基本的にアジアは当時、植民地か、かろうじて独立できているだけですそれだけ欧米の力は、圧倒的でした。そんな時代のアジアの話です
■サウジアラビア
18世紀にワッハーブ派という派閥がうまれます。イスラムといえば、だいたいスンナ派か、シーア派でしたが、ワッハーブ派はスンナ派系です。ワッハーブ派は、サウジアラビア以外では、一般的ではありません。ワッハーブ派=サウジアラビアでいいと思います
■講義 part30 -イスラーム世界-
http://world-history.blog.jp/archives/1916196.html
※スンナ派・シーア派
アラビア部族のサウード家は、ワッハーブ派と手を組んで、ワッハーブ王国(サウード王国)を建国(1744頃~1818、1823~89)します
この王国1回1818年に滅んでますが、これはエジプトのムハンマド=アリー(在位1805~49)の影響です
■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※ムハンマド=アリー情報
その後、サウード家は、後のイラクの原型となるヒジャーズ家を併合して、1924年にヒジャーズ=ネジド王国を建国します
これを昇格させた国が、サウジアラビア王国(1932~)になります。初代国王は、イブン=サウード(在位1932~53)になります。首都はリヤドです
-サウジアラビア-
この流れもあって、サウジアラビアとイラクは、仲が悪いです
■イラン
まず、ここにあったマイナーな王朝、ザンド朝を倒して、トルコ系イスラムのカージャール朝(1796~1925)ができます。都は現在のイランの首都と同じ、テヘランです
イランも海につながっていることから理解できると思いますが、ロシアの南下政策の餌食になります。1828年には、ロシアとの間でトルコマンチャーイ条約を結び、アルメニアを割譲します。ちなみに1828年は、審査法廃止と同年です
■講義 part66 -19世紀の自由主義・社会主義-
http://world-history.blog.jp/archives/6117577.html
※審査法廃止
■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※南下政策
ちなみにですが、アルメニアとアルバニアを間違わないでください。時々、世界史の問題で聞かれるので注意です
-アルメニアとアルバニア-
イランには、イギリスも利権を求めてやってきます。イランは、いいようにオモチャにされるわけです。それを良く思っていないのが、シーア派系のバーブ教創始者、サイイド=アリー=ムハンマドです
バーブ教徒は、反乱を起こします。それがバーブ教徒の乱(1848~50)です。年号は、二月革命(1848)と同じですね。もちろん、反乱は鎮圧されてます
■講義 part65 -七月革命・二月革命(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/6038154.html
※二月革命
イランは、ヨーロッパに対して不満が溜まっていきます。イギリス人が、イランでのタバコの利権を独占した時には、タバコ=ボイコット運動(1891)が発生しますが、これも鎮圧されます
語呂です
歯食い(1891)しばる、タバコ=ボイコット運動
これでイランの中に自立したい思いが強まります。これがイラン立憲革命(1905~11)へとつながりますが、これもイギリス・ロシアにつぶされます
■アフガニスタン
まず抑えて欲しいのが、イギリスはインドを軸に植民地を拡大させたいと思っていることです。そことロシアの南下政策が衝突することが各地で頻発します。衝突地はイランであり、ここアフガニスタンであるわけです
ドゥッラーニー朝(1747~1842)の流れをくむアフガニスタン王国は、ロシアとイギリスの戦場になります。それがアフガン戦争(1832~42、78~80、1919)です。全部で3回あります
2回目で、イギリスの勝利となり、アフガニスタンは保護国化(1880)されます。実質の植民地です。3回目には、当時の独立ブームの流れを受け、アフガニスタンは独立することになります
それ以後も、ロシアはココを虎視眈々と狙っています
