すいません。。仕事が、超忙しいです!!休みないです!!
本当はセンター試験の解説をしたいのですが、自分の体力がもちません
今回、国共合作がわからないというリクエストを受けたので、基本形だけシンプルに説明したいと思います
まず国共合作は、国民党と共産党が一緒に頑張るよということです
また第1次と第2次の登場人物を混同しないでください
第1次国共合作(1924)では、国民党の主役は孫文、共産党は陳独秀です
-孫文-
この国共合作の目的は、2つです。
1.軍閥打倒(内側の敵)
2.列強の打倒(外側の敵)
軍閥は、今のイスラム国を見ればわかります。かっこいいこといってますが、自分の私腹を肥やすために、結局暴力を使う集団です
国民党と共産党は、真逆の価値観ですが、共通する部分があります。それは中国の統一です。ただこの1点で仲良くします。本当にギリギリの連携です
この均衡が崩れるのが、孫文の死(1925)です国民党を引き継いだ蒋介石は、軍閥よりも共産党を危険視しています
-蒋介石-
1926年、軍閥打倒を開始しますが、彼の支援者は上海を牛耳る浙江財閥です。この上海が労働者、つまり共産党勢力に支配されかかったため、1927年上海クーデタを起こして、蒋介石は共産党を切り捨てます
金持ち支援の国民党は、どうしても労働者の味方、共産党とは手を結べませんでした
これを変える機会が、皮肉にも日本によって引き起こされます。1936年、いよいよ日本の中国への圧力が強まってきた頃、蒋介石が軍閥の有力者張学良に拉致される事件が起きました。これを西安事件といいます。
この時、必死の説得を試みたのが、共産党の周恩来です。トップも陳独秀⇒毛沢東に代わっています。
-周恩来-
これによって蒋介石は考えを改め、第2次国共合作(1937)がなるわけです。実際、国共合作間際には盧溝橋事件が発生し、日本の侵攻はいよいよ始まっていました
第2次の目的は、ただ1つ日本打倒でしょう
第1次・第2次国共合作は、登場人物・政党の価値観・敵は誰かを骨組みで押さえれば、後は細かい知識をつめるだけだと思います
最後に語呂です
いくつよ(1924)、第1次国共合作。いくつなん(1927)だっけ?上海クーデタ。
くさる(936)西安、くさるな(937)第2次国共合作
以上です。皆さんの受験シーズンに簡単なものしかだせず、申し訳ない
カテゴリ: 中国史
講義 part95 -辛亥革命-
これだけ、外国に無茶苦茶されてる中国です。「これは、そもそも中国をまとめてる清自体に問題がある」と思う人が多くでてきます
これが辛亥革命(1911~12)という清を倒す運動につながっていきます
一応、清側も義和団事件の衝撃があるので、光緒新制という改革運動を行ないます。ココには、西太后も噛んでますから、未来が見えてます
だって、光緒帝は改革運動を展開しようと模索して、西太后に潰された人間です。同じメンバで、同じことをやる。こんな矛盾したことはありません
■講義 part93 -中国分割-
http://world-history.blog.jp/archives/15110967.html
※戊戌の変法
ただ、いくつかの良いことは実施しています。以下がそれです。
1.科挙の廃止(1905)
2.憲法大綱(1908)
3.国会開設公約(1908)
4.軍機処の廃止(1911)
語呂です
科挙の廃止に行く礼子(1905)、おや(08)!?憲法大綱・国会開設、軍機処廃止はいい(11)ですね
簡単にいうと、今までの中国文化の否定、欧米の模倣です。科挙なんか、598年の隋から続いたものです。これを廃止したのは凄いと思います
この背景には、模倣に成功した日本があると思います。日本はアジアには絶対ムリと思われた欧米の一角、ロシアを撃破するまで激変していたからです
天皇をトップにいただく日本のシステムは、清の皇帝をトップに近代化したい新生清政府にとって、仕切り直しに絶好のモデルです。彼らの意図はよく理解できます
しかしながら、もっと根本的な部分から変えないと、もう間に合わないと思っていた人がいます。それが、孫文(1866~1922)です
-孫文-
孫文は、まず1894年にハワイで興中会を設立します。場所は特徴的なので、けっこう聞かれます。
語呂です
白紙(894)に戻そう、興中会
これ、ドレフュス事件の語呂と同じです。当たり前です。同じ年に起きた事件だからです。世界史は、いろいろな場所を勉強するので、時間軸がグチャグチャになると思いますが、そういう時に年号暗記は重要です。同年に起きた出来事は、まとめて覚えておきましょうね!!
