さて近世に生まれた絶対王政について話します

それを話す例として適切なのは、イタリア戦争(1494~1559)です

この戦争は、ハプスブルク家 × ヴァロワ家 の戦争です。王家同士が、統一国家のないイタリアを狙い目とみて、取りに行きます

まずしかけたのは、フランスのシャルル8世(位1483~98)です。ヴァロワ朝の王様ですね

これに危機感を覚えるのが、ローマ教皇です。基本、ローマ教皇は軍を持ちません。持ったとしても、司祭にできることは、たかが知れています

彼らが頼ったのが、神聖ローマ帝国です。これがハプスブルク家です。皇帝マクシミリアン1世が、参戦します

これで一旦、フランスは撤退します
一番激しくやりあったのが、フランスのフランソワ1世 × 神聖ローマのカール5世 です

フランソワ1世はルネサンスで、カール5世は、宗教改革で聞きましたね

■講義 part46 -ルネサンス(西欧諸国)-
http://world-history.blog.jp/archives/2754470.html

■講義 part47 -宗教改革(ドイツ)-
http://world-history.blog.jp/archives/2788235.html

フランソワ1世にしてみれば、だいぶ厳しい状況です。なぜならカール5世は、スペイン王カルロス1世の顔も持っているからです

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完全な挟み撃ちですね。ピンチです。そこでフランソワ1世は、イギリスと同盟を結びます。またローマ教皇も、逆にカール5世が強くなり過ぎたため、フランスを支援します。ローマの右往左往は、半端じゃないですw

また、神聖ローマ帝国内で起きたいた宗教改革による動乱を利用し、反神聖ローマ皇帝派を支持します。オスマン帝国とも手を結びます。1529年にスレイマン1世が、ウィーン包囲をしてましたね。ここ神聖ローマ帝国です

は、味方の法則で、宗教を越えて同盟を結んでいます

■講義 part41 -ティムール・サファヴィー・オスマン朝-
http://world-history.blog.jp/archives/2590485.html

ここまでもしても、フランスはスペインに勝てませんでした

16世紀は、スペインの時代です。彼らは大航海時代で、莫大の富をゲットしています

結局、1559年にカトー=カンブレジ条約で、スペインは、ミラノ・ナポリ・シチリア・サルディーニャを獲得します。フランスのイタリア進出の夢はついえます

ここで洗練されたのが主権国家です。なかなか難しい言葉ですね。この当時、国の意識は、まだ曖昧でした

それは教皇の存在もありますし、神聖ローマ帝国のように多くの諸侯の上に、象徴的な王がいる権力分散型の国が多かったからです

しかし、近世からは、権力は1つの場所に集まっていきます。それが国王です。国王は、優秀な官僚常備軍を構成します

今までは、戦争の時に土地経営をしていた貴族が武器を持って参戦していましたが、それを止めます。権力を集中させるために、そういうものを必要としていません

今回のテーマ、絶対王政ですが、何が絶対かというと、権力絶対です

ちなみに注意してほしいのが、王 = 主権国家 ではないです。権力のすべてを握る場所が王でも、大統領でもかまいません

ただ、権力が1つの場所に集中している状態が、主権国家です

絶対王政の国王は、それだけの絶大な力を持てる根拠を神に求めます。これを王権神授説といいます

神が、「お前が王として、すべてやれ」って言ってるから、しょうがないとう立場です

絶対王政を実現するためには、運営費がめちゃくちゃいります。日本だって数十万の自衛隊にメシを喰わせるだけでも大変です

そこで、どの国家も重商主義を採用します。これは、商売を重視するということです。いろんな重商主義があります

例えばスペインは、重金主義を採用します。運営のためのお金を集めろという考え方です。そうすれば、国が繁栄しますという考え方です

だから、を大量に獲得していましたね。それがヨーロッパの相場に影響を与えていましたね。価格革命です

そんなスペインの最盛期かつ、衰退の原因は、フェリペ2世(位1556~98)です
-フェリペ2世-
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スペイン統一を成し遂げたフェルナンド5世とイサベルのコンビ、その孫カルロス1世、カルロス1世の息子フェリペ2世、このラインはしっかり覚えましょう

フェルナンド5世・イサベル⇒カルロス1世(カール5世)⇒フェリペ2世

フェリペ2世は、1571年にレパントの海戦でオスマン帝国に勝ち、ポルトガルの併合にも成功しています(1580)。スペインは「太陽の沈まぬ国」とまでいわれました。ただ、当時領地だったネーデルラントの経営は、苦心しています

まず、ネーデルラントにも宗教改革の波が押し寄せています。フェリペ2世は、熱心なカトリックでしたから、これを弾圧します。また、単なる属国としか思っていませんから、増税も行います

それに耐えかねてオランダ独立戦争(1568~1609)が勃発します

ネーデルラントは当初全土の独立を考えていましたが、カトリックの多い南部10州が1579年に脱落します。これが、現在のベルギーになります

残った北部7州は、ユトレヒト同盟を結成し、なお抵抗を続けます。この北部7州のリーダー的存在だった州が、ホラント州です。これがオランダの語源ですね

1581年には、ネーデルラント連邦共和国として、独立を宣言します

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初代は、オラニエ公ウィレムです

最終的には1609年にスぺインは、オランダと休戦条約を結び、独立を承認しています

江戸幕府は、1603年にできてます。独立したオランダが、ポルトガル・スペインを押しのけて、日本に来るのも理解できますね17世紀は、もはやスペイン時代ではありません

もう1つ、スペインにとって屈辱的だったのは、1588年アルマダ海戦で、イギリスに破れたことです

ということで次回、イギリスの絶対王政について話しましょう

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