ロシアいきます。この講義の後に、ひさびさにニュースについて説明したいと思います。クリミア問題です

今回の講義の後に、クリミア問題に触れたほうがいいと思っていたので、今まで言及していませんでした。それでは行きます

まず復習です。19世紀のロシアの王朝は、ロマノフ朝(1613~1917)です

■講義 part55 -啓蒙専制君主(ロシア)とポーランド分割-
http://world-history.blog.jp/archives/4283924.html
※ロマノフ朝情報

ウィーン体制(1815~48)以後のロマノフ朝の王様は、全覚えでお願いします
覚え方は、アレ、ニコ、アレ、アレ、ニコです。「なに言ってんだ!てめー!」と怒らないでください。私は、これで覚えてます

アレクサンドル1世(在位1801~25)⇒ニコライ1世(在位1825~55)⇒アレクサンドル2世(在位1855~81)⇒アレクサンドル3世(在位1881~1894)⇒ニコライ2世(在位1894~1917)

アレクサンドルとニコライで回していますねニコライ2世が、ロマノフ朝の最後の王様になります

イメージとしては、ウィーン体制を仕切っていたのが、アレクサンドル1世で、ウィーン体制が動揺するぐらいから、ニコライ1世です

アレクサンドル1世といえば、神聖同盟の結成で有名です。ニコライ1世は、デカブリストの乱(1825)からと覚えてください。一発GO(1825)です

■講義 part63 -ウィーン会議-
http://world-history.blog.jp/archives/5889961.html
※神聖同盟

■講義 part64 -ラテンアメリカ諸国の独立とギリシア独立戦争-
http://world-history.blog.jp/archives/6006451.html
※デカブリストの乱

19世紀から、トルコで「東方問題」が発生します。オスマン帝国内で起きる反乱のことです。この方向の定義は、極めて主観的です。世界史で、方角を聞かれたら、だいたいヨーロッパが中心になります。ヨーロッパから見て、トルコは東方ですね?なので「東方問題」です

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これ、単純に人間の精神構造的問題です。どうしても、私たちは自分中心で、ものを考えますからね。だから、彼らは新大陸発見と言ったり、インディアンと言ったりしていましたね。インディアンは、インド人のことですね

最初は、アメリカ大陸はインドと思われていたため、起きた誤解です。これって凄い失礼だと思います日本歩いてたら、「Hey!!インド人」と言われたら、フリーズしますよね

話を戻します

「東方問題」が初めて顕在化したのが、ギリシア独立戦争(1821~29)です。これについては、すでに触れていますね

■講義 part64 -ラテンアメリカ諸国の独立とギリシア独立戦争-
http://world-history.blog.jp/archives/6006451.html

ロシアは、ギリシア側で参戦していますから、ギリシア独立によって利益を得ました。ボスフォラス・ダーダネルス海峡の通行権です。ちなみに海峡は、細い場所のことです

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黒海を通って地中海に出るには、ここを通る以外の方法がありません。ロシアが貿易する際に、ここの通行権が非常に重要です。ここを潰されると、経済大打撃なわけです

ロシアの戦略としては、どんどん南に下りてきます。貿易航路を開くためです。これを南下政策といいます。また方角でましたね。よくロシアの説明では、不凍港を求めて南下するなんでいわれます

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ロシアを地図でザッと見ると、ほとんどの場所が、北海道より上にあるのがわかります。海に囲まれているとはいえ、港が凍って使えないわけですね

なので、温暖な地域に南下してくるわけです

この地図で見る、黒海の価値は、確かにロシアにとって高いものだとわかります。オスマン帝国内は、この頃まだまだグラついています

次はエジプトが、オスマン帝国に反旗を翻します。ちょうどこの時いたエジプトの総督は、ムハンマド=アリー(在位1805~49)という人です

-ムハンマド=アリー-
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彼はオスマン帝国内で、エジプトの軍隊を近代化させて、独立に備えていました。ここに第1回エジプト=トルコ戦争(1831~33)が勃発します

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イギリスやロシアなどは、この小競り合いを利用して、利益を得ようとします。戦争自体は、エジプト有利で、シリアはエジプトのものになります。またロシア自身も、オスマン帝国を支援したことで、ウンキャル=スケレッシ条約(1833)で、ボスフォラス・ダーダネルス海峡独占通行権を得ます

これに味をしめたムハンマド=アリーは、次に総督の世襲権を求めて戦争します。第2回エジプト=トルコ戦争(1839~40)です

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ここが、ヨーロッパ外交の凄い所です。昨日の敵が、今日の味方になります。各国は、国益でしか動きません。普通に行けばエジプトのほうが強いので、支援するフランスが戦争後、利益のでるのは明らかです。そのためイギリスは、他の国を誘ってオスマン帝国側につきます

これでフランスの利益一人占めを防ぎます。戦争後、エジプトは世襲権を得る代わりに、シリア放棄することになりました

イギリスには、まだ課題があります。それはロシアの強大化を防ぐことです。第2回エジプト=トルコ戦争を終わらせた1840年ロンドン会議で、ウンキャル=スケレッシ条約を破棄させることに成功します

ちなみにギリシア独立戦争を終わらせたのもロンドン会議(1830)です。10年後にも同名の会議があるんだと記憶してくださいね

その後、ロシアは飼い犬に手を噛まれる状況が生まれますオスマン帝国が、イェルサレムの聖地管理権をロシアからフランスに移しました。この時のフランスのトップは、ナポレオン3世です

■講義 part69 -フランスの第二帝政・第三共和政-
http://world-history.blog.jp/archives/6498346.html
※ナポレオン3世情報

