世界史サロン

元教師・今社長がおくる世界史講義と、ニュースを世界史で読み解くブログ

2014年06月

以前お知らせした通り、管理人は7月1日よりフィリピンで働きます

■管理人からお知らせ part3
http://world-history.blog.jp/archives/8048327.html

フィリピンのネット環境がヘロヘロなのは知っているので、どうなるかわかりませんが、ブログ更新もがんばります

まぁ、日本のネット速度ランキングが2014年現在、世界2位なので、海外行ったら、あきらめるのが正解なんですけどね…

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by akamai.com

http://www.akamai.com/dl/akamai/akamai-soti-q114.pdf
※全部英語ですが、興味ある方、頑張って読みましょう

異国の地でも、精一杯がんばりますので、よろしくお願いします。次は、仕事と同時並行でIELTSもトライです

■IELTS
https://www.eiken.or.jp/ielts/

以上です

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さて、だいぶ久々ですが、中国史です。また今回の講義内容は、現在の中国を理解するうえで凄い重要です

まず復習ですが、の王様は、可能ならば全部覚えた方が良いです今のところは、最盛期までは説明しています

ヌルハチ⇒ホンタイジ⇒順治帝⇒康熙帝⇒雍正帝⇒乾隆帝

乾隆帝の頃までは絶好調なのですが、日本の長崎のように、外の貿易に熱心でありませんでした。広州だけに貿易が限定されていました

さらには、公行という独占的な特許承認が幅を利かせていました

■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html
※最盛期までの清情報

乾隆帝にはイギリスのマカートニーは、貿易の拡大を求めましたが、不発に終わりました。7代目嘉慶帝(在位1796~1820)時代には、イギリスのアマーストもトライしましたが、三跪九叩頭の礼を求められ、拒否した結果、不調に終わりました

中国の理屈では、王の前で使者は、3回跪いて、9回頭を叩く礼儀を行なわねばなりませんでした。イケイケ時代の世界トップは、清でしたから、自分のやり方を押し付けることができました

8代目道光帝(在位1820~50)時代に、転機が訪れます。1833年東インド会社の中国貿易独占権廃止がおきます。この時期にネイピアという人が訪れますが、この人も貿易拡大に失敗します

これはインドでも同じことが起きてましたね

■講義 part80 -インドの植民地化-
http://world-history.blog.jp/archives/8832614.html
※東インド会社情報

独占がなくなったおかげで、多くのイギリスの会社が「今がチャンス」と訪れますが、一番儲けた会社は、ジャーディン=マセソン商会です。これらのイギリス会社がエグいのが、アヘンという麻薬を売りつけているからです

これは中国の商品がを筆頭に絹・陶磁器など魅力的なものが多く、イギリスは絶えず赤字だったため、無理矢理黒字化するためのヤクザのような手法です

これを三角貿易といいます。大西洋にも三角貿易があったので、区別してくださいね

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この非道を防ぐため、アヘンの取り締まりにあたったのが、欽差大臣林則徐です。そして、この取り締まりに逆ギレして起こしたのが、アヘン戦争(1840~42)です

まさに外道ですw

習近平(任期2013~)は、力強くなった中国は、今こそ過去の屈辱から脱する時と考え、各地で揉め事を起こしています

■日中・日韓関係について(2013年12月5日開催) 
http://www.fis.takushoku-u.ac.jp/worldnow/21/4-1.html
拓殖大学 世界は今 2014年冬号 — vol.21より

”アヘン戦争での敗北以来170年余にわたり屈辱の歴史を背負わされてきたわが中華民族が、ついに偉大なる復興への道を探り当て、世界を瞠目させる成果を収めつつある。中華民族の偉大なる復興こそが、近代以降の中国人が最も強く待ち望んでいた夢である。この夢には過去のいくつもの世代の人々の深い思いが込められている”

つまり彼らは、アヘン戦争からのリベンジを今、行っているわけです

アヘン戦争は、もちろん清のボロ負けです結んだ条約は、南京条約です

■南京条約(1842)
・広州・福州・厦門・寧波・上海の5港開港
・香港の割譲
・公行の廃止
・賠償金の支払い(1200万両)
・関税協定権の付与


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さらには、1843年7月には五港通商章程で、領事裁判権を認めさせます。虎門寨追加条約では最恵国待遇や土地租借などを認めさせます

