世界史サロン

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カテゴリ: 中世ヨーロッパ

中世ヨーロッパの続きを勉強しましょう
復習です。ヨーロッパは大きく分けて3要素で構成されてます


1.ローマ文化
2.ゲルマン文化
3.キリスト教


上記の3つの要素で、ヨーロッパはできています


今日はキリスト教を語りたいのですが、残りのゲルマン大移動を先にやります
ゲルマン人の第一波は、4世紀に移動したんですが、第二波がヨーロッパにやってきます

第二波のゲルマン人は、ノルマン人といいます。彼らの移動開始は、8世紀後半です

第二波の彼らは、もともとスカンディナヴィア半島バルト海沿岸に住んでいました
彼らは別名ヴァイキングとも言われます。入り江の民という意味です

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私の友人にスウェーデン人がいるんですが、彼らの乾杯は「スコール」といいます
これ英語にするとスカル、つまり骸骨です


当時のヴァイキングは、頭蓋骨に酒を入れて飲んでいたそうです
そこから、この言葉が生まれたと教えてくれました

いや~グロテスクです


そんなノルマン人ですが、まずルーシ族はロシアの方に向かい、リューリクノヴゴロド国を建国します
これは、862年のことです。これは、春に(862)ノヴゴロドで覚えましょう


オットー1世が962年に神聖ローマ帝国を作ってましたよね!?
1つ語呂で年号を覚えたら、10年単位、100年単位で何があったか覚えておくと楽です
活用してみてください


このノヴゴロド国が、現在のロシアの起源といわれています

さらにノヴゴロド国の一派は、キエフ公国というのも作っています

この国はビザンツ帝国との結びつきが強く、ギリシア正教を信仰しています

ギリシア正教は、ローマ・カトリックとは別の派閥です

現在のロシアでも、この影響でギリシア正教が主流です

キエフ公国は、13世紀にやってきたモンゴルのバトゥにやられてます


フランスに向かったノルマン人のロロは、911年にノルマンディー公国を作ります

イギリスにも、ノルマン人が行きます。まず行ったのは、ノルマン人の一派デーン人です
デンマーク人の先祖ですね


すでに第一波のアングロ=サクソン王国がそこにはありましたが、デーン人が頻繁な来襲します。倭寇に苦しめられた中国の状況に似ていますね


アングロ=サクソン王国のアルフレッド大王(位871~899)は、うまく撃退できていましたが、
デーンの王クヌート(位1016~35)来襲時は防ぎきれず、デーン朝(1016~42)がイギリスに建国された時代もありました


結局イギリスは、ノルマンディー公国のウィリアムに支配されます
支配以後は、彼はウィリアム1世(位1066~87)を名乗ります


彼がイギリス支配を決定付けた戦いをヘースティングズの戦い(1066)といいます

トロロ(1066)大好き、ヘースティングズの戦いとか、トロロ(1066)大好き、ウィリアム1世とかお好みで覚えてください


ノルマン朝が、この戦いで始まります。1066~1154年の約100年続きます
1066年の出来事は、ノルマン征服(ノルマン=コンクェスト)といわれます
コンクェストは、conquestと綴りますね。英語の勉強にもなるので、覚えましょうね


ノルマン人の中には、海を渡りイタリアのシチリア島にまで行った人たちもいます
そんな彼らが建てた国が、両シチリア王国(1130~1860)です。建国者は、ルッジェーロ2世です

めちゃくちゃ長く続けたのは、伝統的にイタリアに統一国家がなかった地域だからだと思います


これぐらいがノルマン人の話です。それでは、キリスト教に入りましょう

ローマ帝国末期の395年にローマで国教化されましたね

キリスト教の聖地は、五本山といわれ、
ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアにありました
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この内アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアは、7世紀以後イスラム支配圏に入るので、
ヨーロッパでの盟主をローマとコンスタンティノープルが争います


ローマが、カトリックを名乗り、コンスタンティノープルはギリシア正教会を名乗ります
macとwindowsの戦いみたいなものです


それではローマ・カトリックについて説明しましょう
カトリックを学ぶうえで、よく聞かれるのが教皇についてです。出題される教皇を説明します


まずはレオ1世(位440~461)を覚えましょう
彼はフン族のアッティラのローマ侵入を説得して、踏みとどまらせます


6世紀は、修道院というものが設立された時期でもあります
修道院は、自らの行動でキリスト教のすばらしさを具現化する存在です


一番最初は、ベネディクトがベネディクト派修道会をイタリアのモンテ=カシノに作ってます
戒律は、「清貧・純潔・服従」です

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6世紀には、教会はゲルマン人への布教活動を活発化させます
前回触れましたが、ゲルマン人は異端のアリウス派を信じています。ローマは、アタナシウス派でしたね
そのためアタナシウス派を営業していきます
このゲルマン布教で有名な教皇が、グレゴリウス1世(位590~604)です