■講義 part86 -帝国主義時代(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/9988564.html
※ドレフュス事件
この他の革命団体として、章炳麟・蔡元培の光復会、黄興の華興会があります。これらの革命団体が1905年、東京で統一されます。それが中国同盟会です
興中会+光復会+華興会=中国同盟会
この団体は、機関誌「民報」で、国民を革命へと鼓舞します。彼らのスローガンは以下になります。
■三民主義
・民族の独立…他国なんかに侵略されず、自立するぞ
・民権の伸長…国民の権利を強くするぞ
・民生の安定…国民の生活を安定させるぞ
■四大綱領
・駆除韃虜…清朝を倒す
・恢復中華…強い中国の復活
・創立民国…国民の誕生
・平均地権…土地はみんなのもの
孫文たちは、以上のことを清ができないと思ってます。それが象徴的に現れたのが、幹線鉄道の国有化(1911)です
これは、外国からお金を借りるため、鉄道を担保にしたいがため、民間から鉄道利権を取り上げた事件です。これは中国の人にとって、売国的に映ったわけです
もちろん、お金は四国借款団といわれる英・米・仏・独から借りる予定でした。この国有化事件をキッカケに、四川暴動が起きます。また連鎖的に、武昌蜂起も起きました
ここが重要なのが、武昌では軍部が、国民の側についたことです。2014年9月、香港で反政府デモが起きましたが、おそらくこのデモ自体は鎮圧されるでしょう。軍部が協力するかが、革命の成功させる上でのポイントです
■2014年香港反政府デモ
http://ja.wikipedia.org/wiki/2014%E5%B9%B4%E9%A6%99%E6%B8%AF%E5%8F%8D%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%83%87%E3%83%A2
辛亥革命と今の中国の決定的な違いは経済です。今でも各地で中国各地で暴動が起きていますが、経済が発展しているうちは大丈夫です。辛亥革命時は、鉄道担保に金を借りようとしてるわけですからね
経済が悪化した時、それが中国が辛亥革命のようなことになると、私は見ています。注意深く、ニュースを見ていてください
軍部の中で、寝返ったボスで有名なのは、袁世凱です。彼は、西洋式軍隊の新軍といわれる軍隊のうち、北洋軍のボスでした
こうして、清は倒れ、1912年中華民国が、南京に成立します
孫文たちは、軍隊の力を必要としていましたから、彼をリーダーとして認めます。彼は、そのため臨時大総統といわれるものになりました
1912年には、宋教仁らが国民党を立ち上げ、袁世凱の暴走を止めようとしましたが、宋教仁自身は、暗殺されてしまいました
袁世凱には、国民のためなどという思いなどなく、自分が皇帝になりたいという野心しかありません。1913年には帝政を開始します
これは猛反発を招き、彼自身病死したこともあって、なんとか取り消しになりましたが、権力をうまく1点に集中できない状態が続き、軍部が各地の勢力を、自分の領土のように扱う、軍閥といわれる勢力の伸長を許してしまうことになりました
中国が真の意味での統一をするのは、毛沢東の登場まで待つ必要がありました
-毛沢東-
次回は、アジアの民族運動いきます
講義 part94 -義和団事件と日露戦争-
前回の講義で、海外にいいようにやられた中国を説明しました。中国国民の中にも、これに対する反発があります
その思いが結実したのが、義和団事件(1900~1901)です。キリがいい年代に発生してるので、サックリ覚えてください
これは山東省を根拠にした白蓮教系の義和団が起こした、外国排斥運動です。スローガンは「扶清滅洋」です。中国のスローガンは、よく正誤問題で出題されます
まずは、中国の省名は有名所を暗記です。「この事件は、何省で起きましたか?」みたいな設問多いです
-山東省-
次にスローガンですが、よく太平天国の乱(1851~64)と逆にして、聞かれます。こっちのスローガンは、「滅満興漢」でしたね
■講義 part83 -中国の内乱と近代化(太平天国の乱・洋務運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/9001991.html
※太平天国の乱
「扶清滅洋」ですが、扶養家族といった言葉から想像できるように、扶には「助ける」という意味があります。「清を助けて、滅茶苦茶する西洋を滅してやる」で、彼らの考えが理解できると思います