これにロシアのニコライ1世が、激怒します。ちなみにイェルサレムは、ユダヤ・キリスト・イスラムの聖地でしたね。そこの管理をフランスに任せたわけです

さらにフランスはカトリック、ロシアはギリシア正教です。派閥も違います。「用心棒代わりの自分に相談もないんかとキレたわけです

ロシアがオスマン帝国に仕掛けた戦争が、クリミア戦争(1853~56)です。この戦争中にロシアの王が代わります

ニコライ1世(在位1825~55)⇒アレクサンドル2世(在位1855~81)

ニコライ1世は、デカブリストの乱で始まり、クリミア戦争中に終わるイメージです。ニコライ1世は、ギリシア正教徒の保護を理由に戦争を開始します。つまり、「オスマン帝国内のロシア人を助けます」という論理です

150年以上経った現在でも、ロシアはこの論理で、ウクライナに仕掛けたわけです

-ロシア大統領、クリミア編入を表明 欧米が追加制裁へ(ニュース)-
2014/3/18 20:53

http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1803U_Y4A310C1MM8000/
※「ロシア系住民の保護」を理由にクリミアを編入しています

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オスマン帝国は、ロシアにやられるのは確実ですから、英仏はオスマンを支援します。外交の基本は、バランスオブパワー勢力均衡です。サルデーニャは、イタリア統一に向けてのアピールでしたね

■講義 part63 -ウィーン会議-
http://world-history.blog.jp/archives/5889961.html
※勢力均衡情報

■講義 part67 -イタリアの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6154501.html
※クリミア戦争参戦情報

語呂です
いや~ゴミ(1853)コロコロ(56)、やっぱり(パリ条約)クリミア戦争

ロシアが難攻不落と考えていたセヴァストーポリ要塞が、この戦争で陥落します。この要塞がある場所、現在もロシアの軍事基地があり、それがクリミア半島にあったため、クリミア半島は、どうしてもロシアの側に引き込みたかったんですね

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クリミア戦争にロシアは敗れ、南下政策は完全に挫折しますパリ条約の内容いきます

パリ条約(1856)
・南ベッサラビアを放棄…ルーマニアのものになります
モルダヴィア・ワラキアの承認…事実上の独立を獲得。後のルーマニアです
・黒海は、非武装地帯
・ドナウ川航行の自由…各国を横断して、黒海に流れる川の共同利用を決めました
-ルーマニア-
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-ドナウ川-
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ロシアは、なんとかリベンジの機会をうかがいます。それがロシア=トルコ(露土)戦争(1877)です。オスマン帝国内で起きたボスニア・ヘルツェゴヴィナの反乱を利用します

-ボスニア・ヘルツェゴヴィナ-
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今回の口実は、スラブ民族の保護です。今度はロシア人よりデカい、スラヴという概念で、戦争をしました

■講義 part34 -ビザンツ帝国と東ヨーロッパ-
http://world-history.blog.jp/archives/2192820.html
※スラヴ情報

この戦争一騎打ちです。もちろん弱小オスマン帝国には、負けません。ロシアに有利な条約を結びます

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■サン=ステファノ条約(1878)
・ルーマニア独立
・セルビア独立
・モンテネグロ独立
・ブルガリアは領土を拡大し、ロシアの傘下

当時のブルガリアは、地中海に面する領土を持っていました。ここがロシアに入るということは、南下政策成功を意味します

-ブルガリア(1878)-
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語呂です
嫌な話(1878)のサン=ステファノ条約

この状況に、特に焦ったのがイギリス・オーストリアです。この問題を話し会おうと会議が開かれます。それがベルリン会議で、ビスマルクが「誠実な仲介人」を公言して、あらたな条約を締結します

それが、ベルリン条約(1878)です

■ベルリン条約(1878)
・ブルガリアは領土を縮小し、オスマン帝国の傘下
オーストリアは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ行政権を獲得
イギリスは、キプロスを獲得

これ駄々をごねた英・墺が得して、露だけが損をしています。結局、南下政策失敗ですビスマルクは、ロシアを犠牲に、イギリスを味方に付けることに成功したわけです

このあたりの外交、実に複雑です

ビスマルクは、ロシアに恨まれ、さらにロシアがフランスと仲良くなられるのを異常に恐れていました。そのための再保証条約(1887)の締結だったわけです

■講義 part68 -ドイツの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6184102.html
※ビスマルク体制

これらの失敗によって、ロシアは改革が他国に比較して、進んでいないことが、自覚されました。早い段階では、デカブリストの乱の時期には、インテリゲンティアという知識階級が、改革を訴えていました

国王自身も、アレクサンル2世などは、農奴解放令(1861)を発布したりもしました。これは、お金を払ったら、土地を買えるシステムだったので、貧乏の農民はなかなか自立できない中途半端なものでしたが、なかには頑張って自作農になった人も現れました

自立できない農民は、ミールといわれる農村共同体でやり繰りすることになります。このミールなどの協同システムをうまく使って発展しようと考えたのが、ナロードニキといわれる人たちです

彼らのスローガンは、「ヴ=ナロード」(人民の中へ)でした

ナロードニキの中には過激な人たちもいて、ロシアがダメな原因を王様と考えていました。この一派は、暗殺を企てて、成功してしまいます

アレクサンル2世暗殺は、1881年に起きます。

語呂です
嫌やい(1881)、アレクサンドル2世暗殺

19世紀のロシアは、まず王様を覚え、次に戦争です
ギリシア独立戦争⇒エジプト=トルコ戦争⇒クリミア戦争⇒露土戦争

ロシアの南下政策は、結局失敗しています。「西に南下できないなら、次は東に南下だ、これが後の日露戦争(1904~05)になるわけです

この話をブログで取り上げるのは、だいぶ先でしょう

今回は、以上です。次回は、ニュースのクリミア問題を解説します

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