修道院の話をもう少しします。910年には、クリュニー修道院がフランス中東部にできます
1098年には、シトー修道院もフランス中部にできます


この2つとも地名です。クリュニー修道院は、フランス留学中に行ってきました
典型的な石造りの寺院です。冬場は絶対寒いですw

それでも修道院の人は裸足だったそうです。マジ尊敬しますw


13世紀は、新たなタイプの修道院ができます。托鉢修道会というものです
これは、まわりの人の寄付で成り立つ修道院です


日本でも、鉢をもって、そこに寄付したらチーンと鳴らす人いますよね?
あんな感じで、修道院の人も寄付を募ってました


ちなみに13世紀と聞いたら、必ずモンゴルの時代と思ってくださいね
托鉢修道会で有名なのが、イタリアのアッシジ出身のフランチェスコが建てたフランチェスコ修道会ドミニコ修道会が有名です


フランチェスコ修道会がモンゴル行ってましたよね!?
プラノ=カルピニとか、ルブルックがそうです


次にあげる教皇から、教会の権力が絶頂期になります
教皇の名は、グレゴリウス7世です。彼は聖職叙任権の問題で神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世を破門します

この破門が当時の人には、凄いツライです

なぜかというと、破門イコール地獄行きだからです

神の存在を信じていた時代ですから、皇帝はこれに耐えきれず許しを請います
これをカノッサの屈辱(1077)といいます


私は、これをヘースティングズの戦い(1066)の11年後と覚えてます
覚えにくかったら、すいません


ちなみに聖職叙任権というのは、僧侶の身分を皇帝が決めるのか、教皇が決めるのかで揉めた戦いです
当時ヨーロッパで一番強いのは、皇帝か教皇かよくわかっていませんでした


カノッサの屈辱によって、教皇がトップということがわかりました
聖職叙任権が解決したのは、1122年ヴォルムス協約までかかりました

カノッサの屈辱以後も揉めていたわけです


絶頂期中の絶頂期の教皇は、インノケンティウス3世です
彼は第4回十字軍を提唱します


十字軍は、後で詳しくやりますが、キリスト教の聖地がイスラムに奪われているので、取り返そうという運動です

十字軍の目印は、もちろん十字架です。この時に人を殺しまくったので、イスラム圏の人は、十字架のマークが嫌いです


インノケンティウス3世の有名な言葉が、「教皇権は太陽、皇帝権は月です」です
「教皇は偉いぜ」ってことです


今日はこのあたりにしましょう

次回は、ギリシア正教会を保護したビザンツ帝国について話します

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2014年、新年一発目は、中世ヨーロッパです
この時代に形成されたものが、皆さんのイメージするヨーロッパを作ったと思います

大きく分けて3要素でヨーロッパは作られてます

1.ローマ文化
2.ゲルマン文化
3.キリスト教

上記の3つの要素で、ヨーロッパはできています

ローマ文化は、ローマ帝国のおかげです。この国が、今のほとんどのヨーロッパのほとんどの地域を支配していました。その影響があります

ローマ帝国は、ラテン系の国ですね

アルファベットを一番初めに使ったのが誰か覚えてますか?
フェニキア人ですね


彼らのフェニキア文字の影響を受けたのが、ラテン語です
ラテン語は、今のヨーロッパの古文と考えてください


このラテン語から、スペイン語・イタリア語・フランス語等派生しています
このヨーロッパにゲルマン語を持ったゲルマン人が来ます。ドイツ語がそうですね


皆さんが一番よく勉強している英語は、フランス語(ラテン語系)とゲルマン語のMIXです
私は、フィリピンとフランスに住んでいたので、英語とフランス語の類似点と相違点がよくわかります
※東南アジア史で触れましたが、フィリピンは米国の植民地化の影響で、英語をしゃべります


例えば10は、英語でten(テン)、フランス語でdix(ディス)です。この場合、似てませんね

英語で世紀をcentury(センチュリー)といいますね。これは、100年単位のものですよね
フランス語で100は、cent(サン)といいます。このケースではスペルに類似性がありますね


このような現象は、今回勉強するゲルマン大移動の影響が決定的です

ゲルマン人の大移動は、375年から本格化します


語呂です
ゲルマン美奈子(375)の大移動


このゲルマン大移動は、玉突き現象で起きたと言われています
ゲルマン人は、もともとバルト海沿岸ドナウ川周辺に住んでいましたが、フン人の侵入を受け、定住地を捨て、ヨーロッパに侵入してきました

フン人は、一説には匈奴と言われています。中国北方にいた匈奴が、多民族との抗争に負けて
西に逃れ、フン人になったという説です

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ゲルマン人の情報は、カエサルの「ガリア戦記」やタキトゥスの「ゲルマニア」で知ることができます

ゲルマン人が来たことで逆に僻地に追いやられたのがケルト人です
それでは、各地のゲルマン諸民族をみましよう

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スペイン
西ゴート王国
(415~711)が、イベリア半島にできます。アラリック(位395~411)が国を大きくしました。ここがイスラムのウマイヤ朝に滅ぼされて以後、数百年イスラム圏に入ります


