それでは、フィリピンからアップする一本目行きます
すいません仕事はすでに忙しいですが、充実しています更新頑張ります
中国がボコボコになっているのを知って、イギリス・フランス以外にも領土に野心を持った国がありました。それはロシアです
かつてネルチンスク条約(1689)・キャフタ条約(1727)で決めたラインを越えようと画策します。それがアイグン(愛琿)条約(1858)です
■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html
※ネルチンスク条約・キャフタ条約
外興安嶺から進んで、黒竜江(アムール川)まで領土が広がります。またウスリー川以東が共同管理になりました
ここを沿海州といいます
川でいっぱいでるので、混乱しないでください
-アルグン川・アムール川・ウスリー川-
-アイグン条約-
さらには、アロー戦争戦争を終結させた北京条約で仲介役をした見返りとして、沿海州をゲットします。これも北京条約(1860)といいます
-北京条約-
さらにはイリ条約(1881)で、一部占領した地域を返す見返りに、貿易利権を手に入れてます。私のロシア関係の講義を学んだ人は、すぐ思い浮かぶと思います
この一連の流れは、南下政策に基づくものです
■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※南下政策情報
ロシア・中国関連の条約は、以下の順です
ネルチンスク条約⇒キャフタ条約⇒アイグン条約⇒北京条約⇒イリ条約
このようなヨーロッパの侵略にさらされる中、清は内部にも混乱を抱えます。それが太平天国の乱(1851~64)です
始まりは、アヘン戦争とアロー戦争の間ですね
首謀者は、洪秀全です。彼は客家出身です。中国では珍しい、キリスト教系の上帝会を立ち上げています。中国の特徴として、混乱期には宗教が主導的立場となり、時に王朝を転覆させています。客家は、もう学んでますね
■講義 part81 -東南アジアの植民地化-
http://world-history.blog.jp/archives/8865523.html
※客家情報
彼は、宗教結社を基盤に、広西省金田村で挙兵しました。これが大規模運動になり、清は自力でこれを鎮圧できませんでした南京を占領され、天京と改名し、都にされてしまいました
彼らのスローガンは「滅満興漢」です。満州人(清の国民)を滅ぼして、漢人を復興させようというものです。清は、征服王朝でしたね
彼らは、天朝田畝制度で、男女平等に土地を与えようとし、清の文化である辮髪の廃止や纏足の廃止を試みました
清自体が鎮圧できない中、活躍したのは地方の有力者による軍隊、郷勇でした。特に湖南省で挙兵した曾国藩の湘軍、安徽省で挙兵した李鴻章の淮軍が有名です
李鴻章は、捻軍の乱も鎮圧しています
他に外国人も参戦します。外国は継続的にお金を奪える環境を求めるので、清王朝の安定を考えます。アメリカ人のウォードは、太平天国の乱で戦死しましたが、イギリス人のゴードンも頑張って、立ち向かいました
彼らの軍を常勝軍といいます
またゴードンは、太平天国の乱で無事でしたが、マフディーの乱(1881~98)で死亡しています
マフディーの乱は、スーダンで起きた反乱です
ウォードとゴードンの区別は、まず国籍ですね。次に亡くなった場所に中国とアフリカの違いがあります。アフリカにアメリカの植民地はまったくありませんから、マフディーの乱とヒントがあったら、イギリス人のゴードンです
国内は、ぐちゃぐちゃ、海外の戦争にも連戦連敗で、どうにもなりませんねそのため、改革運動が起きます。それを洋務運動といいます。「西洋文化を学ぶことに務めます」と理解できますね
この時の皇帝は、10代目の同治帝(在位1861~75)です。彼の時代は、反乱もなく、比較的うまくいったので、「同治の中興」といわれます
この改革メンバは、漢人官僚で、軍事で名を挙げた李鴻章・曾国藩・左宗棠です。左宗棠は、曾国藩の部下で、後自立していきました。回教徒の乱を鎮圧し、捻軍の乱鎮圧にも参加しています
洋務運動のスローガンは、「中体西用」です。中国の文化を維持しつつ、西洋の学問・技術を学ぼうという意味です
次回は、明治維新と朝鮮の植民地化です
コメント