■中央アジア
最後に中央アジアを少し、ここにはかつてティムール(1370~1507)という国がありましたが、ウズベク人に滅ぼされました。そのウズベク人たちは、3つの国家を作っています
■講義 part41 -ティムール・サファヴィー・オスマン朝-
http://world-history.blog.jp/archives/2590485.html
※ティムール朝
国名は、ブハラ=ハン国(1505~1920)、ヒヴァ=ハン国(1512~1920)、コーカンド=ハン国(1710頃~1876)といいます
この3つともロシアによって潰されてます。そこ覚えておきましょうまぁ、中央アジアを抑えたから、次はイランやアフガニスタンに行ったわけですね。この時代のロシアの動きは、すべて南下政策で説明できます
今日は、以上です。次はインドの植民地化について話します
カテゴリ: イスラーム世界
講義 part78 -衰退期のオスマン帝国-
さて、久々のイスラムですオスマン帝国(1299~1922)は、一時期はおそらく世界最強といっても過言ではなかったんですが、第2次ウィーン包囲(1683)の失敗を最後に下降線を辿ります
■講義 part41 -ティムール・サファヴィー・オスマン朝-
http://world-history.blog.jp/archives/2590485.html
さらにはナポレオンによるエジプト占領(1798~99)は、ナショナリズムを喚起しました。これはオスマン帝国にとって、けっこうな泣き所です広大な地域を支配していますから、オスマン帝国はトルコ人を頂点にする多民族国家です
そこで占領された他民族が、「自分の国を持ちたい」という思いから、反乱をおこしますすでに触れてますが、ギリシア人やエジプト人が反乱を起こします
■講義 part64 -ラテンアメリカ諸国の独立とギリシア独立戦争-
http://world-history.blog.jp/archives/6006451.html
※ギリシア独立戦争
■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※エジプト=トルコ戦争
これらの反乱でオスマン帝国のシステムは、すでに老朽化していることが明らかになりました。もちろんオスマンの王様は、改善に乗り出します
この際の反対派は、イェニチェリです。イェニチェリは、キリスト教系の奴隷でしたが、王直属の軍のため、成果をあげたものは、凄い報奨をもらえてました
オスマン自身は、西洋化を進めないと、ドンドン領土が減っていく恐怖がありましたが、旧制度の廃止で職を失う恐れのあったイェニチェリが抵抗するわけです
28代目のセリム3世(在位1789~1807)なんかは、西洋式軍隊を模索しましたが、イェニチェリに暗殺されています
なんとかイェニチェリ軍団の解散(1826)に漕ぎ着けたのは、30代目のマフムト2世(1808~39)です
-マフムト2世-
彼の時に、ギリシア独立戦争(1821~29)、第1回エジプト=トルコ戦争(1831~33)、第2回エジプト=トルコ戦争(1839~40)等起きてますから、危機感は相当だったと思います
マフムト2世以降も改革は続きます。ここから続く1839~76年の改革をタンジマート(恩恵改革)といいます
これは31代目のアブデュル=メジト1世(在位1839~61)が、ギュルハネ勅令を発布してスタートします
彼は、クリミア戦争期(1853~56)のスルタンですね
34代目のアブデュル=ハミト2世(在位1876~1909)は、宰相にミドハト=パシャを登用して改革をすすめます。西洋の根幹たる憲法に着目し、ミドハト憲法(1876)を制定しますが、これはアジア初の憲法であり、二院制や責任内閣制を備えていましたが、ロシア=トルコ戦争(1877~88)開始をきっかけに運用を停止しました
つまり改革はうまくいかず、オスマン帝国はただ死を待つだけの存在なわけですこういうのを見るにつけ、日本はよく明治維新(1868)が達成できたと思います
次回も、イランなどの中東系を説明します
講義 part41 -ティムール・サファヴィー・オスマン朝-
今回あげるティムール・サファヴィー・オスマン朝は、モンゴル帝国衰退後にでてきたイスラム王朝です
