それでは、ドイツの統一を話しましょう
まずは、復習です。ドイツは長く神聖ローマ帝国(962~1806)が支配し、領邦国家といわれる小さい国の結集した連合国家みたいなものでした
他の絶対主義の国のように1つにまとまっていないので、ヨーロッパで発言権はあまりありませんでした。そこで主導的立場になりたかったのが、プロイセンとオーストリアです
■講義 part54 -啓蒙専制君主(プロイセン・オーストリア)-
http://world-history.blog.jp/archives/4180347.html
ナポレオンによって、神聖ローマを滅ぼされ、まず主導権をとったのが、オーストリアです。ウィーン議定書覚えてますか?
ドイツ連邦の盟主は、オーストリアでしたね。まぁ、メッテルニヒがバリバリ活躍してますから、プロイセンは勝てません。ここまでは勉強したと思います
■講義 part63 -ウィーン会議-
http://world-history.blog.jp/archives/5889961.html
※ウィーン議定書情報
ここで、プロイセンはドイツ関税同盟(1834)を結成して、巻き返しをはかります。経済学者リストの助言に基づいています。保護貿易主義というやつです
2種類の貿易があって、それは自由貿易と保護貿易です。これは対立する考え方です。全体で見ると、長期的には自由貿易は正しいのですが、自国の利益(※これをナショナル・インタレスト=国益といいます)を考えると、軟弱な産業を保護して、成熟するまで育てる保護貿易も悪くはありません
ちなみに自由貿易は、政府など関与せず、好きにさせれば良いという考え方です
プロイセンは、新興国ですから、イギリスなんかと真っ向勝負したら砕け散るだけです。だから、プロイセンは保護貿易を採用し、自国が強くなるのを待つわけです。イタリアと同じ、弱小国の苦しみです…
次にプロイセンに来たチャンスは、二月革命(1848)です。ここでフランクフルト国民議会を開催し、フリードリヒ=ヴィルヘルム4世をドイツ皇帝にしようとしますが、失敗します
■講義 part65 -七月革命・二月革命(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/6038154.html
※二月革命情報
ドイツ統一は、プロイセンが軸の小ドイツ主義とオーストリアが軸の大ドイツ主義で揉めます。プロイセンは、二月革命のドサクサでも、ドイツを自分のものにできませんでした
オーストリアが設定したウィーン体制は崩壊し、弱体化した時にさえ、自分の意見が通らなかったのです。ここで、プロイセンはじっくり軍事力を蓄える道を選択します
私の中では、世界史上5本の指に入る政治家ビスマルク(在任1862~90)が、ここで登場します
-ビスマルク-
また当時の国王も賢明で、ヴィルヘルム1世(在位1861~88)といいますが、彼は国王でありながら、ビスマルクの好きに政治をさせました
この二人三脚で話は、進みます。ビスマルクが採用したのが鉄血政策です。鉄=武器、血=兵士のことです。彼の発言は、こんな感じです
「現在の大問題は言論や多数決でなく、鉄と血によってのみ解決される」
弱いままだと、誰も意見を聞かないということです。そのため軍拡を宣言します。これは脆弱な海軍しかないベトナムが、ギャーギャー騒いでも、結局中国のゴリ押しが通る世の中を見れば、理解できると思います
-ASEAN首脳会議 南シナ海、中国へ圧力…G20に代表、支持訴え (ニュース)-
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140511/asi14051120340003-n1.htm
ASEANは、東南アジアの連合体です。全部あわせても、たぶん中国に勝てません。なので、いくら言っても、中国は無視すると思います
プロイセンは力を蓄え、オーストリアとの戦争の準備をします。オーストリアと戦争するために、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題にオーストリアを巻き込みます
当時、ドイツとデンマークで国境地帯で揉めていました。そこがシュレスヴィヒ・ホルシュタインです
-シュレスヴィヒ・ホルシュタイン-
プロイセンもオーストリアもドイツ人ですから、ここでは共闘できます。デンマーク戦争(1864)で、プロイセン・オーストリアは、デンマークを倒します
結果、シュレスヴィヒをプロイセンが、ホルシュタインをオーストリアが管理することになります。この地域を最終的にどちらのものにするのか、ケンカが始まります
これビスマルクが仕組んだ罠だといわれています。彼は、ホルシュタイン地区へ、しばしば軍を侵入させて挑発します。これにオーストリアは、戦争を決意します
この時、プロイセンには軍事の天才モルトケがいました。彼はプロイセンの軍事担当です。プロイセンは戦争を想定して、準備をしていました。戦争に勝つために必要なのは、兵站(へいたん)です。あまり聞かない言葉だと思いますが、戦争学では常識の言葉です
この言葉は簡単にいうと、戦争を継続するために必要な補給のことです。この兵站を確保することで、戦争が圧倒的に有利になります
たとえばナポレオンがロシアで失敗したのは、焦土作戦によって、補給ができなかったことにありましたね
■講義 part62 -総裁政府とナポレオン-
http://world-history.blog.jp/archives/5437815.html
※焦土作戦情報
モルトケがしたことは、鉄道と電信の整備です。これをオーストリア国境付近までひきます。電信は通信設備のことですね。鉄道によって物資を、電信によって情報を素早く渡すことができます。兵站を確保したわけですね