北アフリカ
ヴァンダル王国がありました
ここは、534年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のユスティニアヌスに滅ぼされました


フランス
東南部にブルグント王国パリを拠点にフランク王国ができました


イギリス
まず七王国(ヘプターキー)という国家群が誕生します
その中のうちの1つウェッセックス王のエグバートがイギリスを統治します

彼らは、ゲルマン一派のアングロ=サクソン系です

アメリカは、イギリス移民の流れを組むので、ニュースなどでは「アメリカのアングロ=サクソンの文化は…」みたいに解説されてます


イタリア
西ローマ帝国は、ゲルマン人の侵入に耐えられませんでした。傭兵隊長のオドアケルに裏切られて滅ぼされる始末です

裏切った人間に信頼度なんかないので、この時侵入した東ゴート王国に滅ぼされました
有名な王は、テオドリック(位473頃~526)です。東ゴートは、アリウス派信仰を強制したので、この国にも信頼感がなく、555年に東ローマのユスティニアヌスに滅ぼされてます


さらに北イタリアに、新たなゲルマン人のランゴバルド王国(568~774)ができました
ここは、フランク王国のカール大帝に滅ぼされました


語呂行きます
死なる(476)西ローマ、ゴーゴーゴー(555)っと東ゴート侵入


フランク王国
この名前からイメージできると思いますが、後のフランスの名前の由来はフランク王国にあります

ゲルマン民族は、花火のように生まれては消える王朝が多かったですが、フランク王国は定着します


まず481年クローヴィスが、メロヴィング朝をつくります
彼が頭の良かった所は、アリウス派からアタナシウス派に改宗したことです


ゲルマン人のほとんどが、アリウス派という異端を信仰していました
しかし、ヨーロッパではローマ帝国の影響でアタナシウス派が主流です


当時のヨーロッパの国民性を考慮すると、改宗は長期支配への重要な要件になります
次に力を持ったのが、宮宰カール=マルテルです。宮宰(マヨル=ドムス)は、財政のトップの役職です


ここは実権が、天皇から征夷大将軍に移った過程に似ていますね
実務をこなす中で、力を蓄えていったわけですね


カール=マルテルの名前が世に轟いたのは、破竹の勢いで攻めてきたウマイヤ朝の進行を止めたことです
トゥール・ポワティエ間の戦い(732)でしたね


語呂です
波に(732)揺れるトゥール・ポワティエ間の戦い


トゥールとポワティエは、今はフランスで屈指の古城巡りスポットです
無理をすれば、パリから日帰りでもいけます


話を戻しましょう


この戦いの功績で、カール=マルテルは単なる権力の簒奪者ではないことが、
誰の目にも明らかになりました。


そのため、彼の息子ピピン3世は、新しい王朝であるカロリング朝(751~987)をたちあげることができました
彼は、ローマ教会との結びつきを強くするために北イタリアにいたランゴバルド王国を追い出し、
獲得した領土であるラヴェンナをローマに渡しています。これをピピンの寄進(756)といいます


語呂です
和む(756)教皇、ピピンの寄進


これによって、教皇を後ろ盾に基盤を盤石にしていきます

ピピンの子、カール大帝(シャルルマーニュ)は、ランゴバルド王国滅ぼし、エルベ川からやってきたザクセン人、モンゴル系のアヴァール人と、すべての戦いを勝利します


ローマ教皇レオ1世は、西ローマ帝国亡き後の後継国をフランク王国と認めました
800年にローマのサン=ピエトロ大聖堂で、カールの戴冠が行われました
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これによって、地中海周辺のヨーロッパ・中東に3大勢力としてフランク王国・東ローマ帝国・イスラム勢力ができたことになりました


カール大帝の子、ルートヴィッヒ1世が亡くなった後は、ヴェルダン条約(843)で子供たちに3分割された領土が配分されます

分割して早々、中部フランク王国を持っていたロタール2世が亡くりました

そのため、メルセン条約(870)で、中部フランク王国の領土を減らしました

結果西フランクが、後のフランスになり、中部フランクがイタリアになり、東フランクがドイツになります


語呂です
早よ見~(843)、離れ~(870)ヴェルダン条約・メルセン条約


西フランク王国(843~987)滅亡後、パリ伯ユーグ=カペーカペー朝(987~1328)を建ててます
東フランク王国(843~911)滅亡後は、ザクセン家2代目のオットー1世神聖ローマ帝国(962~1806)を建てます

語呂です
苦労人(962)だよオットー1世、神聖ローマを言い張れる(1806)

めっちゃ長く続いてますね。この王は、レヒフェルトの戦いでハンガリー人の祖であるマジャール人を追い払ってます


イタリアは、都市国家が乱立し、19世紀に入るまで統一国家の建国はありません


次回は、ヨーロッパを構成する第3の要素キリスト教について話しましょう

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