まずは、ティムール朝(1370~1507)です。王朝名通り、創始者はティムールです。チャガタイ=ハンから独立して成立してます
都は、サマルカンドです
慶応とか中央アジア史をよくだします。中央アジア史はマニアックですが、有名大では、ポツポツ聞かれます。サマルカンドは、中央アジアで有名な都です。場所含めて、覚えましょうね
彼らは当時イケイケだったオスマン帝国をアンカラの戦い(1402)で破ってます
語呂です
意志をつ(1402)ないだアンカラの戦い
さらにティムールは、中国の明まで征服する野心がありました。実際明に軍を派遣する途中で病死しています
3代シャー=ルフ(位1409~47)は、オスマンや明と和平路線で、文芸を保護したことで有名です。また都をヘラートに遷都しています
4代ウルグ=ベク(位1447~49)は、天文台を作ったことがよく聞かれます。この国は、彼以後衰退し、ウズベク族に滅ぼされます
ティムールの血をひく、ムガル帝国のアイバクは、ウズベク族が強かったので、インド側に攻撃をシフトして、自分の国を作ってます
これ前回、話ましたね
■講義 part40 -ムガル帝国-
http://world-history.blog.jp/archives/2517568.html
そのウズベク族を追い払ってイランに建国したのが、サファヴィー朝(1501~1737)です。ウズベク族を挟んでティムールと入れ替わった形で登場します。シーア派の王朝です
ファーティマ・ブワイフ・サファヴィー朝あたりは、シーア派の王朝について聞かれる問題多いです
都は、初期がタブリーズで、後にイスファハーンです
初代はイスマーイール1世です。彼は王の称号として、シャーを使用します
最盛期は、5代アッバース1世(位1587~1629)です。彼の時、イスファハーンに遷都し、「イスファハーンは、世界の半分」といわれる美しい都を作りました
彼の凄い所は、当時強かったホルトガルが占拠していたホルムズ島を1622年に取り返したところです
彼以後はなだらかに弱体化し、アフガン人によって決定的ダメージを受け、滅びます
サファヴィー朝は、ウズベク人に始まり、アフガン人に終わるです
最後にえらい長く続いたオスマン帝国の話です。この王朝は、1299~1922年まで続きます。世界史やっていると1922年が最近に思えてしまいます。もう100年ぐらい前ですね
この王朝で覚える王様は、多いです
建国者は、オスマン1世です。ルーム=セルジューク朝から独立します
都は、ブルサです。オスマン帝国でしか聞かれない都です
次のムラト1世は、バルカン半島に進出し、アドリアノープル(エディルネ)を占拠後、そこに遷都します
またコソヴォの戦いに勝利し、ドナウ川以南の土地を獲得します
さらに4代バヤジット1世は、ニコポリスの戦い(1396)にハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ連合軍を破ります。ジギスムントは神聖ローマ皇帝でもあり、1414年にコンスタンツ公会議を開催してましたね
■講義 part36 -中世都市とキリスト教会の衰退-
http://world-history.blog.jp/archives/2370887.html
とにかくオスマンは、イケイケですね
ここでオスマン帝国を揺るがす事件が起きますアンカラの戦い(1402)でティムールに負けて、バヤジット1世が捕虜になり、そのまま病死します
ここから浮上して、また力を取り戻したのは、メフメト2世です。彼が聞かれることは、1453年にビザンツ帝国を滅ぼしたことですね
海上封鎖して軍艦を通れなくてしたビザンツに対し、丸太で道を作り、船を山を通して移動させて攻撃したのは有名な話です
これキッカケで、コンスタンティノープル⇒イスタンブルに名称変更がありました
セリム1世(位1512~20)は、1517年にエジプトで勢力のあったマムルーク朝を滅ぼしています。また世俗の頂点であるスルタンと宗教の頂点カリフをあわせたスルタン=カリフ制を始めています
つまり、めっちゃ強いってことです
