいますが、彼は国王でありながら、ビスマルクの好きに政治をさせました

この二人三脚で話は、進みます。ビスマルクが採用したのが鉄血政策です。鉄=武器、血=兵士のことです。彼の発言は、こんな感じです

「現在の大問題は言論や多数決でなく、鉄と血によってのみ解決される」

弱いままだと、誰も意見を聞かないということです。そのため軍拡を宣言します。これは脆弱な海軍しかないベトナムが、ギャーギャー騒いでも、結局中国のゴリ押しが通る世の中を見れば、理解できると思います

-ASEAN首脳会議 南シナ海、中国へ圧力…G20に代表、支持訴え (ニュース)-

産経ニュース 2014.5.12 00:17
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140511/asi14051120340003-n1.htm

ASEANは、東南アジアの連合体です。全部あわせても、たぶん中国に勝てません。なので、いくら言っても、中国は無視すると思います

プロイセンは力を蓄え、オーストリアとの戦争の準備をします。オーストリアと戦争するために、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題にオーストリアを巻き込みます

当時、ドイツとデンマークで国境地帯で揉めていました。そこがシュレスヴィヒ・ホルシュタインです

-シュレスヴィヒ・ホルシュタイン-
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プロイセンもオーストリアもドイツ人ですから、ここでは共闘できます。デンマーク戦争(1864)で、プロイセン・オーストリアは、デンマークを倒します

結果、シュレスヴィヒをプロイセンが、ホルシュタインをオーストリアが管理することになります。この地域を最終的にどちらのものにするのか、ケンカが始まります

これビスマルクが仕組んだ罠だといわれています。彼は、ホルシュタイン地区へ、しばしば軍を侵入させて挑発します。これにオーストリアは、戦争を決意します

この時、プロイセンには軍事の天才モルトケがいました。彼はプロイセンの軍事担当です。プロイセンは戦争を想定して、準備をしていました。戦争に勝つために必要なのは、兵站(へいたん)です。あまり聞かない言葉だと思いますが、戦争学では常識の言葉です

この言葉は簡単にいうと、戦争を継続するために必要な補給のことです。この兵站を確保することで、戦争が圧倒的に有利になります

たとえばナポレオンがロシアで失敗したのは、焦土作戦によって、補給ができなかったことにありましたね

■講義 part62 -総裁政府とナポレオン-
http://world-history.blog.jp/archives/5437815.html
※焦土作戦情報

モルトケがしたことは、鉄道電信の整備です。これをオーストリア国境付近までひきます。電信は通信設備のことですね。鉄道によって物資を、電信によって情報を素早く渡すことができます。兵站を確保したわけですね

こんなことは、戦うことを前提にしないとできません

そして、この戦略をオーストリアは知りません。プロイセン=オーストリア(普墺)戦争(1866)が開戦し、サドヴァの戦いで大勝し、オーストリアは雪崩をうって敗れます。この戦争は、七週間戦争ともいいます

プロイセンは、ドイツ連邦を解体し、プロイセンを盟主した北ドイツ連邦(1867~71)結成に成功します。シュレスヴィヒ・ホルシュタインもプロイセンのものになります

オーストリアは、この後ドイツを諦めて、東ヨーロッパの支配に重点を置きます。オーストリア=ハンガリー(二重)帝国に改名します

しかし、プロイセンはオーストリアをあまり追い込みませんでした。本来なら賠償金やもっと領土の割譲を求めますが、それをしませんでした。理由は、フランスです。ここと対峙することを考えると、敵は増やせません

イタリアの時も、フランスはちょっかいだしていましたね。フランスはデカくなる国を牽制します。1868年にスペイン王位継承問題でも、プロイセンの王族レオポルトが一時即位することが決定しましたが、それをフランスは取り消しにしました

この時の状況説明を、ビスマルクはあえて過激にプロイセンに説明します。これをエムス電報事件といいます。これでフランス憎しの炎がプロイセンに蔓延します。フランスもそこまでの発言をしていないので、怒ります。これで戦争です

