世界史サロン

元教師・今社長がおくる世界史講義と、ニュースを世界史で読み解くブログ

2014年11月

前回の講義で、海外にいいようにやられた中国を説明しました。中国国民の中にも、これに対する反発があります

その思いが結実したのが、義和団事件(1900~1901)です。キリがいい年代に発生してるので、サックリ覚えてください

これは山東省を根拠にした白蓮教系の義和団が起こした、外国排斥運動です。スローガンは「扶清滅洋」です。中国のスローガンは、よく正誤問題で出題されます

まずは、中国の省名は有名所を暗記です。「この事件は、何省で起きましたか?」みたいな設問多いです

-山東省-
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次にスローガンですが、よく太平天国の乱(1851~64)と逆にして、聞かれます。こっちのスローガンは、「滅満興漢」でしたね


■講義 part83 -中国の内乱と近代化(太平天国の乱・洋務運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/9001991.html
※太平天国の乱

「扶清滅洋」ですが、扶養家族といった言葉から想像できるように、には「助ける」という意味があります。「けて、滅茶苦茶する西してやる」で、彼らの考えが理解できると思います

太平天国の乱時代は、アヘン戦争(1840~42)とアロー戦争(1856~60)の間に起きてます。中国分割が起き始めた段階では、中国人の意識は、内部のよそ者である清に向かっています

多数派の漢人から見れば、万里の長城の向こう側から来たはよそ者ですだから、外国勢力に混乱させられ、ナンバーワンであることを証明できない清に怒りが向いてます

だから、「滅満興漢」です。清の母体民族、「州人をぼして、人の国を復させる」になるわけですね

■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html

これが義和団事件になると、継続的に中国が蹂躙されているわけですから、清⇒外国に対象が移動したのは理解できます

このように流れを理解できていれば、スローガンをどっちか忘れても、時代背景から、推量して答えに到達できます。なので、この一連の流れ、押さえておいてください

この義和団事件ですが、清で防げない外国勢力を、国民で防ぐことなんかできません。日・露・英・仏・米・独・墺・伊というオールスターで、ボコボコにされます

これを8ヵ国共同出兵といいます。義和団事件を終わらせた条約は、北京議定書です。決まり事がけっこうありましたが、北京駐兵権が一番重要です

アロー戦争を終わらせた北京条約では、公使の駐在が認められてましたが、今回は軍に格上げされてます。北京条約・北京議定書似てますね

つまり、駐在駐兵は正誤問題で聞かれます

そしてこの駐在を利用して、満州、今の遼寧省のあたりまで、伸長してきたのが、ロシアです。ロシアは、この好機を利用して、朝鮮にまで手をだそうとします

この時期の日本外交の良さは、世界NO1の国と手を握ったことです。この当時のNO1は、イギリスです。イギリスは、「光栄ある孤立」という名のもとに、同盟を結ばない風土がありましたが、ロシアの南下政策の野心を警戒していました

イギリスは、外交政策を変更し、日英同盟(1902)が成立します。朝鮮の権益にロシアが侵入したきたわけですから、日本は戦争の決断に入ります

朝鮮を譲歩して渡しても、「次は九州くれ、四国くれ」と要求がエスカレートするわけですから、日本はもう戦う以外の選択肢がありません

それが日露戦争(1904~05)です

日本はコツコツ勝利を重ね、なんとか旅順・大連を攻略します。これらの影響で、ロシア国内に厭戦気分が高まり、血の日曜日事件が1905年1月におきます

■講義 part88 -帝国主義時代(ロシア)-
http://world-history.blog.jp/archives/11098268.html
※血の日曜日事件

戦争に勝てないと、内部がグラつきだすのは典型的な話です。日本もギリギリの勝利を続けています。1905年3月奉天会戦にも勝ちましたが、まだロシアは降参しませんでした

-奉天-
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ロシアのプライド、バルチック艦隊が、わざわざバルト海から来ていたからです。すごい距離をきてます。その艦隊が、日本海軍と決戦します。それが、日本海海戦(1905年5月)です

