フランス革命のつづきです。ロベスピエールの独裁に懲りたフランスは、権力の分散した政府を1795年憲法によって作ります

それが、総裁政府(1795~99)です。ブルジョワジーが軸の政府です。5人の総裁を置いて、統治します。おそらく、平和な時代なら、これでも機能しますが、今は激動の革命期です

もちろん、この政府は苦戦します総裁政府が成立する直前には、王党派の反乱を受けましたし、成立後もバブーフという人が反乱を企てます

外敵の侵入にも悩んでいましたが、ここでは幸運に恵まれます。この政府の軍には、ナポレオン(1769~1821)がいました

-ナポレオン-
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まずは、イタリア遠征(1796~97)でオーストリア・イタリア軍を撃破します。カンポ=フォルミオ条約を結び、これで、第一回対仏大同盟が瓦解します

語呂です
第一回対仏大同盟、処刑で泣くさ(1793)、イタリアで泣くな(1797)

これは、ルイ16世の処刑で結成され、イタリア遠征で終わったことを覚える語呂です

次のナポレオンのターゲットは、エジプトです。ここ当時は、イギリスの権益になってます。今でもそうですが、ここにあるスエズ運河は貿易の最重要拠点です

この運河を通らないで、アフリカ大陸を回って、商品を運んでもいいですが、距離が長すぎるため、輸送費が高くなってしまいます。そのため、スエズ運河は、重要なんです

イギリス-エジプト-インドのラインが、イギリスの富を生み出しています。ここを断てば、相当な打撃があると、ナポレオンは考えたわけです

エジプト遠征(1798~99)が行われます。これに対してイギリスはロシア・オーストリアと第二回対仏大同盟を結成します

ナポレオンがエジプトに専念している間、総裁政府はイタリアに攻め込まれ、せっかく得た領土を失います。ナポレオンは足を引っ張る総裁政府をうっとおしいと思い、ブリュメール18日のクーデタ(1799)をおこします

これは革命暦でいうと、霧月ともいいます。革命暦で聞かれるのは、テルミドールのクーデタの熱月と、これの2つぐらいです。必ず覚えましょう

ナポレオンが作ったのが、3人の統領からなる統領政府です。そこの第一統領は、ナポレオンです。実質の軍事独裁です

ナポレオンはまず、フランス銀行を設立して、お金を掌握します。皆さんも理解できると思いますが、お金を握れば、多くの人に言うことを聞かせることができます

まず金を握るのは、いい選択だったと思います。これで金持ち集団、ブルジョワジーが彼を支持します

次にナポレオンは、ローマ教皇ピウス7世と和解します。これを宗教協約(コンコルダート)といいます。1801年の出来事です

フランス革命は、古い価値観の破壊でしたから、カトリックが排斥され、理性が重視されていました。そのためローマと疎遠になっていたんですね

当時のフランス国民は、ほとんどカトリックですから、教会が否定されたことは、国民に大きな不安を引き起こす面がありました

「内向的な人に、明日から社交的になれ!!」といっても無理ですよね。人の心は、そうそう急激に変われません

なので、和解したわけです。これでカトリックは、フランスで布教活動ができます。しかし、ナポレオンは革命期に没収された財産は、国民のままにしました

双方に利益のある状態を作ったわけです。これで多くのフランス人から、彼は支持されたわけです。第二回愛仏大同盟との戦いも有利に行い、アミアンの和約(1802)を結びます

下ネタ語呂です。すいません…
エジプトいーな、キュ、キュ(1799)パイオツ(1802)、あ~んみあん和約

エジプト遠征の結果できた、この同盟は1802年に瓦解しています。1804年には、ナポレオン法典を成立させ、私有財産の不可侵を宣言し、「もう勝手に領地を没収しないよ」といいます

ナポレオンの功績は、ここまでケチのつけようがないので、さらに自らの権限を強化した第一帝政(1804~1814)を始めます。この時の情景を、ダヴィドが描いていますが、よくテストで聞かれます

-ナポレオンの戴冠式-
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これに黙っていないのが、イギリスです。フランスが、またイギリスに攻撃してくるのは、明らかだからです。そのため1805年第三回対仏大同盟が結成されます

ナポレオンのライバルが、ここで活躍します。それがイギリスのネルソンです。彼は、トラファルガーの海戦で、ナポレオンに勝利します。彼は、エジプト遠征時のナポレオンを封じ込めることにも成功しています

-ネルソン-
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実は、この戦いでネルソンは死亡しますですが、イギリス人にとって、彼は英雄になりました。ロンドンに行けばわかりますが、トラファルガー広場のネルソンのモニュメントは、観光名所になってます

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これは戦勝を記念してできました。もちろんネルソン像は、フランスのほうを向いて、今でもにらみをきかせています

