2014年、新年一発目は、中世ヨーロッパです
この時代に形成されたものが、皆さんのイメージするヨーロッパを作ったと思います
大きく分けて3要素でヨーロッパは作られてます
1.ローマ文化
2.ゲルマン文化
3.キリスト教
上記の3つの要素で、ヨーロッパはできています
ローマ文化は、ローマ帝国のおかげです。この国が、今のほとんどのヨーロッパのほとんどの地域を支配していました。その影響があります
ローマ帝国は、ラテン系の国ですね
アルファベットを一番初めに使ったのが誰か覚えてますか?
フェニキア人ですね
彼らのフェニキア文字の影響を受けたのが、ラテン語です
ラテン語は、今のヨーロッパの古文と考えてください
このラテン語から、スペイン語・イタリア語・フランス語等派生しています
このヨーロッパにゲルマン語を持ったゲルマン人が来ます。ドイツ語がそうですね
皆さんが一番よく勉強している英語は、フランス語(ラテン語系)とゲルマン語のMIXです
私は、フィリピンとフランスに住んでいたので、英語とフランス語の類似点と相違点がよくわかります
※東南アジア史で触れましたが、フィリピンは米国の植民地化の影響で、英語をしゃべります
例えば10は、英語でten(テン)、フランス語でdix(ディス)です。この場合、似てませんね
英語で世紀をcentury(センチュリー)といいますね。これは、100年単位のものですよね
フランス語で100は、cent(サン)といいます。このケースではスペルに類似性がありますね
このような現象は、今回勉強するゲルマン大移動の影響が決定的です
ゲルマン人の大移動は、375年から本格化します
語呂です
ゲルマン美奈子(375)の大移動
このゲルマン大移動は、玉突き現象で起きたと言われています
ゲルマン人は、もともとバルト海沿岸やドナウ川周辺に住んでいましたが、フン人の侵入を受け、定住地を捨て、ヨーロッパに侵入してきました
フン人は、一説には匈奴と言われています。中国北方にいた匈奴が、多民族との抗争に負けて
西に逃れ、フン人になったという説です
ゲルマン人の情報は、カエサルの「ガリア戦記」やタキトゥスの「ゲルマニア」で知ることができます
ゲルマン人が来たことで逆に僻地に追いやられたのがケルト人です
それでは、各地のゲルマン諸民族をみましよう
■スペイン
西ゴート王国(415~711)が、イベリア半島にできます。アラリック(位395~411)が国を大きくしました。ここがイスラムのウマイヤ朝に滅ぼされて以後、数百年イスラム圏に入ります
■北アフリカ
ヴァンダル王国がありました
ここは、534年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のユスティニアヌスに滅ぼされました
■フランス
東南部にブルグント王国、パリを拠点にフランク王国ができました
■イギリス
まず七王国(ヘプターキー)という国家群が誕生します
その中のうちの1つウェッセックス王のエグバートがイギリスを統治します
彼らは、ゲルマン一派のアングロ=サクソン系です
アメリカは、イギリス移民の流れを組むので、ニュースなどでは「アメリカのアングロ=サクソンの文化は…」みたいに解説されてます
■イタリア
西ローマ帝国は、ゲルマン人の侵入に耐えられませんでした。傭兵隊長のオドアケルに裏切られて滅ぼされる始末です
裏切った人間に信頼度なんかないので、この時侵入した東ゴート王国に滅ぼされました
有名な王は、テオドリック(位473頃~526)です。東ゴートは、アリウス派信仰を強制したので、この国にも信頼感がなく、555年に東ローマのユスティニアヌスに滅ぼされてます
さらに北イタリアに、新たなゲルマン人のランゴバルド王国(568~774)ができました
ここは、フランク王国のカール大帝に滅ぼされました
語呂行きます
死なる(476)西ローマ、ゴーゴーゴー(555)っと東ゴート侵入
★フランク王国
この名前からイメージできると思いますが、後のフランスの名前の由来はフランク王国にあります
ゲルマン民族は、花火のように生まれては消える王朝が多かったですが、フランク王国は定着します
まず481年にクローヴィスが、メロヴィング朝をつくります
彼が頭の良かった所は、アリウス派からアタナシウス派に改宗したことです
ゲルマン人のほとんどが、アリウス派という異端を信仰していました
しかし、ヨーロッパではローマ帝国の影響でアタナシウス派が主流です
当時のヨーロッパの国民性を考慮すると、改宗は長期支配への重要な要件になります
次に力を持ったのが、宮宰カール=マルテルです。宮宰(マヨル=ドムス)は、財政のトップの役職です
ここは実権が、天皇から征夷大将軍に移った過程に似ていますね
実務をこなす中で、力を蓄えていったわけですね
カール=マルテルの名前が世に轟いたのは、破竹の勢いで攻めてきたウマイヤ朝の進行を止めたことです
トゥール・ポワティエ間の戦い(732)でしたね
語呂です
波に(732)揺れるトゥール・ポワティエ間の戦い
トゥールとポワティエは、今はフランスで屈指の古城巡りスポットです
無理をすれば、パリから日帰りでもいけます
話を戻しましょう
この戦いの功績で、カール=マルテルは単なる権力の簒奪者ではないことが、
誰の目にも明らかになりました。
そのため、彼の息子ピピン3世は、新しい王朝であるカロリング朝(751~987)をたちあげることができました
彼は、ローマ教会との結びつきを強くするために北イタリアにいたランゴバルド王国を追い出し、
獲得した領土であるラヴェンナをローマに渡しています。これをピピンの寄進(756)といいます
語呂です
和む(756)教皇、ピピンの寄進
これによって、教皇を後ろ盾に基盤を盤石にしていきます
ピピンの子、カール大帝(シャルルマーニュ)は、ランゴバルド王国を滅ぼし、エルベ川からやってきたザクセン人、モンゴル系のアヴァール人と、すべての戦いを勝利します
ローマ教皇レオ1世は、西ローマ帝国亡き後の後継国をフランク王国と認めました
800年にローマのサン=ピエトロ大聖堂で、カールの戴冠が行われました
これによって、地中海周辺のヨーロッパ・中東に3大勢力としてフランク王国・東ローマ帝国・イスラム勢力ができたことになりました
カール大帝の子、ルートヴィッヒ1世が亡くなった後は、ヴェルダン条約(843)で子供たちに3分割された領土が配分されます
分割して早々、中部フランク王国を持っていたロタール2世が亡くりました
そのため、メルセン条約(870)で、中部フランク王国の領土を減らしました
結果西フランクが、後のフランスになり、中部フランクがイタリアになり、東フランクがドイツになります
語呂です
早よ見~(843)、離れ~(870)ヴェルダン条約・メルセン条約
西フランク王国(843~987)滅亡後、パリ伯ユーグ=カペーがカペー朝(987~1328)を建ててます
東フランク王国(843~911)滅亡後は、ザクセン家2代目のオットー1世が神聖ローマ帝国(962~1806)を建てます
語呂です
苦労人(962)だよオットー1世、神聖ローマを言い張れる(1806)
めっちゃ長く続いてますね。この王は、レヒフェルトの戦いでハンガリー人の祖であるマジャール人を追い払ってます
イタリアは、都市国家が乱立し、19世紀に入るまで統一国家の建国はありません
次回は、ヨーロッパを構成する第3の要素、キリスト教について話しましょう
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