こんな強いオスマンの最盛期が、スレイマン1世(位1520~66)です。この人がオスマンで一番聞かれます。彼はスレイマン=モスクという礼拝堂も作ってます
イスタンブルにあります。ハギア=ソフィア聖堂と同じ場所にありますね。形もにてますから、区別できるようにしてくださいね
まずモハーチの戦い(1526)で、ハンガリー王ラヨショ2世を倒します。結果、ハンガリーはオスマン領になります。モハーチの戦いは、ムガル帝国成立と同じ年ですね
同時に覚えて、暗記の負担を減らしましょう~
さらにスレイマン1世は北上し、1529年にウィーン包囲を行いました
語呂です
ウィーンをこづく(1529)、スレイマン1世
さらにプレヴェザの海戦で、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍を倒し、地中海を制覇します
語呂です
以後見は(1538)しない、プレヴェザの海戦
スレイマン1世は、ヴァロワ朝のフランソワ1世とは友好関係を築き、同盟を結んでいます。フランスには特別待遇のカピチュレーションを与えています
オスマンの領土拡大は、ウィーンで留まり、フランスと手打ちにしたと思います
ここからジワジワ勢力が減退します。1571年のレパントの海戦でスペインに負けます
1683年の2回目のウィーン包囲も失敗し、1699年にはカルロヴィッツ条約で、ハンガリーをオーストリアに渡します
まさに下り坂です。ここからオスマンはやられまくりです
最後にオスマンの政策を少し話ます。オスマンはヨーロッパに領土がありますから、彼ら白人の扱いをいろいろ考えます。ヨーロッパ人のみで作ったイェニチェリという軍隊は凄い強かったです
これは、子供の頃からマインドコントロールして、マシンにような戦士にしています。またキリスト教の共同体をミッレトといい、宗教の自由を与えています
オスマンでは、メフメト2世・セリム1世・スレイマン1世は最低限覚えてください
ホントどれも聞かれます
都もブルサ⇒アドリアノープル⇒イスタンブルと移ってます
以上です
次回は、朝鮮史いきましょう
講義 part31 -イスラーム世界の乱立-
前回は、アッバース朝まで話しましたね
今までは1つの王朝が、イスラムの権威を持って、世界に君臨していましたが、
ここからは違います。多くのイスラム系王朝がでてきます
まずウマイヤ朝の残存勢力がイベリア半島に残り、後ウマイヤ朝(756~1031)になります。都はコルドバです
王で有名なのは、アブド=アッラフマーン3世(位912~961)です
皆さん意外だと思いますが、スペインは800年ほどイスラム勢力に支配されています
そのためスペインに旅行してみてください。イスラムの名残が、あの国にはまだあります
中央アジアには、サーマーン朝(875~999)というのができてます
このサーマーン朝をカラ=ハン朝が滅ぼしてます
さらにカラ=ハン朝を西遼が滅ぼし、西遼はナイマンに滅ぼされ、ここにモンゴル帝国がきます
中央アジアは、王朝名だけ覚えておけば、なんとかなるので、王朝の流れを覚えてください
サーマーン⇒カラ=ハン⇒西遼⇒ナイマン⇒モンゴル帝国
チュニジアには、シーア派の過激イスマーイール派のファーティマ朝(909~1171)ができました。支配権は、エジプトまで及んでいます
ファーティマ朝が、新しい都としてカイロを造営しています
ここは、今のエジプトの首都ですね
ここにアズハル学院を設立し、イスラムの研究機関にもなりました
後ウマイヤ朝・ファーティマ朝・アッバース朝は、皆「俺が、カリフだ!!」と主張しています
これを3カリフ国鼎立の時代と言ったりします
イランには、ブワイフ朝(932~1062)ができます
この王朝がバグダードを占領したので、アッバース朝は形骸化してしまいます
ブワイフ朝の特徴は、イクター制をつくったことです。これは給料として、部下に徴税権を与えることです
中東は砂漠ですから、土地をあげるのでなく、徴税権をあげるのは理解できますね
このブワイフ朝を破って、西アジア・中央アジアを支配した国が、セルジューク朝トルコ(1038~1194)です
建国者は、トゥグリル=ベクです。このあたりから、宗教と現実世界のトップが一致しなくなります
かつて日本では、天皇が力を持っていた時代がありましたが、今は総理大臣ですよね!?