領事裁判権は、中国でイギリス人が捕まってもイギリスの法で裁かれるということです。また最恵国待遇は、他の国が特権をもらうと、自分の国も同じ権利をもらえる美味しいシステムです

この不平等条約の波にアメリカフランスが乗ります

1844年望厦条約(アメリカ)・黄埔条約(フランス)が結ばれ、イギリスと同程度の待遇になります

また南京条約によて、イギリスは上海に租界を手に入れました。租界とは、治外法権の領土です。ここでは、中国であっても中国のルールは通じず、イギリスのルールで物事が進みます

あとは文化史を少し、アヘン戦争期、林則徐は世界情勢把握の一貫で、魏源という人に「海国図志」という地図を作成しています

が思ったほど強くないとわかったイギリスは、さらなる侵略を進めます。1856年10月にアロー号事件が発生し、中国人にイギリス船が海賊行為を疑われる事件が発生します

またフランスも1856年2月、フランス人宣教師が殺害される事件が、発生したため、英仏はアロー戦争(1856~60)を仕掛けます

これは別名、第2次アヘン戦争ともいいます

ちなみに、この時期の王は9代目の咸豊帝(在位1850~61)です

語呂です
南に走れ(1840)、アヘン戦争。北はコロコロ(1856)、アロー戦争

ちなみに、この語呂南京条約(1842)と北京条約(1860)にもふれてます。これをに聞いてくる出題は多発しているので、注意してください「アヘン戦争を終了させたのは、北京条約である」みたいな誤った聞き方をされます

アロー戦争は、天津条約(1858)であらかた決まるはずだったのですが、条約締結の責任者が砲撃される事件が発生し、北京条約までかかりました

ちなみに南京条約・北京条約ともに、ココに記載したことは、全暗記でお願いします

■北京条約(1860)
・キリスト教布教の自由
・海港の増加※天津を含む11港
・九竜半島南部の割譲
・外国公使の北京駐在
・外国人の内地旅行の自由
・アヘン貿易の公認
・長江航行の自由

超高度な情報ですが、北京に外交官が駐在するため、清側も対応する機関を設立しました。それを総理各国事務衙門といいます。初代は恭親王です。東大模試などで聞かれてます

ちなみにこの戦争時に、円明園破壊されたことも聞かれます

■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html
※円明園情報

この条約を見れば、清がどれだけ、ボコボコになったか理解できますアヘン貿易を公然と認めてますからねどれだけイギリスにやられたかを知った上で、最近のニュースを見ると、まったく違った解釈ができると思います

-中国、エリザベス女王謁見を要求? 首相訪英巡り報道(ニュース)-
朝日新聞 2014年6月19日00時36分
http://www.asahi.com/articles/ASG6L1T0PG6LUHBI001.html

次回は、中国の改革運動について話します

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東南アジアは、のきなみヨーロッパ諸国の餌食になります

■インドネシア
すでに説明しましたが、アンボイナ事件(1623)によって、オランダの勢力化に入っています。当時のインドネシアには、イスラム教のマタラム王国(16世紀末~1755)がありましたが、オランダに滅ぼされます

その後着任したファン=デン=ボス(在任1830~33)が強制栽培制度を行い、コーヒー・サトウキビ・藍を生産させました

スマトラ北部にあったアチェ王国(15世紀末~20世紀初)とのアチェ戦争(1873~1912)もありましたが、オランダはインドネシアの利権を維持します

-アチェ-
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■講義 part29 -東南アジア(ミャンマー・インドネシア)-
http://world-history.blog.jp/archives/1887985.html
※マタラム王国

■講義 part56 -ヨーロッパ諸国の海外進出-
http://world-history.blog.jp/archives/4392809.html
※アンボイナ事件・強制栽培

■ミャンマー
前回、説明しましたが、イギリスインドを軸に領土を拡大していきます。ミャンマーは、イギリスの隣国ですから、ココはイギリスが進出してきます

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コンバウン朝(1752~1885)は、ビルマ(ミャンマー)戦争(1824~26、52~53、85~86)の結果、滅亡します。その後のミャンマーは、1886年にインド帝国へ併合されます

