折に触れ、中世のキリスト教が腐敗していたのは伝えましたが、ついに大規模な反対運動が起こります

きっけは、教皇レオ10世(位1513~21)の贖宥状(免罪符)です。贖宥状は、お札です。これを買うと、罪が償えますというのが、贖宥状です

の力で、天国を買うわけです

レオ10世は、当時建設中だったサン=ピエトロ大聖堂の建設費捻出のためにドイツを利用しました。ちなみにこの聖堂は、ミケランジェロが絡んだりと、凄いメンバで作っていましたね。お金が必要です。

ドイツは、当時神聖ローマ帝国といわれています。ここは、領邦国家といって多くの諸侯で構成される連合国家です。イギリスやフランスのように強大な王権がありません

つまり、つけ込みやすいわけです。ついた名が「ローマの牝牛」です。メスの牛っていうことは、従順だということですね

ちなみにレオ10世は、大富豪メディチ家の人です。つまり商人が、教皇をやっていたわけです

これに反抗したのが、ザクセン生まれのマルティン=ルターです。この人は、ヴィッテンベルク大学の神学教授でした。この大学は、ルターでしか聞かれません。セットで覚えましょう

-ルター-
2014-1-29_3-58-22

-参照・wikipedia-

ルターは、1517年九十五カ条の論題を発表します。これが宗教改革に始まりです。内容を簡単にいうと、「お札に効果はなく、信仰でしか、天国にいけません」という、もっともなことを言います

語呂です
以後いな(1517)いルターの宗教改革

1520年には、「キリスト者の自由」で、信仰義認説を主張します。お札じゃなくて、信仰が素晴らしいということですね

神聖ローマ皇帝カール5世(位1519~56)は、1521年ヴォルムス帝国議会を開催し、ルターに発言の撤回を求めますが、ルターは撤回しませんでした

そのため皇帝はルター派を禁止します

語呂です
ごっつい(1521)ヴォルムス、ルターを禁止
1521年、またパクリです。ここコルテスも、マゼランも関連した事件の年でしたね

■講義 part44 -大航海時代 後半-
http://world-history.blog.jp/archives/2702310.html

このままだとルターは、殺されてもおかしくない状態でしたが、ザクセン選帝侯フリードリヒが、ルターをヴァルトブルク城にかくまいます

ザクセンは、金印勅書(1356)で王を選ぶ7人の内の1人でしたね。神聖ローマで、かなりの有力者です

■講義 part37 -封建社会の崩壊と十字軍以後の主要国家-
http://world-history.blog.jp/archives/2423381.html

ルターは、城の中で「新約聖書のドイツ語訳」を行います。これをドイツ国内に相当な衝撃です。われわれも、どんなに良いものでも古文で書かれたら、何がなんだかわかりません

その古文にあたるのが、ラテン語でしたね

これによって、ルターの考えは、急速にドイツに浸透します。ちなみに彼の考えの特徴は、信仰義認説聖書第一主義です

聖書第一主義は、「聖書を読めば、お札で天国行けるなんて、どこにも書いていない。教会が嘘をいっているのは、明らかだ」とうことになります。「キリスト教徒の頼りは、聖書ですよ」と主張しています

このルターの行動に刺激を受けて、1522年に騎士戦争、1524年にはミュンツァーによるドイツ農民戦争が起きます

ドイツ農民戦争は、イギリス・フランスに比べて劣っていた農奴制の廃止を求めた運動です

ルターは、この運動に対して賛成⇒反対に意見を変えています。これ彼が学者であったことの限界だと思います。彼はあくまで神学世界のことにしか興味がありません。それに結ぶついて起こる政治や国民のことを考える力は、不足していたと思います

カール5世のほうも、この事態の収拾に苦心します。1526年には、第1回シュパイアー帝国議会でルター派を認めるようにしました

これによって、ルター派が急拡大したため、危機感を覚え、1529年の第2回シュパイアー帝国議会では、ルター派を再度禁止しました

完全な支離滅裂ですねw

これにルター派は、猛烈に抗議します。当たり前ですねこれが、プロテスタント(Protestant)、抗議する人の言葉の由来ですね

1530年、ルター派はついに反皇帝同盟のシュマルカルデン同盟を結成します

1545年には、カトリックがトリエント公会議を開きますが、「カトリック最高!!」というわけわからんものでしたw1546~47年には、トリエント公会議の不満から、シュマルカルデン戦争が発生します

最終的な決着は、1555年アウグスブルクの宗教和議までかかります

ここも1つ特徴があり、都市諸侯にルター派信仰の自由を認めました。個人の信仰の自由はありません

この結果生まれたのが、領邦教会制です。諸侯が、領主かつ、司教のトップを兼ねていました

以上です


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