-バルト海-
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これにも日本は、勝利しました。相手が半年かけて、来たことで疲労というアドバンテージがありましたが、日本海軍は、ロシア艦隊をほぼ壊滅させることに成功しました

朝鮮半島と日本には、日本海という海があり、もしロシアが勝利していたら、日本の権益が分断される最悪の事態が発生していました。その中での大勝利です

アメリカのセオドア=ローズヴェルトの仲介で、日本・ロシアの間にポーツマス条約が締結されます

■ポーツマス条約(1905年9月)
[日本全権・小村寿太郎 ロシア全権・ウィッテ]
・韓国の保護権
・遼東半島南部
・南満州鉄道(長春~旅順間)
・南樺太


韓国の領有は、清・ロシア・日本で争っていました。以下の流れで、日本の帰属になります

日清戦争⇒清×
日露戦争⇒露×


この当時の日米関係は、友好でしたから、ポーツマス条約の前に桂・タフト協定(1905年7月)があって、韓国は日本のもの、フィリピンは米のものと認め合ってます

このあたりあるので、韓国の人は、アメリカに守ってもらいながら、アメリカを嫌いという複雑な感情を持つことになります

日本の韓国領土化に文句をいう国はいんかうなってので、段階的に吸収していきます。それが日韓協約です

第1次日韓協約(1904)
第2次日韓協約(1905)…韓国の保護国化に成功
第3次日韓協約(1907)…韓国軍隊を解散

※第3次は、ハーグ密使事件で皇帝高宗が日本支配の不当を訴えて、失敗し、これをキッカケに協約が結ばれました

1909年には、初代韓国統監伊藤博文が、安重根に暗殺されます。韓国には皮肉ですが、これを理由に、1910年韓国併合が行われました

併合後は、統治機関として朝鮮総督府がおかれます。初代総督は、寺内正毅です。統監・総督は似た表現です。つまり正誤問題で聞かれます

このあたりまでの日本の戦略は、合理的で良かったと思います。まず世界NO1と手を組むということ。各国の同意を得て、韓国を併合したこと。条約においても、賠償金を要求せず、内情を鑑みて、領土だけで我慢したこと。自分の実力にあった、最大限の努力ができていたと思います

ここから先の日本は、本当に終わりの始まりだと思います。。。

次回、中国の辛亥革命いきます

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中国の植民地化を話します。ココも、どこが植民地にしてるかが重要です
登場する国は、英・仏・独・露・日です

-中国分割-
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ざっくり植民地マップです。このイメージで、私は頭の中に入ってます。まずロシアフランスのイメージは簡単だと思います

ロシアは、もともとあった領土を、中国側に広げただけなので、北側に領土がありますね。フランスは、ベトナムを抑えてますから、そこから領土を広げています

■講義 part81 -東南アジアの植民地化-
http://world-history.blog.jp/archives/8865523.html
※ベトナムの植民地化

イギリスは、長江を抑えているイメージです。あとは香港周辺ですね。幸か不幸か、イギリスの植民地化の影響で、香港は中国で独自のマインドを持ちます。民主主義ですこれが、現在の香港デモの底流にあります。

-なぜ香港の若者は「中国嫌い」になったか-
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http://synodos.jp/international/11343

ドイツは、山東半島を抑えてます。日本は、福建省ですね。これらを骨組みに後は、肉付け作業です。

-租借地・鉄道名-
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まず、租借地という言葉を説明します。これは、土地を借りるという意味ですが、ほぼほぼ領土といっても過言でないです

九竜半島の借りた年数なんて、99年もありますロシアの旅順・大連は、南下政策を思い出してください。なぜ、このような港町が欲しいかわかるはずです

鉄道は、物を売買する際の輸送手段として有効です。南下政策の一環で作ったロシアの東清鉄道を覚えておいてください

■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※南下政策

-旅順・大連・膠州湾・威海衛-
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イギリスは、ドイツの権益に飛び地のように、威海衛という領土を持ってます。あまり知られてませんが、イギリスは今でも、スペイン周辺にジブラルタルという領土を持ってます

ここを巡って、イギリス・スペインは今でも揉めます。これは、皆さんも知っているはずの、スペイン継承戦争(1701~13)の結果が、現在まで続いているからです

■講義 part53 -ルイ14世(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/4169283.html
※スペイン継承戦争