自分も行きましたが、だいぶこの柱、高いです

さすがのナポレオンも、ちょっと海戦で手こずってますねまぁ、イギリスは島国ですから、海洋国家として、確固たる地位がありますからね

日本のような海洋国家も、海軍が強いです

ナポレオンは、イギリスに匹敵する力を蓄えるため、大陸制覇にのりだします。その結果起きたのが、1805年アウステルリッツの戦い(三帝会戦)です

これで、ロシアのアクレクサンデル1世、オーストリアのフランツ2世(神聖ローマ皇帝を兼ねる)を撃破します

フランスは、ドイツにライン同盟という傀儡国家を建設して、1806年に神聖ローマ帝国は滅亡します

講義 part32 -ゲルマン大移動-
http://world-history.blog.jp/archives/2041598.html
※神聖ローマ情報

これで、第三回対仏大同盟も終わりです

同年10月には、イエナの戦いでプロイセンも破ります。これでイギリスを除く主要国家を倒していますから、本丸のイギリスに焦点を絞ります

単純に戦っても勝てませんから、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発表して、イギリスと他国の貿易を禁止します。補給を断つ方向にいったわけです

これは経済活動を止めることですから、イギリスだけでなく、ヨーロッパの国々も苦しみました。ロシアは、その後貿易再開を行うことになります

イエナの戦いのケジメは、1807年ティルジット条約で締結しました。これでプロイセンの持っていたポーランドは、ワルシャワ大公国の名前に変えて、フランスの支配下に入りました

この条約なんですが、テストではヒントに屈辱という言葉が必ずでますナポレオン関連で、「屈辱的な条約何ですか?」となったら、ティルジット条約を選んでくださいね

プロイセンの凄い所は、この敗戦を冷戦に分析します。フランスにあって、自国にないものを考えるわけです。そこで活躍したのが、シュタイン(任1807~08)とハルデンベルク(任1810~22)です

彼らのおかげで、農民解放が進みます。いまだに生産効率の悪い農奴を使っていたことに原因を見つけたわけですね

軍制改革は、シャルンホルスト・グナイゼナウが行いました。相手が戦争の天才、ナポレオンですから、ここ必死です。彼らが考え出したのが、参謀制度や昇進が貴族出身しかなかったことを止めて、実力主義に変更します

ちなみに参謀制度は、有力なアドバイザーを各チームに置くシステムです。これによって、大軍団の動きをよりスムーズに動かすことができるようになりました

教育は、フンボルトに任せます。彼はベルリン大学を作ります。そこの総長がフィヒテです。彼は「ドイツ国民に告ぐ」で、ドイツ人として心構えを熱く語ります。国を一致団結させないと、とてもフランスに勝てないからです

これは、フランスによって、ドイツがなくなるとう危機感から来ています。危機感は大切です。これがないと、国について考えることがありません

日本人には、これが決定的に足りないと思います。以前にも言いましたが、これを感じる第一歩は、海外になるべく早くでることだと思います

自分の国が、どれだけ恵まれているか、すぐに理解できると思います

話を戻します。とにかくプロイセンの試みは、時間をかけて、ジワジワ成果をあげていきます。しかし、結果はもう少し先になります

その間にフランスの逆鱗に触れたのが、先ほど言ったロシアです。ロシアは、穀物取引を再開しないと、厳しい状況なので、大陸封鎖令を無視します

1812年ロシア(モスクワ)遠征が行われます。ココで、フランスはまさかの敗北を喫します。ロシアの戦術である焦土作戦にやられます

フランス軍の長所は、補給を占領した町で調達することにあります。これによって、雷のようなスピードで、相手が準備する前に、攻め込むことができます

しかし、焦土作戦は、占領地に食糧などをまったく残さないで、燃やしてしまうことです。さらに拠点は、フランスから見て、さらに奥地に移していきます。ロシアは寒いですから、食べ物ない、寒いで、フランス軍の士気は劇的に下がっていきました

結果、フランスは、ボコボコにされます。実は日本も同じミスを、第二次世界大戦でしてます。当時の首都である南京を落としても、中国軍は拠点を奥地に移動して、徹底抗戦しました

これで負けるわけです

戦争において、補給問題は、本当に重要だということを理解しておいてください

ここが絶好のチャンスとみた各国は、第四回対仏大同盟(1813~14)を結成します。ライプチヒの戦い(諸国民戦争)で、プロイセン・オーストリア・ロシア連合軍は勝利して、パリを陥落させます

これでナポレオンは、エルバ島に島流しの刑です

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比較的、フランスに近いこともあり、この島から抜け出して、ナポレオンは再度戦いを挑みますが、1815年ワーテルローの戦いで、イギリスのウェリントンに完全敗北します

これで、今度は遠いセントヘレナに島流しです

-セントヘレナ-
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以上が、ナポレオンの生涯です。彼は島関連の質問が、けっこうあります。コルシカ島生まれ、エルバ島の島流し、最後はセントヘレナです

コルシカ島⇒エルバ島⇒セントヘレナ

またフランス革命は、政府の名前がよくかわりましたね

国民議会⇒立法議会⇒国民公会⇒総裁政府⇒統領政府⇒第一帝政

まずは、政府の名前をしっかり覚えて、ロベスピエールはどこだったか、イタリア遠征はいつの時かと、じっくり肉付けしていってください。このあたり、けっこう出題されますよ

次回は、フランスの戦後処理を話し合うウィーン会議に入ります

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