世界史サロン

元教師がおくる世界史講義と、ニュースを世界史で読み解くブログ

カテゴリ:中国史 >

これだけ、外国に無茶苦茶されてる中国です。「これは、そもそも中国をまとめてる清自体に問題がある」と思う人が多くでてきます

これが辛亥革命(1911~12)という清を倒す運動につながっていきます

一応、清側も義和団事件の衝撃があるので、光緒新制という改革運動を行ないます。ココには、西太后も噛んでますから、未来が見えてます

だって、光緒帝は改革運動を展開しようと模索して、西太后に潰された人間です。同じメンバで、同じことをやる。こんな矛盾したことはありません

■講義 part93 -中国分割-
http://world-history.blog.jp/archives/15110967.html
※戊戌の変法

ただ、いくつかの良いことは実施しています。以下がそれです。

1.科挙の廃止(1905)
2.憲法大綱(1908)
3.国会開設公約(1908)
4.軍機処の廃止(1911)


語呂です
科挙の廃止に行く礼子(1905)おや(08)!?憲法大綱・国会開設、軍機処廃止はいい(11)ですね

簡単にいうと、今までの中国文化否定欧米模倣です。科挙なんか、598年の隋から続いたものです。これを廃止したのは凄いと思います

この背景には、模倣に成功した日本があると思います。日本はアジアには絶対ムリと思われた欧米の一角、ロシアを撃破するまで激変していたからです

天皇をトップにいただく日本のシステムは、清の皇帝をトップに近代化したい新生清政府にとって、仕切り直しに絶好のモデルです。彼らの意図はよく理解できます

しかしながら、もっと根本的な部分から変えないと、もう間に合わないと思っていた人がいます。それが、孫文(1866~1922)です

-孫文-
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孫文は、まず1894年ハワイ興中会を設立します。場所は特徴的なので、けっこう聞かれます。

語呂です
白紙(894)に戻そう、興中会

これ、ドレフュス事件の語呂と同じです。当たり前です。同じ年に起きた事件だからです。世界史は、いろいろな場所を勉強するので、時間軸グチャグチャになると思いますが、そういう時に年号暗記は重要です。同年に起きた出来事は、まとめて覚えておきましょうね!!

■講義 part86 -帝国主義時代(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/9988564.html
※ドレフュス事件

この他の革命団体として、章炳麟・蔡元培光復会黄興華興会があります。これらの革命団体が1905年東京で統一されます。それが中国同盟会です

興中会+光復会+華興会=中国同盟会

この団体は、機関誌「民報」で、国民を革命へと鼓舞します。彼らのスローガンは以下になります。

■三民主義
・民族の独立…他国なんかに侵略されず、自立するぞ
・民権の伸長…国民の権利を強くするぞ
・民生の安定…国民の生活を安定させるぞ


■四大綱領
・駆除韃虜…清朝を倒す
・恢復中華…強い中国の復活
・創立民国…国民の誕生
・平均地権…土地はみんなのもの

孫文たちは、以上のことを清ができないと思ってます。それが象徴的に現れたのが、幹線鉄道の国有化(1911)です

これは、外国からお金を借りるため、鉄道を担保にしたいがため、民間から鉄道利権を取り上げた事件です。これは中国の人にとって、売国的に映ったわけです

もちろん、お金は四国借款団といわれる英・米・仏・独から借りる予定でした。この国有化事件をキッカケに、四川暴動が起きます。また連鎖的に、武昌蜂起も起きました

ここが重要なのが、武昌では軍部が、国民の側についたことです。2014年9月、香港で反政府デモが起きましたが、おそらくこのデモ自体は鎮圧されるでしょう。軍部が協力するかが、革命の成功させる上でのポイントです

■2014年香港反政府デモ
http://ja.wikipedia.org/wiki/2014%E5%B9%B4%E9%A6%99%E6%B8%AF%E5%8F%8D%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%83%87%E3%83%A2

辛亥革命と今の中国の決定的な違いは経済です。今でも各地で中国各地で暴動が起きていますが、経済が発展しているうちは大丈夫です。辛亥革命時は、鉄道担保に金を借りようとしてるわけですからね