この当時もそうです。カリフは権威となり、実際の実力者にはスルタンの称号が与えられました
1071年には、ビザンツ帝国とマンジケルトの戦いがあり、これに勝利します
その後小アジアにも勢力が及びます
最盛期は、マリク=シャー(位1072~1092)です。宰相ニザーム=アル=ムルクの力もあり、大いに発展します
ニザーミーヤ学院を設立し、学業を奨励しました
セルジューク朝に変わるように中東で覇権を握るのは、サラディン率いるアイユーブ朝(1169~1250)です
彼はイェルサレムを領土化します。この王朝は、ヨーロッパからやって来る第3回十字軍を退けます
十字軍は、複数回あります
ヨーロッパ史で詳しく説明しますが、十字軍は聖地イェルサレムの奪還を目指してやってきます
なので、中東の人は十字架に対してよい気持ちがありません
赤十字という慈善団体も中東では、自分たちのマークの使用を自粛する時があるそうです
イスラムでは、三日月がいい意味が考えられています
赤十字のマークも三日月に変わります
話を戻しましょう。アイユーブ朝の後に君臨するのはマムルーク朝(1250~1517)です
都は、カイロです
この王朝は、モンゴルの攻撃も、十字軍の攻撃も跳ね返して、中東に君臨しました
最盛期は、バイバルス(位1260~1277)の時です
後ウマイヤ朝以後のイスラム王朝も話しましょう
後ウマイヤ朝の次は、ムラービト朝で、その次がムワッヒド朝です
この2王朝は、ベルベル人の王朝です。ベルベル人は、マグリブの先住民です
マグリブっていうのは、北アフリカのことです
だいたい今のモロッコ・アルジェリア・チュニジアのあたりです
イベリア半島最後のイスラム王朝は、ナスル朝(1232~1492)です
都は、グラナダです。この国でアルハンブラ宮殿というのが作られてます
今はスペインで屈指の観光名所ですね。画像問題もよくでます
インドのイスラムも話しましょう
インドにもイスラムが流入します。皆さんの知っているタージ=マハル宮殿もイスラム建築です
最初にインドに入ったイスラム王朝は、ガズニ朝(962~1186)です
その次がゴール朝(1148頃~1245)になります
あとはデリー=スルタン朝(1206~1526)といって5つの王朝がデリーを都にして連続して誕生しました
アイバクの建てた奴隷王朝に始まり、
ハルジー⇒トゥグルク⇒サイイド⇒ロディー
となります
最初の4王朝がトルコ系で、ロディー朝のみアフガン系です
今回、王朝が出過ぎて、何が何んだかという所があると思います
重要なのは、エリア毎に王朝を覚えることです
王朝の流れだけつかめば、内容を深く聞かれることはありません
イベリア半島なら、
後ウマイヤ朝⇒ムラービト朝⇒ムワッヒド朝⇒ナスル朝
でしたね
中東の王朝の流れ、中央アジア、エジプト等、エリア分けして覚えてください
最後に文化史をちょびっといきましょう
文化史は、イブンが一杯でます
イブン=ハルドゥーンは、歴史書の「世界史序説」を書きました
イブン=ルシュド(アヴェロエス)は、コルドバ生まれで、ムワッヒド朝に仕えてました
彼はアリストテレスを研究していました。なので、アヴェロエスというヨーロッパ名があります
モロッコ出身のイブン=バットゥータは、「三大陸周遊記」という旅行記を書いてます
元時代の大都(現・北京)に行った経験もありましたよね
イブン=シーナー(アヴィケンナ)は、医学書「医学典範」を書いています
文化史では、4つのイブンがあると記憶してくださいね
あとは詩人のウマル=ハイヤームの「ルバイヤート」という四行詩集も覚えましょう
あとは幾何学模様のアラベスクと挿絵のミニアチュールを覚えてくれればOKです
次回は、中世ヨーロッパに行きます
講義 part30 -イスラーム世界-
それでは、イスラム教の話をしていきましょう
中心的なエリアは、中東になります。別の言い方を使うと西アジアです
アラビア半島のあたりですね
特にアラビア半島の西側は、ヒジャーズといわれます
ここには、イスラムの聖地があります
メッカとメディナです
イスラム教の創始者は、クライシュ族ハーシム家のムハンマドです
彼はメッカの出身です。彼ははじめ、メッカで布教活動を始めますが、失敗します
この当時の新興宗教ですから、頭ヤバイ奴と思われても普通ですw
彼は622年に、拠点をメディナに移します。イスラム教の中ではこれに意味があったと考えます
それをヒジュラ(聖遷)といいます。イスラムの世界では、ここが元年になります
西暦は、キリスト教基準なので、イスラムが西暦を使用しにという発想は理解できます
なので、彼らに2013年と言っても、ピンときません
ここで共同体を作り、彼は力を蓄えます
共同体をウンマといいます
イスラム教の教えは、六信五行に代表されます。6つのものを信じて、5つを行えということです
★六信
アッラー・天使・啓典・預言者・来世・天命
