14~15世紀にもなると、いろいろな原因で封建制が崩壊します

封建制は、領主が戦争に参加するかわりに土地を貰い、貰ったが最後、その土地でのことにはたとえ国王でも文句がいえないシステムです


ヨーロッパのこのシステムは、ローマの恩貸地制度とゲルマンの従士制が結びついて生まれたものです


封建制がダメになった一番の原因は、貨幣経済の普及だと思います。作物の物々交換の時代なら、腐りますし、小麦を貯めて将来儲けようとかできませんが、貨幣ならずっと持てます


農奴という苦しい身分が嫌な人が、頑張って貯金して、お金と交換に自由を手にする人がでてきます

イギリスでは自由を手に入れた農民を独立自営農民(ヨーマン)といいます。中には一歩すすんで、土地経営者になって儲けた人もいます。これをジェントリといいます。ジェントルマンの語源ですね


領主が老舗の社長なら、ジェントリは青年実業家みたいなものです


さらに14世紀には、黒死病(ペスト)が流行します。肌が黒くなって死んでしまう病気です。今はもうストレプトマイシンという抗生物質がありますから、問題ありません

しかし、当時は不治の病です。現在だったら、HIVですね。2月にアフリカに行きますが、ボツワナっていう国は成人の40%がHIVに感染しています。こうなると国が発展しません


働き手がいなくなるわけですから、当然ですよね

そんなこともあって、当時一番人口の多かったパリでも20万人ぐらいしかいなかったそうです

領主の中には、昔のレベルを維持しようと、少ない農奴をさらにこき使う人もいました。これを封建反動といいます

農奴も黙っていません。暴動、一揆を行ないます


有名なものは、フランスでギョーム=カールがおこしたジャックリーの乱(1358)とイギリスのタイラーがおこしたワット=タイラーの乱(1381)です

タイラーは、ジョン=ボール「アダムが耕しイヴが紡いだとき、誰が貴族であったか」という批判をしています


語呂です
卑弥呼(1358)はジャックリー、ワッと騒い(1381)だタイラーの乱


それでは各国の動向を追いましょう


イギリス
ノルマン朝
(1066~1154)の話はもうしましたね。この王朝は、世継ぎが海難事故で亡くなるなど運もなく、断絶します

そのため、政略結婚で縁のあったフランスのアンジュー伯が引き継ぎ、ヘンリ2世(位1154~1189)となってプランタジネット朝(1154~1399)を興します


この当時のイギリスは、フランスにも領土を持つわけですね
彼の息子が、獅子心王リチャード1世(位1189~1199)です。英語で、リチャード・ザ・ライオンハートです。名前が格好良すぎますw

そのあだ名に匹敵するぐらいの人で、アイユーブ朝の英雄サラディンと、互角の勝負を第3回十字軍でしてましたね


サラディンは彼を「キリスト教のNO1の騎士だ」と言っています


リチャード1世の次が、弟のジョン王です。彼のあだ名は、ジョン・ザ・ラックランドです。Lackは、幸運でなく欠けたとか、ないとかいう意味です

ダサ過ぎです


もちろん理由があって、彼はやること全てに失敗します。まずフランス領土を失います。またカンタベリ大司教の任免問題では、破門されます

相手が悪すぎます。教皇は、絶頂期のインノケンティウス3世です。そりゃ、無理です

彼が動けば、イギリスの利益はドンドンなくなっていきます。これにイギリスの貴族は、血眼になって反対します

結局1215年に、大憲章(マグナ=カルタ)を認めさせます。これがイギリス憲法の始まりと言われています


これによって、王の暴走を防いだわけですね。日本でも軍国主義の暴走を防ぐために、憲法9条がありますね


ジョン王は、これで静かになりました。「ジョン!!ハウス!ハウス!」です。犬を飼うのと一緒です

しかし息子のヘンリ3世は、このマグナ=カルタを無視して、課税を実施しようとしました

マグナ=カルタには、課税する時は貴族と相談する決まりになっていました


完全なルール違反ですから、シモン=ド=モンフォールが中心となって反ヘンリ3世派を結成します

ちなみにフランスの言い方でがつく人は、先祖に貴族だったことの証明になります。例えば現在のEUをつくったシャルル=ド=ゴールがそうですね


話を戻します


1265年に反ヘンリ3世派は、聖職者・貴族、他に州・都市代表を加えた議会を認めさせました。これがイギリス議会の起源ですね

1295年には、エドワード1世によって初めて模範議会が開催されました


14世紀には、きっちり上院(貴族院)・下院(庶民院)に色分けされて、身分制議会が誕生します。つまり利害関係者が、国益を話し会う場所ですね


語呂です
マグナ=カルタへ、いつ行こう(1215)?議会いつ無効(65)?模範議会に急行(95)

