世界史サロン

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カテゴリ:中国史 > 隋・唐

残っていた文化史の話をしましょう

隋・唐時代は、明らかに世界で一番だった国は、中国だと思います

海外との交流も活発でした

日本史でも、遣隋使・遣唐使を聞いたことあると思います


海外交易を管理する機関が、唐での広州に設置されました
それを市舶司といいます


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ここの来たアラブ商人は、大食(タージー)といわれます
こういう「中国名なんですか?」問題は、ちょいちょいあります


前なら安敦とかありましたよね?
ローマのマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝のことでしたよね


海ではアラブ人、内陸貿易ではソグド人が交易に従事していました


次に詩人いきましょう

まず、杜甫李白です
杜甫は、「詩聖」と呼ばれ、「春望」などの作品で有名です
李白は、「詩仙」といわれます


この2人は、玄宗時代にいきた人で、この時期を盛唐(712~765)といいます
盛唐では、詩人かつ画家で「南宗画の祖」といわれた王維もいます


中唐(766~835)の詩人では、白居易が有名です
玄宗と楊貴妃を描いた「長恨歌」が聞かれます


次に文章家です
次回説明する宋という国を含めて、8人の有名な文章家がいます
それを唐宋八大家といわれます


唐には2人の文章家がいます。韓愈柳宗元です
この人たちは、中唐の人です。あと6人は、宋代の人です


画家いきましょう
盛唐の画家は、呉道玄を覚えましょう。人物・仏画で有名です


書家は、顔真卿だけ覚えてください
隠れエピソードで、安史の乱に参加しています


儒教の注釈書は、孔穎達「五経正義」が作成されてます


陶器は、唐三彩が画像問題で聞かれます
色が3色で作成されているので、初めて見る画像でも、イメージで唐三彩を選べるはずです


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Photo by (c)Tomo.Yun

仏教留学した人は、2人います
玄奘義浄です


玄奘は、往路復路ともに陸路を使ってます
インドのヴァルダナ朝の王、ハルシャ=ヴァルダナに厚遇され、
ナーランダー僧院で学びました


玄奘の書いた本は「大唐西域記」です

玄奘は三蔵法師ともいわれ、「西遊記」のモデルになってますね
最近では佐々木希ちゃんが、ウィルコムのCMで三蔵法師の恰好をしていましたね


次に義浄です
往路復路ともに海路を使ってます


インドの行き方にふれているのは、ここも試験で出題されるからです
頑張って覚えましょう。正誤問題で聞かれる傾向があります


海路を使った際、インドネシアのシュリーヴィジャヤ(室利仏逝)にも寄ってます
このあたり、東南アジア史でもふれます


彼の書いた本は、「南海寄帰内法伝」です


唐は、今のアメリカのような存在ですから、各国との交流が盛んで、
宗教も流入しています

宗教の中国名が聞かれるので、注意していてください


ゾロアスター教は、祆教といわれます


マニ教は、摩尼教と書きます。ウイグル人の信者が多かったです


ネストリウス派キリスト教は、景教です
ネストリウス派のお寺は、波斯寺とも大秦寺ともいわれます


大秦といえば、ローマのことでしたね

長安には、この宗教が流行った記念に石碑が作られてます
それを大秦景教流行中国碑といいます


西安にいった時に見ましたが、高さが2~3mぐらいあって、けっこうデカイです


ゾロアスター教・ネストリウス派キリスト教・マニ教は、三夷教といわれます
ここにイスラム教は含まれていないので、正誤問題に注意しましょう

イスラム教は、回教といいます。時に清真教ともいいます


唐と日本との関係性もよく聞かれます

一番聞かれるのは、阿倍仲麻呂です
唐に留学後、玄宗皇帝にも気に入られ、節度使にまで上りつめます


玄宗時代の文化は、日本にも影響を与え、天平文化が生まれたといわれます

次回は、唐滅亡後の混乱期から話しましょう

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(581~618)
中国をふたたび漢民族の領土にしたのは、楊堅です
彼は、北周の外戚から成り上がりました

都は大興城(現・西安)です

589年には南朝のを倒し、統一しました


語呂いきますよ

怖い(581)楊堅、いわく(589)ありげの統一だ


システムとしては、北魏の均田制、西魏の府兵制を引き継いでます
税金制は、租庸調制です。日本も真似しましたね

官吏任用法は、九品中正を廃止し、学科試験による科挙を実施します

科挙は、今の日本の大学受験をイメージしてくれればいいと思います
今までに比べて、平等性が格段に向上しました


このシステムは、1905年まで続きます
廃止の年代もテストにでます


この当時の北方民族は、モンゴル系柔然を倒して強大化した、
トルコ系突厥(552~744)です


まぁ、ありがちですが、隋も短命です

歴史的には統一できたけど、システムの急激な変更についていけず不満が溜まって、
すぐ終わることが多いです
その次の王朝が、前王朝の欠点を研究して、長く統治しますね
秦から学んだ漢とか、織田・豊臣から学んだ徳川もそうだと思います


隋も2代煬帝で終わります

彼はちょっとお金を使い過ぎました

言わなくてもわかると思いますが、中国は広いです

北部と南部で文化も全然違います


ここの結びつきを強めるために行われた公共事業は、大運河の建設です
当時江南は、屈指の穀倉地帯になっていました

したがって、輸送手段の整備が急務でした

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そのため4つの運河を開通させました

山陽瀆(淮河~長江)
 ※淮河は、黄河と長江の間にある川です
通済渠(黄河~淮河)
永済渠(黄河~涿郡)
 ※涿郡は、北京近郊です
江南河(長江~杭州)