太平天国の乱時代は、アヘン戦争(1840~42)とアロー戦争(1856~60)の間に起きてます。中国分割が起き始めた段階では、中国人の意識は、内部のよそ者である清に向かっています
多数派の漢人から見れば、万里の長城の向こう側から来た清はよそ者ですだから、外国勢力に混乱させられ、ナンバーワンであることを証明できない清に怒りが向いてます
だから、「滅満興漢」です。清の母体民族、「満州人を滅ぼして、漢人の国を復興させる」になるわけですね
■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html
これが義和団事件になると、継続的に中国が蹂躙されているわけですから、清⇒外国に対象が移動したのは理解できます
このように流れを理解できていれば、スローガンをどっちか忘れても、時代背景から、推量して答えに到達できます。なので、この一連の流れ、押さえておいてください
この義和団事件ですが、清で防げない外国勢力を、国民で防ぐことなんかできません。日・露・英・仏・米・独・墺・伊というオールスターで、ボコボコにされます
これを8ヵ国共同出兵といいます。義和団事件を終わらせた条約は、北京議定書です。決まり事がけっこうありましたが、北京駐兵権が一番重要です
アロー戦争を終わらせた北京条約では、公使の駐在が認められてましたが、今回は軍に格上げされてます。北京条約・北京議定書似てますね?
つまり、駐在と駐兵は正誤問題で聞かれます
そしてこの駐在を利用して、満州、今の遼寧省のあたりまで、伸長してきたのが、ロシアです。ロシアは、この好機を利用して、朝鮮にまで手をだそうとします
この時期の日本外交の良さは、世界NO1の国と手を握ったことです。この当時のNO1は、イギリスです。イギリスは、「光栄ある孤立」という名のもとに、同盟を結ばない風土がありましたが、ロシアの南下政策の野心を警戒していました
イギリスは、外交政策を変更し、日英同盟(1902)が成立します。朝鮮の権益にロシアが侵入したきたわけですから、日本は戦争の決断に入ります
朝鮮を譲歩して渡しても、「次は九州くれ、四国くれ」と要求がエスカレートするわけですから、日本はもう戦う以外の選択肢がありません
それが日露戦争(1904~05)です
日本はコツコツ勝利を重ね、なんとか旅順・大連を攻略します。これらの影響で、ロシア国内に厭戦気分が高まり、血の日曜日事件が1905年1月におきます
■講義 part88 -帝国主義時代(ロシア)-
http://world-history.blog.jp/archives/11098268.html
※血の日曜日事件
戦争に勝てないと、内部がグラつきだすのは典型的な話です。日本もギリギリの勝利を続けています。1905年3月の奉天会戦にも勝ちましたが、まだロシアは降参しませんでした
-奉天-
ロシアのプライド、バルチック艦隊が、わざわざバルト海から来ていたからです。すごい距離をきてます。その艦隊が、日本海軍と決戦します。それが、日本海海戦(1905年5月)です
-バルト海-
これにも日本は、勝利しました。相手が半年かけて、来たことで疲労というアドバンテージがありましたが、日本海軍は、ロシア艦隊をほぼ壊滅させることに成功しました
朝鮮半島と日本には、日本海という海があり、もしロシアが勝利していたら、日本の権益が分断される最悪の事態が発生していました。その中での大勝利です
アメリカのセオドア=ローズヴェルトの仲介で、日本・ロシアの間にポーツマス条約が締結されます
■ポーツマス条約(1905年9月)
[日本全権・小村寿太郎 ロシア全権・ウィッテ]
・韓国の保護権
・遼東半島南部
・南満州鉄道(長春~旅順間)
・南樺太
韓国の領有は、清・ロシア・日本で争っていました。以下の流れで、日本の帰属になります
日清戦争⇒清×
日露戦争⇒露×
この当時の日米関係は、友好でしたから、ポーツマス条約の前に桂・タフト協定(1905年7月)があって、韓国は日本のもの、フィリピンは米のものと認め合ってます
このあたりあるので、韓国の人は、アメリカに守ってもらいながら、アメリカを嫌いという複雑な感情を持つことになります
日本の韓国領土化に文句をいう国はいんかうなってので、段階的に吸収していきます。それが日韓協約です
第1次日韓協約(1904)