もちろんプロイセンは、フランスと戦争する準備をしっかりしていました。またフランス自身は、新興国なんかに負けるわけないという過信がありました。すでに勝負は決まっています

プロイセン=フランス(普仏)戦争(1870)は、プロイセンの大勝利に終わります。フランクフルト講和条約、これでフランス屈指の工業地帯アルザス=ロレーヌをゲットし、賠償金50億フランももらいます

さらに北ドイツ連邦を格上げしたドイツ帝国(1871~1918)の建国を、ヴェルサイユ宮殿で宣言します。

-ドイツ帝国の宣言-
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ドイツがプロイセンのものになる流れは以下です
ドイツ連邦⇒ドイツ関税同盟⇒北ドイツ連邦⇒ドイツ帝国

順番の並べ替え問題もでますから、しっかり覚えましょう。これにフランクフルト国民議会を混ぜるパターンもあります

他国の建国宣言をヴェルサイユ宮殿でされるほど屈辱はないと思います。ビスマルク自身もそれを理解しています。そのため、今後はいかにフランスを孤立させるかに力を注ぎます

孤立化を促進させるのは同盟です。日本が米国と仲良くしているのは、間違いなく中国を孤立化させるためです。ビスマルクは、恩を売っていたオーストリア、さらにロシアを誘って三帝同盟(1873)を結成します

これは、ロシアとオーストリアがバルカン半島の領有をめぐって、揉めだした結果、崩壊します。次に結成した同盟は三国同盟(1882)です。ここにはイタリアを誘いました
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一旦離れましたが、とにかくビスマルクは、フランスとロシアが手を組むことを恐れています。挟み撃ちという最悪の事態を想定するからです

ドイツはそのため、ロシアと再度条約を結びます。それが再保証条約(1887)です。これによって、フランスの孤立化に成功します

この状態が維持される限り、ドイツは安泰です

これだけやっただけでも凄いですが、ビスマルクは同時に国内も整備していました。まずドイツはプロテスタントの国のため、カトリックを弾圧していました。これには中央党というカトリック集団が反発します。これを文化闘争(1871~80)といいます。宗教集団は強い結束がありますから、ビスマルクはここの弾圧は、次第に止めていきます

彼の経済政策は、保護政策です。新興国ですから、「ヨーイ、ドン!!」で戦えません。なので、自国の会社を特に産業資本家とユンカーを助けます

ユンカーは、地主さんのことです。以前にも触れています

■講義 part54 -啓蒙専制君主(プロイセン・オーストリア)-
http://world-history.blog.jp/archives/4180347.html
※ユンカー情報

これによってクルップなんていう兵器会社は急成長します。成長の陰では、だいたい労働者が犠牲になります。社会主義勢力が増えるわけですね

社会主義者の中には、皇帝を狙撃して、不満を訴える人もいましたから、ビスマルクは社会主義者鎮圧(1878)を制定しました。これによって弾圧されたのが、ドイツ社会主義労働者党です。めっちゃ長い名前ですが、めっちゃでます。覚えましょう

こんな感じで合併してできた集団です
全ドイツ労働者同盟(ラサール派)社会民主労働党(アイゼナハ派)=ドイツ社会主義労働者党

ビスマルクは、社会主義運動には細心の注意を払います。基本大多数は、労働者ですから、一歩間違うと、自分が退陣することになります

彼がやったことが保険の整備です
疾病保険制度(1883)
災害保険制度(1884)
養老保険制度(1889)


「皆さん、我が政府は国民のことを考えてますから、社会主義に騙されないでください」というのが彼の主張です。これによって団結の流れを削ぎます。これを「アメとムチ」の政策といいます

彼が内政・外政ともに一流なのがわかりますね。彼は過去の人々の失敗や成功から学んで、未来を見つめた希有な人だったと思います。最後に彼の言葉を紹介します。これをできていない人は、凄い多いと思います

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

これ、試験にはでない言葉ですが、俺は大好きです

次回は、フランスの第二帝政いきます

さてイタリア統一の話です。イタリアは、ローマ帝国滅亡以後、強大な国家は形成されていません。また各都市の独自色が強く、なかなか一致団結することがありませんでした

■講義 part32 -ゲルマン大移動-
http://world-history.blog.jp/archives/2041598.html
※西ローマ帝国の滅亡