行こう、無効、急行で覚えましょう


エドワード3世(位1327~77)は、フランスに百年戦争(1399~1453)を仕掛けます。年号見るとわかりますが、ちゃんと100年じゃないですね。約100年です

彼のお母さんが、フランスの王、フィリップ4世の娘ですね、当時のヨーロッパは政略結婚が横行しているので、国のバランスが崩れると、王位継承問題で揉めます


実際、百年戦争が終わってすぐに、今度はイギリス内でも王位継承問題が発生しています。バラ戦争(1455~85)の勃発です。ランカスター家(赤バラ)とヨーク家(白バラ)の戦いですね


これは彼らの紋章ですね。結局ランカスター出のヘンリ7世が、ヨーク家の女性と結婚して、テューダー朝(1485~1603)を開きます


ざっとイギリスの王朝の流れだけ羅列します
アングロ=サクソン⇒ノルマン朝⇒プランタジネット朝⇒テューダー朝⇒ステュアート朝⇒ハノーヴァー朝(ウィンザー朝)

ちょっと長いですね。ちなみに今のイギリス王室が、ここであげたウィンザー朝です。ニュースでイギリスの王が結婚とかあったら、ウィンザー朝のことです


フランス
ここは、カペー朝(987~1328)でしたね。あらかじめ言いますが、フランスで覚える王朝は、3つだけです。
カペー朝⇒ヴァロワ朝⇒ブルボン朝

ブルボン朝は、フランス革命で倒れて以降、フランスに王朝は存在しません

中世の世界史の覚え方は、まず王朝を覚え、そして王様が何をしたかを覚えるです

イギリスだったらジョン王と聞いて、すぐプランタジネット朝を思いだしてください


フランスのカペー朝は、まずフィリップ2世(位1165~1223)です。リチャード1世と仲が悪く、第3回十字軍に参加していましたが、途中で帰っています

また、ジョン王から領土を奪ったのは、この人です


次がルイ9世(位1226~70)です。彼はアルビジョワ十字軍で功績をあげ、南フランスを領土化します

本来十字軍は、聖地回復が目的でしたね。ただ教皇は、アタナシウス派以外の異端にも十字軍派遣を決定しています。それがアルビジョワ十字軍です


彼は、第6、7回十字軍の主導者でもありましたね。彼は、チュニジアのチュニスで病没しています


次の王が、フィリップ4世(位1285~1314)です。彼は三部会という聖職者・貴族・市民の3層を集めた議会を主催しました

この議会は、フランス革命(1789)まで続きます


その後、王朝断絶してできたのが、ヴァロワ朝(1328~1589)です
初代はフィリップ6世です。フィリップがいっぱい現れますが、フィリップは2、4、6の偶数です。6だけヴァロワ朝です
この即位に文句を言ってきたのが、イギリスのエドワード3世です

中世は、絶えず王位継承問題でケンカがあります。エドワード3世の本来の目的は、毛織物で有名なフランドル地方のゲットです。現在のベルギーあたりですね
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今でいうiphoneとかの稼ぎ頭が、当時毛織物でした


初期段階では、イギリスは勝ちます。エドワード3世は、クレシーの戦い(1346)で勝利します。彼の息子。エドワード黒太子も、ポワティエの戦い(1356)で勝利します

1429年には、フランスはだいぶ追い込まれます。オルレアンまで迫られ、シャルル7世は窮地にたちます。すでにフランスの3分の1ほどが支配されています


ここで奇跡が起きます。ジャンヌ=ダルクの登場です。彼女は、包囲されたオルレアンを軍を率いて助けます
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なぜこれが奇跡かというと、彼女戦術も知らなければ、字も書けません。今でいえば、単なる女子高生です