第2次日韓協約(1905)…韓国の保護国化に成功
第3次日韓協約(1907)…韓国軍隊を解散
※第3次は、ハーグ密使事件で皇帝高宗が日本支配の不当を訴えて、失敗し、これをキッカケに協約が結ばれました
1909年には、初代韓国統監の伊藤博文が、安重根に暗殺されます。韓国には皮肉ですが、これを理由に、1910年に韓国併合が行われました
併合後は、統治機関として朝鮮総督府がおかれます。初代総督は、寺内正毅です。統監・総督は似た表現です。つまり正誤問題で聞かれます
このあたりまでの日本の戦略は、合理的で良かったと思います。まず世界NO1と手を組むということ。各国の同意を得て、韓国を併合したこと。条約においても、賠償金を要求せず、内情を鑑みて、領土だけで我慢したこと。自分の実力にあった、最大限の努力ができていたと思います
ここから先の日本は、本当に終わりの始まりだと思います。。。
次回、中国の辛亥革命いきます
講義 part93 -中国分割-
中国の植民地化を話します。ココも、どこが植民地にしてるかが重要です
登場する国は、英・仏・独・露・日です
-中国分割-
ざっくり植民地マップです。このイメージで、私は頭の中に入ってます。まずロシアとフランスのイメージは簡単だと思います
ロシアは、もともとあった領土を、中国側に広げただけなので、北側に領土がありますね。フランスは、ベトナムを抑えてますから、そこから領土を広げています
■講義 part81 -東南アジアの植民地化-
http://world-history.blog.jp/archives/8865523.html
※ベトナムの植民地化
イギリスは、長江を抑えているイメージです。あとは香港周辺ですね。幸か不幸か、イギリスの植民地化の影響で、香港は中国で独自のマインドを持ちます。民主主義ですこれが、現在の香港デモの底流にあります。
-なぜ香港の若者は「中国嫌い」になったか-
2014.10.30 Thu SYNODOS
http://synodos.jp/international/11343
ドイツは、山東半島を抑えてます。日本は、福建省ですね。これらを骨組みに後は、肉付け作業です。
-租借地・鉄道名-
まず、租借地という言葉を説明します。これは、土地を借りるという意味ですが、ほぼほぼ領土といっても過言でないです
九竜半島の借りた年数なんて、99年もありますロシアの旅順・大連は、南下政策を思い出してください。なぜ、このような港町が欲しいかわかるはずです
鉄道は、物を売買する際の輸送手段として有効です。南下政策の一環で作ったロシアの東清鉄道を覚えておいてください
■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※南下政策
-旅順・大連・膠州湾・威海衛-
イギリスは、ドイツの権益に飛び地のように、威海衛という領土を持ってます。あまり知られてませんが、イギリスは今でも、スペイン周辺にジブラルタルという領土を持ってます
ここを巡って、イギリス・スペインは今でも揉めます。これは、皆さんも知っているはずの、スペイン継承戦争(1701~13)の結果が、現在まで続いているからです
■講義 part53 -ルイ14世(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/4169283.html
※スペイン継承戦争
このような中、アメリカも中国の利権に手を突っ込もうとします。それが国務長官ジョン=ヘイの門戸開放宣言です
■門戸開放宣言
・門戸解放(1899)
・機会均等(1899)
・領土保全(1900)
領土保全だけ、追加で1900年です。このあたりは、ほどほどの大学の正誤問題にでます。「ジョン=ヘイは、1899年門戸開放宣言で、門戸開放・機会均等・領土保全を訴えた」は、誤りになります
これは、ハッキリいって、中国にとって迷惑な話で、「遅れてきた、俺にも中国をくれ」というファキンメッセージを難しくいってるだけですw
こんなに滅茶苦茶されてますから、中国自身も変革運動を開始します。それが変法運動(変法自強)です
中心人物は、康有為・梁啓超・譚嗣同です。難しい字ですが、記述させる大学も多いです。頑張りましょう彼らは、公洋学派ともいわれます
彼らの運動は戊戌の変法(1898.6~1898.9)の短い期間です。なぜか?政治を変えようとしたからです。以前、洋務運動(1860~94)というのがありましたね?