だからこそ、今でもイタリアのサッカーは、盛り上がりますいつも国内の試合が、外国との試合のようになるからです

しかし、そんなイタリアの状況を許さないのが、外圧ですヨーロッパの始まりの地であり、ルネサンスのような文化発信地でもありますから、各国がイタリアを自分のものにしたがります

■講義 part45 -ルネサンス(イタリア)-
http://world-history.blog.jp/archives/2709891.html

長い間、イタリアの統一は議題にあがり、消えていきました。ナポレオン以後、ナショナリズムの息吹が流れ込み、ふたたび統一ムードが高まることになります

カルボナリの暴動は、ウィーン体制に反対して起こっていましたね

■講義 part64 -ラテンアメリカ諸国の独立とギリシア独立戦争-
http://world-history.blog.jp/archives/6006451.html
※カルボナリ情報

二月革命(1848)では、マッツィーニ「青年イタリア」を結成して、ローマ共和国を樹立しましたが、すぐに鎮圧されました

こういう時は、有力な都市国家が名乗りを上げないと、なかなかキツイと思います。日本も、薩摩(鹿児島)・長州(山口)という有力な藩が立ち上がったので、明治維新(1868)が成功しています

明治維新の年代を見てもらうとわかりますが、ナショナリズムの影響を、日本も受けています。ペリーが来た時(1853)、日本もある意味、都市国家で、まとまりがありません

江戸幕府は、まとまっていないのを理解していたからこそ、参勤交代で金を使わせて、反乱の芽を摘んでいました

イタリアの統一に活躍した国は、サルデーニャ王国です。都は、トリノです

-サルデーニャ王国-
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-トリノ-
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カルロ=アルベルト(在位1831~49)は、二月革命を機に、オーストリアと戦いましたが、敗北しています。統一もできていない国に、ヨーロッパの主要国に勝つ可能性はありません

彼の息子、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(在位1849~61)は、カヴールを首相に任命し、タッグを組んで、まずは国力増強に取り組みます

-カヴール-
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彼らの主敵は、オーストリアです。ここと対峙するためには、他国がオーストリア側につかないようにしなければいけません

まずクリミア戦争(1853~56)において、英・仏側にたって参戦します。これで恩を売って、英仏を取り込む作戦です

次にプロンビエール密約(1858)をフランスと結びます。ここでは、サヴォイア・ニースという自国の領土を割譲してまで、オーストリアと戦う際、イタリア側につくことを約束させます

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万全の準備をして、オーストリアとの戦争を始めます。それをイタリア統一戦争(1859)といいます。この戦い、フランスもサポートしていますから、連戦連勝でしたが、まさかの自体が訪れます

フランスの裏切りです

フランスはイタリアの強大化を恐れ、オーストリアとヴィラフランカ条約を結び、戦争をやめます。イタリア単独では、勝てませんから、これで戦争は終わりです…

しかし、なんとかロンバルディアを獲得できました

-ロンンバルディア-
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つぎに中部イタリアの併合に乗り出すと、今度はフランスがちょっかいをだしてきますとにかく弱小国家は、キツイです

ここは、プロンビエール密約で破断になっていたサヴォイア・ニースを渡すことで、納得してもらいます。まさにクレーマーですwこれで中部イタリアの併合完了です(1860)

ちょうど同時期に、怒涛の勢いで、シチリア王国を倒し(1860)、南部イタリアを手中におさめた男がいました。彼の名をガリバルディといいます

-ガリバルディ-
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彼の率いる義勇軍、千人隊(赤シャツ隊)は強固で、サルディーニャ王国のライバルになる勢力でしたが、内輪揉めの場合じゃないというこで、領土を王国に献上し、彼は引退します

潔いよい男だと思います

これで1861年、ついにイタリア王国が成立します。都はトリノ⇒フィレンツェ⇒ローマと変遷することも覚えておいてください

この後のイタリアには、幸運が訪れます。ライバルのオーストリアがプロイセンと戦争になります(普墺戦争)。これに参戦してヴェネツィアをオーストリアからゲットします(1866)