経済が悪化した時、それが中国が辛亥革命のようなことになると、私は見ています。注意深く、ニュースを見ていてください

軍部の中で、寝返ったボスで有名なのは、袁世凱です。彼は、西洋式軍隊の新軍といわれる軍隊のうち、北洋軍のボスでした

こうして、清は倒れ、1912年中華民国が、南京に成立します

孫文たちは、軍隊の力を必要としていましたから、彼をリーダーとして認めます。彼は、そのため臨時大総統といわれるものになりました

1912年には、宋教仁らが国民党を立ち上げ、袁世凱の暴走を止めようとしましたが、宋教仁自身は、暗殺されてしまいました

袁世凱には、国民のためなどという思いなどなく、自分が皇帝になりたいという野心しかありません。1913年には帝政を開始します

これは猛反発を招き、彼自身病死したこともあって、なんとか取り消しになりましたが、権力をうまく1点に集中できない状態が続き、軍部が各地の勢力を、自分の領土のように扱う、軍閥といわれる勢力の伸長を許してしまうことになりました

中国が真の意味での統一をするのは、毛沢東の登場まで待つ必要がありました

-毛沢東-
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次回は、アジアの民族運動いきます

前回の講義で、海外にいいようにやられた中国を説明しました。中国国民の中にも、これに対する反発があります

その思いが結実したのが、義和団事件(1900~1901)です。キリがいい年代に発生してるので、サックリ覚えてください

これは山東省を根拠にした白蓮教系の義和団が起こした、外国排斥運動です。スローガンは「扶清滅洋」です。中国のスローガンは、よく正誤問題で出題されます

まずは、中国の省名は有名所を暗記です。「この事件は、何省で起きましたか?」みたいな設問多いです

-山東省-
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次にスローガンですが、よく太平天国の乱(1851~64)と逆にして、聞かれます。こっちのスローガンは、「滅満興漢」でしたね


■講義 part83 -中国の内乱と近代化(太平天国の乱・洋務運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/9001991.html
※太平天国の乱

「扶清滅洋」ですが、扶養家族といった言葉から想像できるように、には「助ける」という意味があります。「けて、滅茶苦茶する西してやる」で、彼らの考えが理解できると思います

太平天国の乱時代は、アヘン戦争(1840~42)とアロー戦争(1856~60)の間に起きてます。中国分割が起き始めた段階では、中国人の意識は、内部のよそ者である清に向かっています

多数派の漢人から見れば、万里の長城の向こう側から来たはよそ者ですだから、外国勢力に混乱させられ、ナンバーワンであることを証明できない清に怒りが向いてます

だから、「滅満興漢」です。清の母体民族、「州人をぼして、人の国を復させる」になるわけですね

■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html

これが義和団事件になると、継続的に中国が蹂躙されているわけですから、清⇒外国に対象が移動したのは理解できます

このように流れを理解できていれば、スローガンをどっちか忘れても、時代背景から、推量して答えに到達できます。なので、この一連の流れ、押さえておいてください

この義和団事件ですが、清で防げない外国勢力を、国民で防ぐことなんかできません。日・露・英・仏・米・独・墺・伊というオールスターで、ボコボコにされます

これを8ヵ国共同出兵といいます。義和団事件を終わらせた条約は、北京議定書です。決まり事がけっこうありましたが、北京駐兵権が一番重要です

アロー戦争を終わらせた北京条約では、公使の駐在が認められてましたが、今回は軍に格上げされてます。北京条約・北京議定書似てますね

つまり、駐在駐兵は正誤問題で聞かれます

そしてこの駐在を利用して、満州、今の遼寧省のあたりまで、伸長してきたのが、ロシアです。ロシアは、この好機を利用して、朝鮮にまで手をだそうとします

この時期の日本外交の良さは、世界NO1の国と手を握ったことです。この当時のNO1は、イギリスです。イギリスは、「光栄ある孤立」という名のもとに、同盟を結ばない風土がありましたが、ロシアの南下政策の野心を警戒していました

イギリスは、外交政策を変更し、日英同盟(1902)が成立します。朝鮮の権益にロシアが侵入したきたわけですから、日本は戦争の決断に入ります

朝鮮を譲歩して渡しても、「次は九州くれ、四国くれ」と要求がエスカレートするわけですから、日本はもう戦う以外の選択肢がありません

それが日露戦争(1904~05)です

日本はコツコツ勝利を重ね、なんとか旅順・大連を攻略します。これらの影響で、ロシア国内に厭戦気分が高まり、血の日曜日事件が1905年1月におきます

■講義 part88 -帝国主義時代(ロシア)-
http://world-history.blog.jp/archives/11098268.html
※血の日曜日事件