■シンガポール・マレーシア
この地域もイギリスが、手を付けます。ラフッルズという植民地行政官は、シンガポールの地理的優位性に目を付けて、1819年にここを買収します

今現在でも、東南アジアの情報が一番集まり、ビジネスチャンスがあるのは、シンガポールですから、凄い判断だと思います

さらに1826年には、周辺のペナン島・マラッカを併せて、海峡植民地に格上げします。1895年には、さらに領土を拡大し、マレー連合州(マライ連邦)としました。その後、ゴム=プランテーションが発達します

-ペナン島・マラッカ・シンガポール-
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■ベトナム・ラオス・カンボジア
イギリスインドを軸に領土を拡大していくのに対し、フランスベトナムを軸に領土を拡大すると覚えておいてください

ベトナムの最後の王朝は、阮朝(1802~1945)でしたね。ここに宣教師殺害を口実に戦争を仕掛けたのが、ナポレオン3世です。スペインとの共同出兵で、仏越戦争(1858~62)を起こします。結果、結んだ条約が、サイゴン条約です。内容を見ましょう

■サイゴン条約(1862)
・キリスト教布教の自由
・コーチシナ東部3省の割譲
・サイゴンの割譲

■講義 part28 -東南アジア(ベトナム・カンボジア・タイ)-
http://world-history.blog.jp/archives/1870544.html
※阮朝情報

■講義 part69 -フランスの第二帝政・第三共和政-
http://world-history.blog.jp/archives/6498346.html
※ナポレオン3世情報

さらに1863年には、カンボジアを保護国化ユエ条約(1883,84)によってベトナムの保護国化も決定します

これに黙っていないのが、中国のです。中国を説明するのは久々です。基本中国人の頭の中は、今現在でも、東南アジアは中国のと考えています。だからこそ、領土問題でベトナム・フィリピンが抵抗しても、彼らの中では、「うるせー、ハエだな」ぐらいの印象です

ユエ条約は、明らかに清の利権を侵害しています

清仏戦争(1884~85)が発生しますが、フランスに勝てるわけがありません天津条約(1885)によって、清は、ベトナムをフランスのものと認めます

この戦争の際、劉永福という人が黒旗軍という義勇軍を率いて、抵抗したこともレアですが、聞かれます。ちなみに彼は、広東省客家出身です

客家は、直接的な意味で「よそ者」を指すことから、移民のことです。多く山間部などの僻地に住んでいました。この人々が、中国人の中でも性格が特殊なので、覚えておいてください。今後、何度かでてきます

誰も文句を言わなくなった所で、フランスは自分の植民地をフランス領インドシナ(1887~1945)と命名します。1899年には、ここにラオスも編入させます

-フランス領インドシナ-
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ちなみにインドシナですが、インド+シナ(中国)=インドシナです。インドと中国の中間にあるよということです。インドネシアと間違わないでくださいね

■タイ
現在も続くラタナコーシン朝は、近代化につとめたラーマ5世(在位1868~1910)の活躍もあって、独立を維持しますが、地理的条件に恵まれていた要素を否定できません

イギリスとフランスは、領土拡大が進むと衝突が不可避となるので、タイを緩衝地帯として存続させました

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■講義 part28 -東南アジア(ベトナム・カンボジア・タイ)-
http://world-history.blog.jp/archives/1870544.html
ラタナコーシン朝情報

次回は、中国の植民地化(アヘン戦争・アロー戦争)いきます

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さてインドの植民地化を話しましょう。インドに旅行に行けばわかりますが、彼らは英語を話します。もちろんインド訛りですが…

彼らは多民族国家ですから、英語が公用語化しています

このようなことになったのは、イギリスが植民地化したからです。そしてインド・エジプト・南アフリカは、イギリス植民地の生命線になります

当初インドでは綿布を生産して儲けて、産業革命以後は綿花を輸入して、イギリスの工場で加工して儲けていました

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ここの3つの国の都市、カルカッタ(Calcutta)・カイロ(Cario)・ケープタン(Cape Town)の頭文字をとって3C政策ともいいます

