さて、イギリスのように議会主役にして国をまとめる方法を前々回学びましたが、王様が賢くなることで国をまとめようという考えも生まれました

それが、啓蒙専制君主です

この考えの発案者が、フランスのヴォルテールです。この人は、文化史で激聞かれるので必ず覚えましょう簡単にいうと、理性によって国をまとめようという発想です

当時は、迷信が信じてられていた世界です。王の感情によって、人の命は紙くずのように捨てられていました。感情による判断を避け、賢く行動しましょうというのが理性であり、啓蒙思想です

啓蒙思想の影響を受けた人が、啓蒙専制君主です

-ヴォルテール-
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代表的な人は、プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世、ロシアのエカチェリーナ2世です

プロイセンは、ドイツにできた新興国家です。始まりはドイツ騎士団です。この騎士団領が、神聖ローマの名門ブランデルブルク選帝侯国と合併します。ここのホーエンツォレルン家が、多くの優秀な王を輩出していきます

■講義 part35 -十字軍-
http://world-history.blog.jp/archives/2362950.html
※ドイツ騎士団

■講義 part37 -封建社会の崩壊と十字軍以後の主要国家-
http://world-history.blog.jp/archives/2423381.html
※ブランデルブルク選帝侯国

フリードリヒ1世(位1701~13)の時、スペイン継承戦争で武勲をあげ、プロイセンは王国になります。赤ひげといわれ、十字軍に参戦した神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(位1152~90)とまったく同名なので、注意です

フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位1713~40)は、軍隊王といわれるように、軍隊を整備しました。で、一番聞かれるのが、フリードリヒ2世(位1740~86)です。彼は、啓蒙専制君主ですね

彼は「君主は国家第一の僕」といい、国家の拡大に尽力しました。この言葉、テストにでます記憶しておいてください

-フリードリヒ2世-
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これも十字軍時代の人に同じ名前の人がいるので注意です。このフリードリヒ2世が、フランスとオーストリアの対立をうまく利用して、領土を獲得します

それが、オーストリア継承戦争(1740~48)です

語呂です
なじれ(1740)、テレジア。世は(48)あきまーへん(アーヘン和約)

この戦争は、オーストリア・ハプスブルク家のマリア=テレジアが、神聖ローマ皇帝に即位する際、ブルボン家のフランスが反対してたことで勃発しています。下画像の右のおばちゃんです。若い時はカワイイです

-マリア=テレジア-
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-若かりし、マリア=テレジア-
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彼女は、16人の子供を産んでます。馬力がありますねその15番目の子供が、マリ=アントワネットです。フランス革命時の悲劇の女王ですね

よくあるブルボン家とハプスブルク家のケンカですね。これにフリードリヒ2世が、フランス側で参戦します。プロイセンはこの戦争で、工業と鉱業で有名なシュレジエンをゲットします

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マリア=テレジアは、神聖ローマ皇帝に即位できましたが、プロイセンに領土が奪われたのが納得できていませんでした。そのため彼女は、宿敵フランスと同盟を結びます。これを外交革命といいます

そしてリベンジマッチを仕掛けます。それが、七年戦争(1756~63)です。

語呂です
いーなコロコロ(1756)、七年戦争

ここでプロイセンは、最大のピンチです。フランス・オーストリア、さらにロシアまでを敵に回していますからね。イギリスと同盟を結び、先制攻撃を仕掛けましたが、終始劣勢でした

フリードリヒ2世は確かに優秀でしたが、幸運もありました。まずロシアの王が亡くなり、親プロイセンの王が新たに即位します。またイギリスが、フランスとの植民地争いに勝利します

これで、オーストリアとプロイセンの単独の戦いになります。フリードリヒ2世は、なんとかフベルトゥスブルク条約で講和します。プロイセンは、シュレジエンを確保することに成功します

プロイセンの置かれている状況は、新興国家の苦労をうまく表現しています。これは、明治維新で遅れて発展した日本にも類似しています

もともとあった老舗に、ベンチャー企業が挑むようなものです

ベンチャーは不安定な経営基盤のため、少しの不安定要素があるだけで、倒産の危機がやってきます。そのため、フリードリヒ2世のような啓蒙専制君主が生まれたのは、歴史の必然だと思います。賢い王様でない限り、新興国家を拡大できませんからね

彼は、ユンカーという地主貴族を支持基盤に、国家を大きくしました。フリードリヒ2世をもってしても、一部のエリートを利用した突貫工事でしか国を拡大できませんでした

プロイセンの前近代的姿であるグーツヘルシャフトは改善されていません。グーツヘルシャフトとは、ユンカーによる農奴経営です。近代国家になる上で、農奴の解放は必須です

アダム=スミスから始まる自由主義経済学は、その名の通り、自由に重きを置いています。自由が実現されてはじめて、切磋琢磨された競争原理がうまれます

農奴はそれを放棄し、他人に依存し、自ら考えることを止めています

つまり経済的発展が、頭打ちになるわけですね。まぁ、しょうがない部分もあります。アダム=スミスの名著「諸国民の富」が刊行されたのが1776年ですから、自由競争の原理が理解され、浸透するのには時間が必要です。プロイセンに積み残した課題があるということですね

オーストリアのほうも、農奴については考えていました。取り組んだのは、マリア=テレジアの息子、ヨーゼフ2世(位1765~90)です。ちなみにヨーゼフ2世は、マリア=テレジアの画像にも写ってます

-ヨーゼフ2世-
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彼は、1781年に農奴解放令を発表します。この改革は、最終的には保守派によって潰されていますが、啓蒙思想が農奴に対しての問題意識を生んだのだと思います

次回も、啓蒙専制君主について話します

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