戦争に勝てないと、内部がグラつきだすのは典型的な話です。日本もギリギリの勝利を続けています。1905年3月奉天会戦にも勝ちましたが、まだロシアは降参しませんでした

-奉天-
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ロシアのプライド、バルチック艦隊が、わざわざバルト海から来ていたからです。すごい距離をきてます。その艦隊が、日本海軍と決戦します。それが、日本海海戦(1905年5月)です

-バルト海-
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これにも日本は、勝利しました。相手が半年かけて、来たことで疲労というアドバンテージがありましたが、日本海軍は、ロシア艦隊をほぼ壊滅させることに成功しました

朝鮮半島と日本には、日本海という海があり、もしロシアが勝利していたら、日本の権益が分断される最悪の事態が発生していました。その中での大勝利です

アメリカのセオドア=ローズヴェルトの仲介で、日本・ロシアの間にポーツマス条約が締結されます

■ポーツマス条約(1905年9月)
[日本全権・小村寿太郎 ロシア全権・ウィッテ]
・韓国の保護権
・遼東半島南部
・南満州鉄道(長春~旅順間)
・南樺太


韓国の領有は、清・ロシア・日本で争っていました。以下の流れで、日本の帰属になります

日清戦争⇒清×
日露戦争⇒露×


この当時の日米関係は、友好でしたから、ポーツマス条約の前に桂・タフト協定(1905年7月)があって、韓国は日本のもの、フィリピンは米のものと認め合ってます

このあたりあるので、韓国の人は、アメリカに守ってもらいながら、アメリカを嫌いという複雑な感情を持つことになります

日本の韓国領土化に文句をいう国はいんかうなってので、段階的に吸収していきます。それが日韓協約です

第1次日韓協約(1904)
第2次日韓協約(1905)…韓国の保護国化に成功
第3次日韓協約(1907)…韓国軍隊を解散

※第3次は、ハーグ密使事件で皇帝高宗が日本支配の不当を訴えて、失敗し、これをキッカケに協約が結ばれました

1909年には、初代韓国統監伊藤博文が、安重根に暗殺されます。韓国には皮肉ですが、これを理由に、1910年韓国併合が行われました

併合後は、統治機関として朝鮮総督府がおかれます。初代総督は、寺内正毅です。統監・総督は似た表現です。つまり正誤問題で聞かれます

このあたりまでの日本の戦略は、合理的で良かったと思います。まず世界NO1と手を組むということ。各国の同意を得て、韓国を併合したこと。条約においても、賠償金を要求せず、内情を鑑みて、領土だけで我慢したこと。自分の実力にあった、最大限の努力ができていたと思います

ここから先の日本は、本当に終わりの始まりだと思います。。。

次回、中国の辛亥革命いきます

中国の植民地化を話します。ココも、どこが植民地にしてるかが重要です
登場する国は、英・仏・独・露・日です

-中国分割-
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ざっくり植民地マップです。このイメージで、私は頭の中に入ってます。まずロシアフランスのイメージは簡単だと思います

ロシアは、もともとあった領土を、中国側に広げただけなので、北側に領土がありますね。フランスは、ベトナムを抑えてますから、そこから領土を広げています

■講義 part81 -東南アジアの植民地化-
http://world-history.blog.jp/archives/8865523.html
※ベトナムの植民地化

イギリスは、長江を抑えているイメージです。あとは香港周辺ですね。幸か不幸か、イギリスの植民地化の影響で、香港は中国で独自のマインドを持ちます。民主主義ですこれが、現在の香港デモの底流にあります。

-なぜ香港の若者は「中国嫌い」になったか-
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http://synodos.jp/international/11343

ドイツは、山東半島を抑えてます。日本は、福建省ですね。これらを骨組みに後は、肉付け作業です。

-租借地・鉄道名-
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まず、租借地という言葉を説明します。これは、土地を借りるという意味ですが、ほぼほぼ領土といっても過言でないです