洋務運動は、外だけ西洋式に変えて、内側の政治は変えませんでした。当時の中国は、王政です。ここに手をつけませんでした
■講義 part83 -中国の内乱と近代化(太平天国の乱・洋務運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/9001991.html
※洋務運動
結果、中国に何が起きたか?明治維新(1868)を起こした日本に日清戦争(1894)で負けるわけです。康有為は、確信しました。「日本のように政治から変えないと、国は変わらない」
当時の皇帝、光緒帝(在位1875~1908)も同じ思いでした。これを潰したのが、9代咸豊帝の妃、10代同治帝の母、11代光緒帝のおばである西太后でした
これを戊戌の政変(1898)といいます。これで西太后が実権を握ります。西洋に侵略された中国はかわいそうだと思いますが、付け込まれる要素は、中国自身にあったのは確かだと思います
次回、義和団事件と日露戦争いきます
講義 part84 -明治維新と朝鮮の植民地化(日清戦争)-
日本を世界史で語りましょう
日本が歴史上、もっとも成功した事例は明治維新(1868)だと思います。ちなみに、明治・大正・昭和・平成の始まりを語呂で提供します
ぃヨーロッパ(1868)、行く日に(1912)、行く風呂(1926)、急迫(1989)事態は平静(平成)に
ペリーさんが、日本に来たのが1853年です。1954年には、下田・函館の2港が日米和親条約で開港しています。ちなみに1853年は、クリミア戦争の年でしたね
■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※クリミア戦争
-ペリー-
ペリー自体が、世界史で聞かれることはマズないでしょう。ちょっと聞かれてる問題あったら、教えてほしいです。その際は訂正します
1858年には、日米修好通商条約を結びます。長崎などが、これで開港されます。ここまでは清などの植民地化された国家と同じ流れです
世界史受験でも、日米和親条約・日米修好通商条約は覚えておいてください
ここから明治維新までの10年間が、怒涛の幕末です。よくNHKの大河などでテーマになる時代ですね
まずは15世紀以後、中山王尚氏の一族が、琉球を統治していました。極めて弱小国家だったので、清にも日本にも服属しているふりをして、独立を維持していました
日本側では、島津藩に琉球は服属しています。中国との、どっちつかず状態のため、中国側に流れるのを避けるため、急速に吸収していきます
1879年には、沖縄に改名し、日本側に引き込みました。この流れが、沖縄が日本というものに今も抱く反感になっています
また、このどっちつかずの状態が、「俺に沖縄を支配する権利がある」という中国の根拠にもなっています。さらに、この話が尖閣問題とリンクしていき、現在の状況をうんでいます
■ニュース -中国政府の防空識別圏設定について-
http://world-history.blog.jp/archives/1457425.html
南においては、台湾を制圧します(1874)。また北においてはロシアと、千島・樺太交換条約(1875)を結びます。この延長線上には、いまだ抱えている北方領土の問題があります
次に西に向かいます。江華島事件(1875)において、朝鮮との間に日朝修好条規(1876)を結びました。これで釜山・元山・仁川の港が開港します
語呂です
いい花こーたる(1875)、江華島事件
ちょっと逆さまの地図を見てください。軍事の観点から、どうしても日本は、朝鮮を抑えておきたい場所でした。そこをロシアなどの欧米列強に占領されれば、次に攻め込まれるのは日本です
1891年には、ロシアはシベリア鉄道建設を開始しています。それが完成すれば、広大なロシアの東西がつながります。これに日本は、危機感を抱いているわけです
朝鮮半島は、日本に攻め込む拠点として、絶好の地形でした。日本陸軍の近代化に貢献したドイツ人メッケルの言葉を借りれば、「半島は、日本の脇腹に突きつけられた短刀である」と言っています
しかし、ココに手を入れることは、古くから影響力を発揮する中国との対決を意味します。まずは、清側の支持する大院君と日本が支持する閔氏一族で朝鮮の主導権争いがおきます
大院君(清) × 閔氏一族(日本)
ここから複雑ですが、整理して話します。まず大院君は、現政権を執政する高宗の父であり、閔妃は、高宗の奥さんです。これの親戚が、閔氏一族です。つまり家族内で揉めているわけです。当時は閔氏が政治を動かしていました
大院君は、閔氏を打倒するため、壬午軍乱(1882)をおこします。これを閔氏一族は単独で鎮圧できません。清の力を借りて、やっと抑えました。日本は朝鮮に大規模軍隊を駐留してませんでしたから、ここで活躍できません
