-マンデラ氏 獄中27年、人種融和説く-
「もし、マンデラ氏が白人への報復を呼びかけていたら、南アフリカは今とは異なるまったく別な形の国になっていただろう」
若い南アの女性記者が「国父」であるマンデラ氏の死に際し、英BBCテレビでこう語っていた。
マンデラ氏の最大の偉業は、国家反逆罪で27年余も投獄された“恨みや憎しみ”を国の未来のために捨てたことかもしれない。
「抑圧された側も、圧制者の側も、偏見と不寛容から解放されなければ、本当の自由は達成されない」
報復におびえる白人、肉親を殺害され、怒りに燃える黒人…。想像を絶する苦悩の中で、国民にこう呼びかけて許しと双方の和解に努め、分裂しそうな国を一つにまとめた。
「私は白人の独占支配とも、黒人の独占支配とも闘ってきた。全ての人が調和と平等な機会の下に暮らすことが私の理念だ。この理念のため、必要とあらば一命をささげる覚悟がある」
皮肉なことだが、政治犯として投獄されたことで、自由と民主主義への信念は一層強固になった。
南アは2010年夏、サッカーのW杯を開催し、新興国の一角に数えられるようになる一方、黒人間の所得格差拡大や民族差別、黒人貧困層による移民労働者襲撃など、社会のひずみが目立つ。大規模な鉱山ストは世界の鉱物市場にも影響を与え、警官隊によるデモ隊への発砲事件は、民主国家としてまだ歴史の浅い民主主義の行方にも影を落とす。
「マディバ(マンデラ氏の愛称)」が描いた「虹の国」には問題が山積している。だが、前出の若い記者が言うように、マンデラ氏が築いた民主主義の基盤があるからこそ、問題に立ち向かうための話し合いができるのだ。
アフリカには、旧植民者の白人の農地を取り上げ、権力や権益に固執して独裁体制を敷く国が現在でもどれだけあることか。
「報復から光の国は生まれない」。苦悩の中で光を得た「巨人」は、死して再び真の指導者のあり方を世界に訴えかけている。
-引用元-
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131207-00000099-san-m_est
■説明
正直、だいぶショックです…
実は、来年南アフリカに行こうと思ってました
会えるかどうかは、わからなかったのですが、彼の入院している病院に行こうと思ってました
私にとって、彼は生ける伝説でした
お墓参りに変更です…
受験生に皆さんには馴染みがない人だと思いますが、彼は差別と闘いました
南アフリカは、イギリスの植民地でした。今もそうですが、鉱物資源が豊富かつ、
貿易航路として有用であったので、イギリスはなかなか手放しませんでした
1961年の独立後も、アパルトヘイトといわれる差別政策が続いていました
この悪法は、白人と黒人の結婚を禁止したり、僻地に黒人を住まわせたりと、ヒドいものでした
そこに立ち上がったのが、マンデラでした
彼はアフリカ人民族会議(ANC)を率いて、反差別運動を展開しました
1962年8月~1990年2月の27年間、投獄されます
このあたりのエピソードは、『マンデラの名もなき看守』(2007)という映画で描かれています
興味あるかたは、見てみてください。他にも『インビクタス/負けざる者たち』(2009)というのもあります
アパルトヘイトを廃止した大統領は、白人のデクラーク(任1989~1994)といいます
彼はマンデラを釈放し、1991年にアパルトヘイトを廃止しました
1993年、デクラーク(左)とマンデラ(右)は、仲良くノーベル平和賞を受賞しています
翌1994年、ついにマンデラ(任1994~1999)は、黒人初の大統領になりました
われわれが最後に彼を見れたのは、2010年南アフリカワールドカップの閉会式です
それにしても27年間の監獄生活、考えるだけで絶望的ですよね
それを耐えた不屈の闘志、感服するよりほかありません
彼に会って、話がしたかったです