九竜半島の借りた年数なんて、99年もありますロシアの旅順・大連は、南下政策を思い出してください。なぜ、このような港町が欲しいかわかるはずです

鉄道は、物を売買する際の輸送手段として有効です。南下政策の一環で作ったロシアの東清鉄道を覚えておいてください

■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※南下政策

-旅順・大連・膠州湾・威海衛-
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イギリスは、ドイツの権益に飛び地のように、威海衛という領土を持ってます。あまり知られてませんが、イギリスは今でも、スペイン周辺にジブラルタルという領土を持ってます

ここを巡って、イギリス・スペインは今でも揉めます。これは、皆さんも知っているはずの、スペイン継承戦争(1701~13)の結果が、現在まで続いているからです

■講義 part53 -ルイ14世(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/4169283.html
※スペイン継承戦争

このような中、アメリカも中国の利権に手を突っ込もうとします。それが国務長官ジョン=ヘイ門戸開放宣言です

■門戸開放宣言
・門戸解放(1899)
・機会均等(1899)
・領土保全(1900)


領土保全だけ、追加で1900年です。このあたりは、ほどほどの大学の正誤問題にでます。「ジョン=ヘイは、1899年門戸開放宣言で、門戸開放・機会均等・領土保全を訴えた」は、誤りになります

これは、ハッキリいって、中国にとって迷惑な話で、「遅れてきた、俺にも中国をくれ」というファキンメッセージを難しくいってるだけですw

こんなに滅茶苦茶されてますから、中国自身も変革運動を開始します。それが変法運動(変法自強)です

中心人物は、康有為・梁啓超・譚嗣同です。難しい字ですが、記述させる大学も多いです。頑張りましょう彼らは、公洋学派ともいわれます

彼らの運動は戊戌の変法(1898.6~1898.9)の短い期間です。なぜか?政治を変えようとしたからです。以前、洋務運動(1860~94)というのがありましたね?

洋務運動は、外だけ西洋式に変えて、内側の政治は変えませんでした。当時の中国は、王政です。ここに手をつけませんでした

■講義 part83 -中国の内乱と近代化(太平天国の乱・洋務運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/9001991.html
※洋務運動

結果、中国に何が起きたか?明治維新(1868)を起こした日本日清戦争(1894)で負けるわけです。康有為は、確信しました。「日本のように政治から変えないと、国は変わらない」

当時の皇帝、光緒帝(在位1875~1908)も同じ思いでした。これを潰したのが、9代咸豊帝の妃、10代同治帝の母、11代光緒帝のおばである西太后でした

これを戊戌の政変(1898)といいます。これで西太后が実権を握ります。西洋に侵略された中国はかわいそうだと思いますが、付け込まれる要素は、中国自身にあったのは確かだと思います

次回、義和団事件と日露戦争いきます

それでは、フィリピンからアップする一本目行きます
すいません仕事はすでに忙しいですが、充実しています更新頑張ります

中国がボコボコになっているのを知って、イギリス・フランス以外にも領土に野心を持った国がありました。それはロシアです

かつてネルチンスク条約(1689)・キャフタ条約(1727)で決めたラインを越えようと画策します。それがアイグン(愛琿)条約(1858)です

■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html
※ネルチンスク条約・キャフタ条約

外興安嶺から進んで、黒竜江(アムール川)まで領土が広がります。またウスリー川以東共同管理になりました

ここを沿海州といいます

川でいっぱいでるので、混乱しないでください

-アルグン川・アムール川・ウスリー川-
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-アイグン条約-
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さらには、アロー戦争戦争を終結させた北京条約で仲介役をした見返りとして、沿海州をゲットします。これも北京条約(1860)といいます

-北京条約-
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さらにはイリ条約(1881)で、一部占領した地域を返す見返りに、貿易利権を手に入れてます。私のロシア関係の講義を学んだ人は、すぐ思い浮かぶと思います

この一連の流れは、南下政策に基づくものです

■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※南下政策情報

ロシア・中国関連の条約は、以下の順です
ネルチンスク条約⇒キャフタ条約⇒アイグン条約⇒北京条約⇒イリ条約

このようなヨーロッパの侵略にさらされる中、清は内部にも混乱を抱えます。それが太平天国の乱(1851~64)です

始まりは、アヘン戦争とアロー戦争のですね

首謀者は、洪秀全です。彼は客家出身です。中国では珍しい、キリスト教系の上帝会を立ち上げています。中国の特徴として、混乱期には宗教が主導的立場となり、時に王朝を転覆させています。客家は、もう学んでますね