閔氏は政権を維持するため、清の力を借りました
大院君も、清の影響下にありましたが、軍を送られるとは思わず、クーデタは失敗します。また閔氏一族は、日本⇒清に服属関係を変更します
ここで起きている争いは、外国の影響力を利用した王座の取り合いと考えてください。だから、裏切り、裏切られを繰り返します。これが受験生を混乱させています
日本は、新たに朝鮮の近代的独立を夢見る金玉均を支持します。かれの勢力を開化派(独立党)といいます。閔氏一族は、事大党という一派を率いています
事大党(清) × 開化派(日本)
開化派は、清の一時的勢力後退のタイミングをついて、政権奪取を目指します。そのタイミングは、清仏戦争(1884)でした
■講義 part81 -東南アジアの植民地化-
http://world-history.blog.jp/archives/8865523.html
※清仏戦争情報
本来、戦争はあっちこっちで、できるものでありません。ベトナムに集中している状態を狙いました。それが、甲申政変(1884)でした
しかし、清軍も迅速に軍を派遣して、これを鎮圧しました。金玉均は、朝鮮にいられなくなり、亡命、後に暗殺されています
朝鮮半島で、清×日本の争いが、バチバチ起きてますそのため、天津条約(1885)によって、お互いの軍の撤退を取り決めます
清の全権は、李鴻章。日本全権は、伊藤博文でした
-伊藤博文-
こんなに朝鮮半島で好き勝手、他国にやられてますから、朝鮮の人は不安です不安な人の拠り所は、だいたい宗教になります
儒・仏・道の3宗教の影響を受けた東学というものが生まれ、人気がでます。これは、西洋の宗教を意味する西学への拒絶感でもあります。創設者は、崔済愚です
この信者を軸に、ついに暴動が起きます。それが1894年の甲午農民戦争(東学党の乱)です。指導者は、全捧準です
皮肉なことに、これが清軍・日本軍ともに軍隊を派遣する口実になります。日清戦争(1894)の開戦です。そして日本は、これに勝利します
1895年には下関条約が結ばれました。ふたたび清の全権は、李鴻章。日本全権は、伊藤博文です
■下関条約
・朝鮮の独立 ※今までのような清の干渉は、これで不可です
・遼東半島の獲得
・台湾の獲得
・澎湖諸島の獲得
遼東半島は、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって、後に清に返還することになります。日本のロシアに対する懸念が、完全に証明されたわけです
ロシアが、次の日本のターゲットになります
日清戦争の年号ですが、ココから10年おきに、凄い重要な戦争が連続しておきます。私は10年おきシリーズとして覚えています
日清戦争(1894)⇒日露戦争(1904)⇒第一次世界大戦(1914)
さて、最後に何故、日本は清に勝てたのかを解説します。そもそも近代化の時期も一緒であれば、大国中国は負けるはずがないはずでした
これは、中国は洋務運動によって外側だけを変え、日本は明治維新によってすべてを変えたことに違いがあります
日本の持つ強みは、オセロゲームのように白黒をすぐ変えられる所です。まぁ、これは弱みでもあります今の日本人を見ればわかると思いますが、まず自分の意見がありません
大学生は、就職を前に、自己分析を求められ、だいたい絶句しますw
日本は、世界のトップを走っているイギリス・ドイツ等を見て、立憲君主制の道を探します。議会を利用した合理的意志決定機関の創設です
この決断が、英断だったと思います。だいたい遅れている国は、王政のままです。王は自分が間違うとは考えず、また王が間違っていると部下が考えても、殺されたくないので、部下は真実を言いません…
「中体西洋」で、外面だけ取り繕っても無意味なことは、属国と思っていた日本に負けた清が、一番理解していると思います
■講義 part83 -中国の内乱と近代化(太平天国の乱・洋務運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/9001991.html
※洋務運動情報
江戸時代の幕藩体制では、どこにも勝てなかったはずです。幕藩体制は連合国家みたいなものですから、九州をイギリスが支援、北海道をロシアが支援とかしている間に、国は領土を奪われていたと思います
そこに今までまったくフューチャーされていない天皇陛下をシンボルにし、無理矢理、立憲君主制のようにしたのが、明治維新です
天皇陛下は、歴史上、長く、国民にとって認知度のない存在でした。それは宮崎駿さんの「もののけ姫」を見てもらえばわかります
ジコ坊が エボシに対して「これは天朝様の勅令である」と威張ってますが、エボシは自分の村の者に、その手紙を見せますが、村人は「?」です
これは、天朝=天皇陛下の認知度をよくあらわしたエピソードだと思います
次回、帝国主義いきます