このような中、アメリカも中国の利権に手を突っ込もうとします。それが国務長官ジョン=ヘイ門戸開放宣言です

■門戸開放宣言
・門戸解放(1899)
・機会均等(1899)
・領土保全(1900)


領土保全だけ、追加で1900年です。このあたりは、ほどほどの大学の正誤問題にでます。「ジョン=ヘイは、1899年門戸開放宣言で、門戸開放・機会均等・領土保全を訴えた」は、誤りになります

これは、ハッキリいって、中国にとって迷惑な話で、「遅れてきた、俺にも中国をくれ」というファキンメッセージを難しくいってるだけですw

こんなに滅茶苦茶されてますから、中国自身も変革運動を開始します。それが変法運動(変法自強)です

中心人物は、康有為・梁啓超・譚嗣同です。難しい字ですが、記述させる大学も多いです。頑張りましょう彼らは、公洋学派ともいわれます

彼らの運動は戊戌の変法(1898.6~1898.9)の短い期間です。なぜか?政治を変えようとしたからです。以前、洋務運動(1860~94)というのがありましたね?

洋務運動は、外だけ西洋式に変えて、内側の政治は変えませんでした。当時の中国は、王政です。ここに手をつけませんでした

■講義 part83 -中国の内乱と近代化(太平天国の乱・洋務運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/9001991.html
※洋務運動

結果、中国に何が起きたか?明治維新(1868)を起こした日本日清戦争(1894)で負けるわけです。康有為は、確信しました。「日本のように政治から変えないと、国は変わらない」

当時の皇帝、光緒帝(在位1875~1908)も同じ思いでした。これを潰したのが、9代咸豊帝の妃、10代同治帝の母、11代光緒帝のおばである西太后でした

これを戊戌の政変(1898)といいます。これで西太后が実権を握ります。西洋に侵略された中国はかわいそうだと思いますが、付け込まれる要素は、中国自身にあったのは確かだと思います

次回、義和団事件と日露戦争いきます

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ピューリタン革命始まる(1642)…
無視に
(1642)
できないピューリタン

ネーズビーの戦い(1645)…今日は無事故(1645)のネーズビー
※講義では触れていませんが、ちょいちょい聞かれます

航海法(1651)…オランダにむごい(1651)航海法

審査法(1673)・人身保護法(1679)…異論、波(1673)なく(79)審査、人身保護

ナントの勅令廃止(1685)…異論は来(1685)ないナントの勅令廃止

スペイン継承戦争(1701~13)…いーな、おい(1701)!いーさ(13)、スペイン継承戦争

オーストリア継承戦争(1740~48)…なじれ
(1740)
、テレジア。世は(48)あきまーへん(アーヘン和約)

七年戦争(1756~63)…いーなコロコロ(1756)、七年戦争

ポーランド分割(1772、93、95)…何!(72)くさ!(93)人なく、ご(1795)ねるポーランド

アンボイナ事件(1623)…アンボイナ睦美(1623)

プラッシーの戦い(1757)…い~なこんな(1757)に、プラッシー
※重要なので、新しく作りました

印紙法(1765)…いーな!!無効(1765)だ!!印紙法

タウンゼント諸法(1767)・ボストン茶会事件(1773)…言いなりなるな(1767)、タウンゼント諸法。非難、波(1773)打つボストン茶会事件

茶会で怒って、大陸会議、独立の歴史に残る戦い宣言。サラっと勝って、フラ、スペ、オラは中立、よー食った!!やっぱり!!

・ボストン茶会事件(1773)
・大陸会議(1774)
・独立戦争開始・レキシントンの戦い(1775)
・独立宣言(1776)
・サラトガの戦い(1777)
・フランス参戦(1778)
・スペイン参戦(1779)
・オランダ参戦・武装中立同盟(1780)
・ヨークタウンの戦い(1781)
※ラタナコーシン朝建国(1782)
・パリ条約(1783)


※1年おきの事件を語呂にしてます。

講義part51~60から、語呂をピックアップしました。ちょっと長くなったので、今回から分けてます

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