さて、だいぶ久々ですが、中国史です。また今回の講義内容は、現在の中国を理解するうえで凄い重要です

まず復習ですが、の王様は、可能ならば全部覚えた方が良いです今のところは、最盛期までは説明しています

ヌルハチ⇒ホンタイジ⇒順治帝⇒康熙帝⇒雍正帝⇒乾隆帝

乾隆帝の頃までは絶好調なのですが、日本の長崎のように、外の貿易に熱心でありませんでした。広州だけに貿易が限定されていました

さらには、公行という独占的な特許承認が幅を利かせていました

■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html
※最盛期までの清情報

乾隆帝にはイギリスのマカートニーは、貿易の拡大を求めましたが、不発に終わりました。7代目嘉慶帝(在位1796~1820)時代には、イギリスのアマーストもトライしましたが、三跪九叩頭の礼を求められ、拒否した結果、不調に終わりました

中国の理屈では、王の前で使者は、3回跪いて、9回頭を叩く礼儀を行なわねばなりませんでした。イケイケ時代の世界トップは、清でしたから、自分のやり方を押し付けることができました

8代目道光帝(在位1820~50)時代に、転機が訪れます。1833年東インド会社の中国貿易独占権廃止がおきます。この時期にネイピアという人が訪れますが、この人も貿易拡大に失敗します

これはインドでも同じことが起きてましたね

■講義 part80 -インドの植民地化-
http://world-history.blog.jp/archives/8832614.html
※東インド会社情報

独占がなくなったおかげで、多くのイギリスの会社が「今がチャンス」と訪れますが、一番儲けた会社は、ジャーディン=マセソン商会です。これらのイギリス会社がエグいのが、アヘンという麻薬を売りつけているからです

これは中国の商品がを筆頭に絹・陶磁器など魅力的なものが多く、イギリスは絶えず赤字だったため、無理矢理黒字化するためのヤクザのような手法です

これを三角貿易といいます。大西洋にも三角貿易があったので、区別してくださいね

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この非道を防ぐため、アヘンの取り締まりにあたったのが、欽差大臣林則徐です。そして、この取り締まりに逆ギレして起こしたのが、アヘン戦争(1840~42)です

まさに外道ですw

習近平(任期2013~)は、力強くなった中国は、今こそ過去の屈辱から脱する時と考え、各地で揉め事を起こしています

■日中・日韓関係について(2013年12月5日開催) 
http://www.fis.takushoku-u.ac.jp/worldnow/21/4-1.html
拓殖大学 世界は今 2014年冬号 — vol.21より

”アヘン戦争での敗北以来170年余にわたり屈辱の歴史を背負わされてきたわが中華民族が、ついに偉大なる復興への道を探り当て、世界を瞠目させる成果を収めつつある。中華民族の偉大なる復興こそが、近代以降の中国人が最も強く待ち望んでいた夢である。この夢には過去のいくつもの世代の人々の深い思いが込められている”

つまり彼らは、アヘン戦争からのリベンジを今、行っているわけです

アヘン戦争は、もちろん清のボロ負けです結んだ条約は、南京条約です

■南京条約(1842)
・広州・福州・厦門・寧波・上海の5港開港
・香港の割譲
・公行の廃止
・賠償金の支払い(1200万両)
・関税協定権の付与


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さらには、1843年7月には五港通商章程で、領事裁判権を認めさせます。虎門寨追加条約では最恵国待遇や土地租借などを認めさせます

領事裁判権は、中国でイギリス人が捕まってもイギリスの法で裁かれるということです。また最恵国待遇は、他の国が特権をもらうと、自分の国も同じ権利をもらえる美味しいシステムです

この不平等条約の波にアメリカフランスが乗ります

1844年望厦条約(アメリカ)・黄埔条約(フランス)が結ばれ、イギリスと同程度の待遇になります

また南京条約によて、イギリスは上海に租界を手に入れました。租界とは、治外法権の領土です。ここでは、中国であっても中国のルールは通じず、イギリスのルールで物事が進みます

あとは文化史を少し、アヘン戦争期、林則徐は世界情勢把握の一貫で、魏源という人に「海国図志」という地図を作成しています

が思ったほど強くないとわかったイギリスは、さらなる侵略を進めます。1856年10月にアロー号事件が発生し、中国人にイギリス船が海賊行為を疑われる事件が発生します

またフランスも1856年2月、フランス人宣教師が殺害される事件が、発生したため、英仏はアロー戦争(1856~60)を仕掛けます

これは別名、第2次アヘン戦争ともいいます

ちなみに、この時期の王は9代目の咸豊帝(在位1850~61)です

語呂です
南に走れ(1840)、アヘン戦争。北はコロコロ(1856)、アロー戦争

ちなみに、この語呂南京条約(1842)と北京条約(1860)にもふれてます。これをに聞いてくる出題は多発しているので、注意してください「アヘン戦争を終了させたのは、北京条約である」みたいな誤った聞き方をされます

アロー戦争は、天津条約(1858)であらかた決まるはずだったのですが、条約締結の責任者が砲撃される事件が発生し、北京条約までかかりました

ちなみに南京条約・北京条約ともに、ココに記載したことは、全暗記でお願いします

■北京条約(1860)
・キリスト教布教の自由
・海港の増加※天津を含む11港
・九竜半島南部の割譲
・外国公使の北京駐在
・外国人の内地旅行の自由
・アヘン貿易の公認
・長江航行の自由

超高度な情報ですが、北京に外交官が駐在するため、清側も対応する機関を設立しました。それを総理各国事務衙門といいます。初代は恭親王です。東大模試などで聞かれてます

ちなみにこの戦争時に、円明園破壊されたことも聞かれます

■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html
※円明園情報

この条約を見れば、清がどれだけ、ボコボコになったか理解できますアヘン貿易を公然と認めてますからねどれだけイギリスにやられたかを知った上で、最近のニュースを見ると、まったく違った解釈ができると思います

-中国、エリザベス女王謁見を要求? 首相訪英巡り報道(ニュース)-
朝日新聞 2014年6月19日00時36分
http://www.asahi.com/articles/ASG6L1T0PG6LUHBI001.html

次回は、中国の改革運動について話します

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