ただ神のお告げを聞いたというだけです。詳しくは、ミラ・ジョボビッチの「ジャンヌ=ダルク」を見てください

私自身もオルレアンに行きましたが、今は単なる清潔な町です。パリから電車で1時間ぐらいでいけます


ド素人が活躍できた理由に、やはり当時神がどれだけ信じられていたかが理解できます。当然劣勢だったとはいえ、士気が頂点まであがったのは、想像に易いです

彼らには神の加護があるのですから…


財務長官ジャック=クールの財政立て直しなども奏功し、ついにイギリスはカレーを残して、すべてのフランス領を放棄します

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語呂です
いざ、炸裂(1339)の百年戦争、いーよ降参(1453)、ビザンツ帝国

ビザンツ帝国はまったく関係ありませんw

ただ、1453年はビザンツ帝国が滅亡し、百年戦争が終わった、1つの時代が終わりを告げたシンボルです


ドイツ・イタリア
なぜドイツとイタリアをセットにするかというと、ドイツ王が両シチリア王国の王を兼ねることがあったからです。そのためドイツの野心は、まとまった国のないイタリアの吸収です

この吸収を防ぐためにイタリア諸都市が担ぎあげたのが教皇です。もちろん皇帝派もいます。これをゲルフ(教皇党)・ギベリン(皇帝党)といいます


当時のドイツは、東方植民でブランデンブルク辺境伯領など、着実に領土を増やしていますが、領邦国家という諸侯の連合国のため、よほど有能でないと、ドイツを纏められません

まずそれができたのが、シュタウフェン朝フリードリヒ1世です。別名赤ヒゲです。ワンピースの世界ですw


この赤ヒゲと名付けたのは、イタリアの人だといわれています。日頃まとまりのないイタリア諸都市がミラノを中心にロンバルディア同盟を結成し、イタリアを守ります

一旦イタリア進行を諦めた彼は、第3回十字軍に参加しますが、途上で溺死します。第3回十字軍は、みんな仲良くすれば、相当強かったと思います


イギリスの獅子心王リチャード1世、ジョン王から土地を奪ったフィリップ2世、赤ヒゲ・フリードリヒ1世です


フリードリヒ1世の次が、特異な王、フリードリヒ2世(位1212~50)です。第5回十字軍で、話し合いでイェルサレムを回復した人ですね

フリードリヒ2世が亡くなって以後はドイツも両シチリア王国も混乱します


ドイツでは継承者のいない大空位時代(1256~73)が始まります。ドイツが領邦国家なので、あえて神聖ローマ皇帝という面倒くさいことをしません


語呂です
いつ頃(1256)始まる大空位時代、王様見ごろ(1356)の金印勅書


ルクセンブルク朝のカール4世がひとまずルールを作ります。有力7人による選定です。これを金印勅書(1356)といいます

7人は、マインツ・トリール・ケルンの司教とザクセン・ベーメン・ファルツ・ブランデンブルクの4大諸侯です


これ全部覚えておくと、有名大学でも戦えます

司教の話をすると、また腐ったキリスト教の話になりますwこれは、ドイツに布教活動目的で行って、地元で人気になり、そのまま土地管理まで行って人たちです


両シチリア王国では、教皇が暗躍して、皇帝よりのフランスのアンジュー家がシチリアの支配することに成功します。教皇にとって神聖ローマ皇帝かつ、両シチリア国王のフリードリヒ2世は悪夢です

彼は2回破門されているわけですから、関係も最悪です。どうにかローマ教皇領が挟み撃ちを受けない状況をつくりたかったわけです


しかし、シチリア国民は急にフランス人が統治を始めたので不満です。結果、1282年に「シチリアの晩鐘」というフランス人虐殺事件がおきます

シチリアにフランス人はいられなくなり、ナポリ王国の所有のみになり、両シチリア王国は分裂してなくなります。シチリアは、スペインのアラゴン家が統治することになりました


スペイン
イベリア半島では、聖地回復運動(レコンキスタ)が718~1492年まで続きます。1479年にスペイン王国ができるまで、イスラムには劣勢でした

スペイン王国は、有力国家だったアラゴンカスティリャが合併してできました。カスティリャは、日本のカステラの語源ですね


アラゴン王フェルナンド2世とカスティリャ女王イサベルの結婚で成立します。スペイン王国が、イスラム最後の王朝ナスル朝を追いだします


北欧
ここは1つだけ、デンマーク女王のマルグレーテカルマル同盟によって、デンマーク連合王国(1397~1523)を樹立しました

構成国は、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーです。これはヴァイキングをルーツに持っていますから、価値観を共有していました


今日は、以上です


次回は、中世文化史をいきます

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