こんなことは、戦うことを前提にしないとできません
そして、この戦略をオーストリアは知りません。プロイセン=オーストリア(普墺)戦争(1866)が開戦し、サドヴァの戦いで大勝し、オーストリアは雪崩をうって敗れます。この戦争は、七週間戦争ともいいます
プロイセンは、ドイツ連邦を解体し、プロイセンを盟主した北ドイツ連邦(1867~71)結成に成功します。シュレスヴィヒ・ホルシュタインもプロイセンのものになります
オーストリアは、この後ドイツを諦めて、東ヨーロッパの支配に重点を置きます。オーストリア=ハンガリー(二重)帝国に改名します
しかし、プロイセンはオーストリアをあまり追い込みませんでした。本来なら賠償金やもっと領土の割譲を求めますが、それをしませんでした。理由は、フランスです。ここと対峙することを考えると、敵は増やせません
イタリアの時も、フランスはちょっかいだしていましたね。フランスはデカくなる国を牽制します。1868年にスペイン王位継承問題でも、プロイセンの王族レオポルトが一時即位することが決定しましたが、それをフランスは取り消しにしました
この時の状況説明を、ビスマルクはあえて過激にプロイセンに説明します。これをエムス電報事件といいます。これでフランス憎しの炎がプロイセンに蔓延します。フランスもそこまでの発言をしていないので、怒ります。これで戦争です
もちろんプロイセンは、フランスと戦争する準備をしっかりしていました。またフランス自身は、新興国なんかに負けるわけないという過信がありました。すでに勝負は決まっています
プロイセン=フランス(普仏)戦争(1870)は、プロイセンの大勝利に終わります。フランクフルト講和条約、これでフランス屈指の工業地帯アルザス=ロレーヌをゲットし、賠償金50億フランももらいます
さらに北ドイツ連邦を格上げしたドイツ帝国(1871~1918)の建国を、ヴェルサイユ宮殿で宣言します。
-ドイツ帝国の宣言-
ドイツがプロイセンのものになる流れは以下です
ドイツ連邦⇒ドイツ関税同盟⇒北ドイツ連邦⇒ドイツ帝国
順番の並べ替え問題もでますから、しっかり覚えましょう。これにフランクフルト国民議会を混ぜるパターンもあります
他国の建国宣言をヴェルサイユ宮殿でされるほど屈辱はないと思います。ビスマルク自身もそれを理解しています。そのため、今後はいかにフランスを孤立させるかに力を注ぎます
孤立化を促進させるのは同盟です。日本が米国と仲良くしているのは、間違いなく中国を孤立化させるためです。ビスマルクは、恩を売っていたオーストリア、さらにロシアを誘って三帝同盟(1873)を結成します
これは、ロシアとオーストリアがバルカン半島の領有をめぐって、揉めだした結果、崩壊します。次に結成した同盟は三国同盟(1882)です。ここにはイタリアを誘いました
一旦離れましたが、とにかくビスマルクは、フランスとロシアが手を組むことを恐れています。挟み撃ちという最悪の事態を想定するからです
ドイツはそのため、ロシアと再度条約を結びます。それが再保証条約(1887)です。これによって、フランスの孤立化に成功します
この状態が維持される限り、ドイツは安泰です
これだけやっただけでも凄いですが、ビスマルクは同時に国内も整備していました。まずドイツはプロテスタントの国のため、カトリックを弾圧していました。これには中央党というカトリック集団が反発します。これを文化闘争(1871~80)といいます。宗教集団は強い結束がありますから、ビスマルクはここの弾圧は、次第に止めていきます
彼の経済政策は、保護政策です。新興国ですから、「ヨーイ、ドン!!」で戦えません。なので、自国の会社を特に産業資本家とユンカーを助けます
ユンカーは、地主さんのことです。以前にも触れています
■講義 part54 -啓蒙専制君主(プロイセン・オーストリア)-
http://world-history.blog.jp/archives/4180347.html
※ユンカー情報
これによってクルップなんていう兵器会社は急成長します。成長の陰では、だいたい労働者が犠牲になります。社会主義勢力が増えるわけですね
社会主義者の中には、皇帝を狙撃して、不満を訴える人もいましたから、ビスマルクは社会主義者鎮圧(1878)を制定しました。これによって弾圧されたのが、ドイツ社会主義労働者党です。めっちゃ長い名前ですが、めっちゃでます。覚えましょう
こんな感じで合併してできた集団です
全ドイツ労働者同盟(ラサール派)+社会民主労働党(アイゼナハ派)=ドイツ社会主義労働者党
ビスマルクは、社会主義運動には細心の注意を払います。基本大多数は、労働者ですから、一歩間違うと、自分が退陣することになります
彼がやったことが保険の整備です
疾病保険制度(1883)
災害保険制度(1884)
養老保険制度(1889)
「皆さん、我が政府は国民のことを考えてますから、社会主義に騙されないでください」というのが彼の主張です。これによって団結の流れを削ぎます。これを「アメとムチ」の政策といいます
彼が内政・外政ともに一流なのがわかりますね。彼は過去の人々の失敗や成功から学んで、未来を見つめた希有な人だったと思います。最後に彼の言葉を紹介します。これをできていない人は、凄い多いと思います
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
これ、試験にはでない言葉ですが、俺は大好きです
次回は、フランスの第二帝政いきます
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