まぁ、このあたりは第一次世界大戦あたりの講義で詳しく説明します。今は、インドといえば、イギリスの植民地」と強く覚えていってください

まずイギリスが、インドに影響力を持ち始めたのは東インド会社の設立(1600)からです

■講義 part50 -絶対王政(イギリス・フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/2902970.html
※東インド会社情報

しかしこの頃は、まだ多くのライバルとの戦いです。彼らも同時期に東インド会社を設立しているからです

1600年 東インド会社(イギリス)設立

1602年 東インド会社(オランダ)設立

1604年 東インド会社(フランス)設立

このような中で、最大のライバルとなったのはフランスです。カーナティック戦争(1744~63)をインドで行います

この時期は、世界を舞台にイギリスとフランスは戦います。ヨーロッパでは、オーストリア継承戦争(1740~48)・七年戦争(1756~63)。アメリカでは、ジョージ王戦争(1744~48)・フレンチ=インディアン戦争(1755~63)

この植民地分捕り合戦のインド版が、カーナティック戦争です。これにイギリスは勝利し、ます南インドを支配します

同時期に行われたプラッシーの戦い(1757)においても、ベンガル太守・フランス連合軍を倒し、ベンガル・ビハール・オリッサというインド東部をおさえます

語呂です
いい~なこんな(1757)のプラッシーの戦い

-ベンガル・ビハール・オリッサ-
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この2つの戦争で功績をあげたのが、クライヴという人で、初代ベンガル知事に就任します。インド統治法(1773)以後は、ベンガル知事の名称は、ベンガル総督に改称されます

このあたりで、インドはイギリスの縄張りであることは、確定します。あとはインドを統治するムガル帝国(1526~1858)や諸王国の領土を削ぎ落していくだけです

■講義 part40 -ムガル帝国-
http://world-history.blog.jp/archives/2585979.html

3つの大きな勢力との戦争を通して、イギリスはインドを自分のものにしていきます。それはマイソール戦争(1767~69、80~84、90~92、99)であり、マラーター戦争(1775~82、1802~05、1817~18)であり、シク戦争(1845~46、48~49)でした

このすべてにイギリスは、勝利します

マイソール戦争は、南インドのヒンドゥー国家、マイソール王国との戦争です。マラーター戦争は、インド中部にあった諸侯連合、マラーター同盟との戦争です。シク戦争は、パンジャーブ地方を支配していたシク教徒との戦争です

-パンジャーブ地方-
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これで有力な国家は、ムガル帝国ぐらいしかありません

これらの支配地域では、大きく分けて北と南で統治方法が違っていました。ザミンダーリー制で、ライヤットワーリー制でした

ザミンダーリー制は、地元の領主に徴税をしてもらうシステムで、ライヤットワーリー制では、イギリス人が直接徴税しています

この植民地化の最中に、イギリスでは産業革命が起きています。つまり、いろんな会社が次々生まれ、成長しているわけです。その中で東インド会社の独占経営は嫌われています

ということで、東インド会社の貿易独占権は、の除いて廃止(1813)されます。1833年には、商業活動停止にあいます

こんな中で、東インド会社が雇用していたインド人傭兵が反乱をこしました。これをシパーヒー(セポイ)の反乱(1857~59)といいます。シパーヒーは、インドで兵士を意味する言葉です

シパーヒーたちは、さらにインド反乱のシンボルとしてムガル帝国を担ぎあげます。これがインド全域に拡大したため、イギリスは手を焼きましたが、1858年にムガル帝国を滅亡させ、鎮圧に成功します

語呂です
嫌、ご破(1858)算のムガル帝国

ちなみに原因をつくった東インド会社も解散(1858)させられます

1877年には、イギリスの統治するインド帝国が成立します。初代皇帝は、ヴィクトリア女王です

■講義 part70 -イギリスのヴィクトリア時代-
http://world-history.blog.jp/archives/6723571.html
※ヴィクトリア女王情報

こんな感じで、イギリスはインドを支配しました。次回は、東南アジアの植民地化いきます

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基本的にアジアは当時、植民地か、かろうじて独立できているだけですそれだけ欧米の力は、圧倒的でした。そんな時代のアジアの話です