レベルの高い大学に行きたい人は、この運河全部覚えてください


そして高句麗という朝鮮半島のエリアに3度遠征し、失敗します
これが最終的な引き金になって、反乱が発生し、滅びます


(618~907)

いきなり語呂いきます
ロイヤ(618)ルファミリー唐建国、唐が滅ぶとくまるな~(907)
※「くまるな~」は、「困るな」のことです。語呂が無理矢理のため、こうなってます


唐の初代は。隋の武将あがりの李淵(高祖)です
多くを隋から引き継ぎます。都も同じ長安です


あえていうと、均田制の細かい部分がちょっと違います
このあたり有名大学の正誤問題で出題されます


北魏・隋・唐の均田制の違いは調べておいてください

簡単にいうと昔は妻・奴婢・牛に田んぼを与えていましたが、
唐は、男子だけです


コレどういうことかというと、
奴婢や牛を所有しているのはもちろん金持ちです

なので、唐は金持ちの大土地所有制限に狙いがあります


2代李世民(太宗)は、さらに国を整備します
対外的には、東突厥を制圧し、チベット系吐蕃を遠ざけました


内政では、長期王朝運営のため、中央官制整備のため、
三省六部を置き、法律として律・令・格・式を整備します


三省は、中書省・門下省・尚書省です
中書省で皇帝の命令を文書化し、門下省でチェック、尚書省で実行します


簡単な言葉でいいので、役割をハッキリ覚えましょう


六部は、吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部です
尚書省の下部組織として、この六部が動きます


六部の機能も、できれば覚えてほしいです

なんとなく漢字でイメージはつくと思います

吏部の吏は、官吏だから、公務員を決める所
戸部だったら、戸籍を集めて税金徴収かなとイメージを持ちましょう


戸籍と徴収は必ずリンクします
戸籍によって、この地域に何人の人がいて、誰から税金を取ればいいのか把握できます

数年後には日本でも各国民にナンバーがつきます。マイナンバーといいます

これができると、この人税金収めてないとかの把握が容易になります

よく日本は縦割り行政で、横の情報交換がうまくいかないと言われますが、
この制度で、不正はだいぶ防止できます


話を戻しましょう

唐の三省六部の他に覚えておいてほしいのが、御史台です
これは官吏の監察機関です。不正防止ですね


これだけのことをしたので、李世民の政治は「貞観の治」として尊敬されました


次が3代高宗です
彼は東では、高句麗・百済を滅ぼし、西では西突厥を征しています
南のベトナムも遠ざけてます


彼の時が最大領土です
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唐と国境を接する地域には、異民族対応の機関として都護府を起きました
都護府を軸に異民族に間接統治を許可したことを羈縻政策といいます


今の時代から見ると、ちょっと女性差別もあるんですが、
このあたりから、女性が唐の政治を乱します

この事件のおかげで、長く中国では女性が政治に関わるべきでないという慣習が根付きます

それを武韋の禍といいます


高宗の奥さんは、則天武后といいます
彼女は一時国を乗っ取り、(690~705)という国を作りました


4代の中宗も、母の則天武后・妻の韋后に苦しめられます
最終的に韋后に毒殺されました


これを安定させたのが、6代玄宗(位712~756)です
彼の政治は素晴らしいかったので「開元の治」といわれます


玄宗の頃から、今までの唐の統治システムが変革を迫られます


まず辺境の異民族の活動が活発化したため、都護府による緩い統治が不可能になります
そのため国境地帯に軍隊として節度使を起きます


また農民の没落が始まっており、徴兵制が不可能になります
府兵制も募兵制に変更されました


また玄宗も晩年は、女性に苦しめられます
彼の妃は、楊貴妃です。女性に夢中になって、政治に身が入らなくなります


さらに当時イスラム教圏で巨大な勢力がうまれ、唐は圧迫されます
その王朝は、アッバース朝です


アッバース朝と751年タラス河畔の戦いを行い、敗北します

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唐軍の責任者は、高仙芝です。この時製紙法が西側に伝わります

唐の衰亡は明らかになり、755年に節度使が反乱を起こします

これが安史の乱(755~763)です

中央アジアのほうで力があったソグド系安禄山史思明が起こした反乱です


語呂いきます
名ココ(755)に刻む安禄山


結局、異民族のトルコ系ウイグルの力でこれを鎮圧します

これ以後、節度使は地方で、好き勝手始めます
自立化した節度使を藩鎮といいます


つまりの中央のコントロールが効きません


均田制も農民没落の結果、維持が不可能になります
そのため有力者の大土地所有を許可し、荘園が成長しました


9代徳宗の時に宰相の楊炎は、780年に銭納による両税法に切り替えました
ここ春と秋といった紛らわしい正誤問題で聞かれます。注意しましょう


唐は前期・後期で以下のようにガラっとシステムが変わります


(土地)均田制⇒荘園

(税金)租庸調制⇒両税法

(兵制)府兵制⇒募兵制

(異民族対策)都護府⇒節度使


最終的には、山東の密売商人だった王仙芝黄巣が反乱し、
特に875年黄巣の乱は、唐に致命的ダメージを与えました


語呂です

黄巣花子(875)が、唐を討つ


最終的には、黄巣の乱で力をつけた朱全忠によって、唐は滅ぼされました


ちょっと長いブログになったので、文化史は次回にします

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