さらに裏切りのフランスもプロイセンと戦争(普仏戦争)になります(1870)。これによって、教皇領はフランスの庇護を失い、その隙をついて、占領します(1870)。翌年から、イタリアの都は、ローマになります

これで宿敵オーストリアが持っている南チロル・トリエステという「未回収のイタリア」以外のすべてを統一することができました

-未回収のイタリア-
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ここの領土をゲットするのは、だいぶ先の第一次世界大戦終了(1919)までかかります。とにかく日本を含む弱小国が、世界と戦うレベルまであげていくのは、難しい作業だということが、理解できたと思います

次回は、同じ境遇のドイツの統一について話します

さて自由主義社会主義について説明します。これを理解しておくと、今の政治系ニュースもスッキリ理解できます

自由主義は、字の意味通り、自由拡大を優先順位の1位にします。経済だったら、国が関与せず、自由にやらせておけ、政治だったら、選挙権の拡大、個人の権利も、貴族や聖職者だけでなく、平民に解放となります

対して社会主義は、平等を優先順位の1位におきます。国民の平等を実現するためには、経済にも関与を求めます。政治は、みんなで考えることが理想になります。この考えは、労働者の扱いが極端に悪い19世紀は、彼らの権利拡大に向かっていきます

前回あげたフランスのルイ=ブランは、国立作業場を設立して、雇用を作っていましたね

■講義 part65 -七月革命・二月革命(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/6038154.html
※ルイ=ブラン情報

日本で言えば、自由主義の影響を受けているのは、自民党です。労働環境の自由化を実現することで、経済の拡大を狙っています

-労働市場の流動化目指す自民 参院選に向け政府攻撃の材料に-
Jastニュース 2013年4月18日
http://www.j-cast.com/2013/04/18173109.html?p=all

社会主義は、民主党・社民党・共産党あたりが影響受けてます。労働者の権利保護のため、労働市場の流動化に反対です

-正社員雇用の流動化に道開く-
赤旗 2013年6月24日(月)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-24/2013062402_01_1.html
※赤旗は、共産党の新聞メディアです

さて自由主義の話をしましょう。自由の拡大は、イギリスで著しく進みます。まぁ、当時の世界NO1ですから、当然です

まずは宗教差別を排除します。イギリスは、1801年にアイルランドを併合し、大ブリテン=アイルランド連合王国を作っています

ここで問題が発生します。審査法です。これは国教徒にのみ、公務員になれる権利を与えた法律です。アイルランドは、カトリックなので、イギリスでどんなに努力しても先がありません。2級国民のような扱いです

■講義 part52 -イギリス革命(ピューリタン革命)・名誉革命-
http://world-history.blog.jp/archives/4100267.html
※審査法情報

まずは審査法廃止されます(1828)。この法律廃止で、カトリックを除くひとに、権利が与えれました。「カトリックも認めろ」と当然なり、1829年カトリック教徒解放法が定められ、権利が認められました。ここで活躍したのが、アイルランドのオコンネルです

語呂です
良い奴や(1828)、審査法廃止、翌年カトリックも解放

次に選挙の話です。当時の問題に腐敗選挙区というのがありました。これは人口の移動によって発生した話です。昔は一生同じ土地に住む人が多かったのですが、産業革命以後、都市に集中して仕事があります。そのため、村の人口が減ります

本来ならそれに合わせて、政治家の人数も減らすべきでしたが、それをしていませんでした。それが腐敗選挙区の問題です。村で政治家になるのは、金持ちです。極端な話、人口1000人の過疎化地域に金持ちがいれば、買収は簡単です

ホイッグ党のグレイ内閣は、それを問題視して第一回選挙法改正(1832)を行います。翌年には工場法を制定し、奴隷制廃止を実施しています

いろいろな人たちの権利が増えていますね

ただ、選挙法は数回にわたって、イギリスで改正されていきます。第一回の改正は、簡単にいうと、金持ちに選挙権を与えただけです。例えば年収1000万円以上に選挙権みたいな不完全なものです。当然、都市労働者などは、そこまでの収入がありません