■サウジアラビア
18世紀にワッハーブ派という派閥がうまれます。イスラムといえば、だいたいスンナ派か、シーア派でしたが、ワッハーブ派はスンナ派系です。ワッハーブ派は、サウジアラビア以外では、一般的ではありません。ワッハーブ派=サウジアラビアでいいと思います

■講義 part30 -イスラーム世界-
http://world-history.blog.jp/archives/1916196.html
※スンナ派・シーア派

アラビア部族のサウード家は、ワッハーブ派と手を組んで、ワッハーブ王国(サウード王国)を建国(1744頃~1818、1823~89)します

この王国1回1818年に滅んでますが、これはエジプトのムハンマド=アリー(在位1805~49)の影響です

■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※ムハンマド=アリー情報

その後、サウード家は、後のイラクの原型となるヒジャーズ家を併合して、1924年にヒジャーズ=ネジド王国を建国します

これを昇格させた国が、サウジアラビア王国(1932~)になります。初代国王は、イブン=サウード(在位1932~53)になります。首都はリヤドです

-サウジアラビア-
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この流れもあって、サウジアラビアとイラクは、悪いです

■イラン
まず、ここにあったマイナーな王朝、ザンド朝を倒して、トルコ系イスラムのカージャール朝(1796~1925)ができます。都は現在のイランの首都と同じ、テヘランです

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イランも海につながっていることから理解できると思いますが、ロシアの南下政策の餌食になります。1828年には、ロシアとの間でトルコマンチャーイ条約を結び、アルメニアを割譲します。ちなみに1828年は、審査法廃止と同年です

■講義 part66 -19世紀の自由主義・社会主義-
http://world-history.blog.jp/archives/6117577.html
※審査法廃止

■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※南下政策

ちなみにですが、アルメニアとアルバニアを間違わないでください。時々、世界史の問題で聞かれるので注意です

-アルメニアとアルバニア-
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イランには、イギリスも利権を求めてやってきます。イランは、いいようにオモチャにされるわけです。それを良く思っていないのが、シーア派系のバーブ教創始者、サイイド=アリー=ムハンマドです

バーブ教徒は、反乱を起こします。それがバーブ教徒の乱(1848~50)です。年号は、二月革命(1848)と同じですね。もちろん、反乱は鎮圧されてます

■講義 part65 -七月革命・二月革命(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/6038154.html
※二月革命

イランは、ヨーロッパに対して不満が溜まっていきます。イギリス人が、イランでのタバコの利権を独占した時には、タバコ=ボイコット運動(1891)が発生しますが、これも鎮圧されます

語呂です
歯食い(1891)しばる、タバコ=ボイコット運動

これでイランの中に自立したい思いが強まります。これがイラン立憲革命(1905~11)へとつながりますが、これもイギリス・ロシアにつぶされます

■アフガニスタン
まず抑えて欲しいのが、イギリスはインドを軸に植民地を拡大させたいと思っていることです。そことロシアの南下政策が衝突することが各地で頻発します。衝突地はイランであり、ここアフガニスタンであるわけです

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ドゥッラーニー朝(1747~1842)の流れをくむアフガニスタン王国は、ロシアとイギリスの戦場になります。それがアフガン戦争(1832~42、78~80、1919)です。全部で3回あります

2回目で、イギリスの勝利となり、アフガニスタンは保護国化(1880)されます。実質の植民地です。3回目には、当時の独立ブームの流れを受け、アフガニスタンは独立することになります

それ以後も、ロシアはココを虎視眈々と狙っています

■中央アジア
最後に中央アジアを少し、ここにはかつてティムール(1370~1507)という国がありましたが、ウズベク人に滅ぼされました。そのウズベク人たちは、3つの国家を作っています

■講義 part41 -ティムール・サファヴィー・オスマン朝-
http://world-history.blog.jp/archives/2590485.html
※ティムール朝

国名は、ブハラ=ハン国(1505~1920)、ヒヴァ=ハン国(1512~1920)、コーカンド=ハン国(1710頃~1876)といいます

この3つともロシアによって潰されてます。そこ覚えておきましょうまぁ、中央アジアを抑えたから、次はイランやアフガニスタンに行ったわけですね。この時代のロシアの動きは、すべて南下政策で説明できます

今日は、以上です。次はインドの植民地化について話します

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