★五行
信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼
この中でわかりにくそうな奴だけ説明します
信仰告白は、「私はアッラーを信じます」と宣言することです
喜捨は、喜んで寄付しなさいということです
イスラムの人をムスリムといいますが、ムスリムは、1年に一か月、断食します。これをラマダーンといいます
ムハンマドは、630年にメッカを取り戻し、632年に亡くなります
これ以後の指導者は、カリフ(後継者)といわれます。この言葉、王様ぐらいのイメージを持っていてください
まずはアブー=バクルが、632年にカリフになります
彼はムハンマドの友人であり、義父でもあります
次のウマルは、642年にニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを倒します
ここでムハンマド以前の中東事情を少し話しましょう
オリエントに始まり、アケメネス朝ペルシアの支配が入ります
アレクサンドロス大王が征服後は、セレウコス朝シリアができ、その次がパルティアです
パルティアは、ミトラダテス1世だけ覚えましょう
そのパルティアを倒したのが、ササン朝(226~651)です
語呂いきます
ササン蝶々(朝)手で包む(226)、虫に(642)刺されて、惨い(651)死に方
この語呂で、ササン朝の覚えられる年号は全てです
都はクテシフォンで、バグダードのちょい右下です
覚える王様は、3人です
初代のアルデシール1世、2代シャープール1世は、ローマ皇帝のヴァレリアヌスを捕虜にしています
あとは最盛期のホスロー1世です
ササン朝は、中東で強い国でしたが、そこを滅ぼしたのは凄い力だと思います
聞いたことがあると思いますが、彼らは聖戦(ジハード)を続けます
次のウスマーンの時には、経典の「コーラン」が成立しました
4代目のアリーの時に問題が起きます
シリアの総督ムアーウィヤが反乱を起こします
この戦いの中でアリーが暗殺されます。そのため、ムアーウィヤが権力をイスラム社会で握ります
彼が作った王朝がウマイヤ朝(661~750)です
ここからイスラムは、2大派閥に分かれます
代々の実力者を正統とするスンナ派とアリーと子孫を正統と認めるシーア派に分かれました
比率は、9:1でスンナ派が多数派です
スンナ派×シーア派
この構造は、ニュースを聞いているとよくでてきます
今でもスンナ派とシーア派の対立があります。そこを理解すると、ニュースも把握できます
ここから時代の流れが変わっていきます
アリーまでの時代を正統カリフ(632~661)ということは覚えましょうね
アブー=バクル⇒ウマル⇒ウスマーン⇒アリー
この流れを何度も口にだして覚えましょうね
ウマイヤ朝(661~750)の都は、ダマスクスです。ダマスクスは、オリエントでアラム人が拠点とした場所ですね。ウマイヤ朝は、領土を急拡大します
最盛期は、アブド=アルマリク(位685~705)です
ヨーロッパもウマイヤ朝の領土になります
711年には西ゴート王国を滅ぼし、スペインを手中におさめます
さらにフランスまで食い込みますが、ここでは敗れます
これをトゥール=ポワティエ間の戦い(732)といいます
相手の王は、カール=マルテルです
ウマイヤ朝の次にでてくるのが、アッバース朝(750~1258)です
アッバース朝は、ウマイヤ朝に不満のある人々の力を利用しました
まずイスラム社会には2つの税金があります
ハラージュ(土地税)・ジズヤ(人頭税)といいます
急拡大した領土の中で、ウマイヤ朝の抱えた矛盾が差別です
アラブ人は、まず無税です。イスラム教に改宗した人をマワーリーいいますが、
彼らはハラージュ・ジズヤを払いました
イスラム教は平等性を説いてるのに、ウマイヤ朝の方針はおかしいと思う人がよくいました
ちなみに非イスラム教徒はジンミーといいます。また、イスラム教は他宗教にも寛容でした
ユダヤ・キリスト教を啓典の民といい、排斥運動などはしませんでした
このような不満を利用してアッバース朝は、力を持ちました
そのため、アッバース朝下ではアラブ人・マワーリーともにハラージュを払うことで落ち着きました
できて早々、アッバース朝は、唐とタラス河畔の戦い(751)を行い、これに勝利します
製紙法を学んだのが、この時です
2代マンスールの時のは、新都バグダードが造営されました
ここから都は、バグダードです。今のイラクの首都ですね
最盛期は、ハールーン=アッラシードです
最後は、モンゴルに滅ぼされてましたね
語呂いきます
1、2ご破算(1258)、アッバース
イスラムの最初の流れは、
ムハンマド⇒正統カリフ⇒ウマイヤ朝⇒アッバース朝
ということになります。ここを軸に知識を肉付けしていってください
今回は、ココで終わります
次回は、イスラム国家の乱立について話たいと思います