「俺にも選挙くれ運動」であるチャーティスト運動が始まります。彼らの目標は、人民憲章(ピープルズ=チャーター)にまとめられました。内容は、男子普通選挙、無記名秘密投票の実施ぐらいは覚えてください

貿易関係でも自由が拡大していきます。穀物法(1815)というのがあり、イギリスの地主は価格を保護されていましたが、消費者から見ると、安い穀物が買えません

そのため、コブテン・ブライト反穀物法同盟を結成し、これに反対しました。ついに1846年穀物法廃止に漕ぎ着けました。ピール保守党内閣の時です

1849年には、航海法も廃止されました。これはイギリスが、当時最新の経済政策である自由貿易主義を採用したことにあります

語呂です
穀物、ヨロ(1846)シク(1849)、航海廃止

次に社会主義の話をしましょう

一番最初に聞かれるのは、ロバート=オーウェンです。彼はスコットランドのニューラナークで、工場経営者としてスタートします。経営者だからこそ、労働者の改善を頑張った部分はあると思います

-ロバート=オーウェン-
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一時期は、アメリカでニューハーモニーという村の建設に着手しますが、これには失敗します。ニューラナークとニューハーモニーは紛らわしいですが、覚えてください

この挫折にもめげず、イギリスの工場法制定に尽力したのは、彼でした

フランスの社会主義者も覚えましょう。それはサン=シモンフーリエです。二人の区別は、サン=シモンは、アメリカ独立戦争に参加し、フーリエはファランジェという理想社会を実現するよう努力したことを根拠にしてください

他にプルードンという無政府主義者もいます。無政府主義は、アナーキズムともいいます。読んで字のごとく、「政府なんていらねーの人たちです

無政府主義は、個人的にまったく賛成できない考え方です。国家や議会は、個人の権利を侵害するから、ないほうが良いという考えですが、「じゃ、どうすんの?」といつも思います

他国が攻めてきて、無政府状態で、誰が守るんでしょうか?個人の自主性でしょうか?結局、どこかの国の属国になるだけです

まぁ、19世紀になって、やっと個人の幸福や権利を真剣に考える時代が来たので、まだ考えに未熟な部分はありますね

このような中で、「もっと科学的に社会主義を考えよう」という人がでてきます。それがマルクスです。

-マルクス-
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彼は自らを科学的社会主義と称し、ロバート=オーウェン・サン=シモン・フーリエなどの従来の社会主義を、空想的社会主義として批判します

ロバート=オーウェンは、工場法を作ったりと、けっこうイイコトしてるので、そこまで言わなくてもとは思いますが、それだけ自分の理論に自信があったのだと思います

彼は資本主義社会を否定して、社会主義の国家建設を呼びかけます。彼が世界中に労働者に訴えた書籍が、1848年「共産党宣言」です。エンゲルスという支援者との共著です

1848年と言ったら、二月革命ですね。すぐに思い浮かぶようにしてください

彼の主張は、資本家x労働者の対立が、資本主義社会がある限り、なくならないと考えます。この部分、実際そうだろうと思います

資本家、つまり社長にとって、一番のネックは人件費、給料です。ここを削るのは、非常に難しいです。また労働者、つまりサラリーマンは、自分の給料UPを願います。真逆のことを考えるわけです

彼の考える社会主義は、途中で彼が亡くなってしまったので、正直よくわからないのですが、労働者が主役の国を作りたいと思っていたのは間違いないです

今後、この思想の影響を受けるのが、ロシアであり、中国になります

次回は、イタリアの統一を話します

さてフランスの話です。フランス革命で国民が主役の国が生まれ、それを抑圧しているのが、ウィーン体制でしたね

■講義 part63 -ウィーン会議-
http://world-history.blog.jp/archives/5889961.html

正統主義に基づき、フランスにはブルボン朝が復活しています。王様は、ルイ18世(在位1814~25)です

基本、フランス国民には嫌われいます。次のシャルル10世(在位1824~30)も、もちろん嫌われています。彼は国民の支持を得ようと、アルジェリア出兵(1830)を行います

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これによって、フランスはアルジェリアの支配権に入ります。ここから1962年まで、フランスのものです。したがってフランスに行くとわかりますが、アルジェリア系の移民が多いですし、彼らは普通にフランス語をしゃべります

初めてフランスにサッカーW杯で優勝に導いたのは、アルジェリア系フランス人のジダンです

-ジネディーヌ・ジダン-
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さらにシャルル10世は、議会を解散させて、本格的に絶対王政を復活させようとします。これで、フランス国民の我慢に限界がきて、暴動が発生します

それが、七月革命(1830)です

これによって、ブルジョワジーの国にかわります。ブルジョワジーは、金持ちです。金持ちが呼んだ王様が、オルレアン家ルイ=フィリップ(在位1830~48)です。これによって立憲君主政が始まります。これを七月王政ともいいます

この時の情景を描いた絵画が、ロマン派ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」です。みなさんも一度は見た絵だと思います。ルーブル美術館で、「モナ=リザ」の側で展示されています

これ、19世紀のヨーロッパ文化史で、一番聞かれると思います

-民衆を導く自由の女神-
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ちょっと脱線しますが、「自由の女神」はアメリカが最初と思っている人がいると思いますが、あれはフランス人が作ったものです。アメリカの独立100周年を記念して送られています

その時の像のモデルが、このドラクロワの絵画です。だから顔が似ています。フランス政府のロゴにも女神が描かれてます。フランスに行けば、すぐに見れるロゴです

-フランス政府のロゴ-
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フランス語で、「自由・平等・博愛」と書いてますね

これに刺激を受けた形で、ベルギーが独立(1830)し、各地で反乱が続発しました。ポーランドのワルシャワ暴動も聞かれます。またカルボナリも、この時、イタリアで暴動を起こしています

■講義 part64 -ラテンアメリカ諸国の独立とギリシア独立戦争-
http://world-history.blog.jp/archives/6006451.html
※カルボナリ情報

フランスの七月王政の次の課題が、選挙権の拡大です当時、まだ選挙権は、金持ちしかありませんでした。人口の1%ほどです

そこでギゾー首相は、改革宴会を開いて、選挙権の拡大を話し合います。フランス革命の目的は、国民が主役でしたね?

七月革命では、共通のとして、国王・貴族・聖職者が定義され、ブルジョワジー・中小資本家・労働者は結束できました

しかし今は、ブルジョワジーx中小資本家・労働者対立構造がかわったわけです

これをギゾーはまとめられず、二月革命(1848)が勃発して、彼は辞職、ルイ=フィリップも亡命します。これで、国民が主役の第二共和政(1848~52)が始まります。選挙も男子普通選挙を実施します(四月普通選挙)

共和派のラマルティーヌ国立作業場を作って、労働者の働く場を提供した社会主義者ルイ=ブランなどが尽力します

この二月革命の影響が、ウィーン体制を終わらせます。ウィーンで、三月革命が起きます。これでメッテルニヒが退陣して、ウィーン体制が終了します

ベルリンも暴動が起きて、フランクフルト国民会議で、今後のドイツについて話し会いがもたれ、コシュートを軸に、ハンガリー民族運動、ベーメン民族運動、マッツィーニがイタリア民族運動、ポーランドではクラクフ蜂起が発生しています

もう、完全にウィーン体制は保てませんね

語呂です
いや行こー(1815)ウィーンへ、シャルル10世に癒され(1830)ないフランス、嫌よ辞(1848)めてよ、メッテルニヒ

ウィーン体制は、七月革命・二月革命で崩壊します。また各革命で、どのような暴動が起きたかをチェックしてください

「七月革命の影響で、ポーランドのクラクフで暴動が発生した」…これは不正解です。この正解は、ワルシャワです。こんな感じで、七月革命・二月革命の影響を混ぜて聞いてくる問題が王道であります

次回は、自由主義・社会主義について話します

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