■講義 part81 -東南アジアの植民地化-
http://world-history.blog.jp/archives/8865523.html
※客家情報

彼は、宗教結社を基盤に、広西省金田村で挙兵しました。これが大規模運動になり、清は自力でこれを鎮圧できませんでした南京を占領され、天京と改名し、都にされてしまいました

彼らのスローガンは「滅満興漢」です。州人(清の国民)をぼして、人を復させようというものです。清は、征服王朝でしたね

彼らは、天朝田畝制度で、男女平等に土地を与えようとし、清の文化である辮髪の廃止纏足の廃止を試みました

清自体が鎮圧できない中、活躍したのは地方の有力者による軍隊、郷勇でした。特に湖南省で挙兵した曾国藩湘軍安徽省で挙兵した李鴻章淮軍が有名です

李鴻章は、捻軍の乱も鎮圧しています

他に外国人も参戦します。外国は継続的にお金を奪える環境を求めるので、清王朝の安定を考えます。アメリカ人ウォードは、太平天国の乱で戦死しましたが、イギリス人ゴードンも頑張って、立ち向かいました

彼らの軍を常勝軍といいます

またゴードンは、太平天国の乱で無事でしたが、マフディーの乱(1881~98)で死亡しています
マフディーの乱は、スーダンで起きた反乱です

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ウォードとゴードンの区別は、まず国籍ですね。次に亡くなった場所に中国とアフリカの違いがあります。アフリカにアメリカの植民地はまったくありませんから、マフディーの乱とヒントがあったら、イギリス人のゴードンです

国内は、ぐちゃぐちゃ、海外の戦争にも連戦連敗で、どうにもなりませんねそのため、改革運動が起きます。それを洋務運動といいます。「西文化を学ぶことにめます」と理解できますね

この時の皇帝は、10代目の同治帝(在位1861~75)です。彼の時代は、反乱もなく、比較的うまくいったので、「同治の中興」といわれます

この改革メンバは、漢人官僚で、軍事で名を挙げた李鴻章・曾国藩・左宗棠です。左宗棠は、曾国藩の部下で、後自立していきました。回教徒の乱を鎮圧し、捻軍の乱鎮圧にも参加しています

洋務運動のスローガンは、「中体西用」です。中国の文化を維持しつつ、西洋の学問・技術を学ぼうという意味です

次回は、明治維新朝鮮の植民地化です

さて、だいぶ久々ですが、中国史です。また今回の講義内容は、現在の中国を理解するうえで凄い重要です

まず復習ですが、の王様は、可能ならば全部覚えた方が良いです今のところは、最盛期までは説明しています

ヌルハチ⇒ホンタイジ⇒順治帝⇒康熙帝⇒雍正帝⇒乾隆帝

乾隆帝の頃までは絶好調なのですが、日本の長崎のように、外の貿易に熱心でありませんでした。広州だけに貿易が限定されていました

さらには、公行という独占的な特許承認が幅を利かせていました

■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html
※最盛期までの清情報

乾隆帝にはイギリスのマカートニーは、貿易の拡大を求めましたが、不発に終わりました。7代目嘉慶帝(在位1796~1820)時代には、イギリスのアマーストもトライしましたが、三跪九叩頭の礼を求められ、拒否した結果、不調に終わりました

中国の理屈では、王の前で使者は、3回跪いて、9回頭を叩く礼儀を行なわねばなりませんでした。イケイケ時代の世界トップは、清でしたから、自分のやり方を押し付けることができました

8代目道光帝(在位1820~50)時代に、転機が訪れます。1833年東インド会社の中国貿易独占権廃止がおきます。この時期にネイピアという人が訪れますが、この人も貿易拡大に失敗します

これはインドでも同じことが起きてましたね

■講義 part80 -インドの植民地化-
http://world-history.blog.jp/archives/8832614.html
※東インド会社情報

独占がなくなったおかげで、多くのイギリスの会社が「今がチャンス」と訪れますが、一番儲けた会社は、ジャーディン=マセソン商会です。これらのイギリス会社がエグいのが、アヘンという麻薬を売りつけているからです

これは中国の商品がを筆頭に絹・陶磁器など魅力的なものが多く、イギリスは絶えず赤字だったため、無理矢理黒字化するためのヤクザのような手法です

これを三角貿易といいます。大西洋にも三角貿易があったので、区別してくださいね

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この非道を防ぐため、アヘンの取り締まりにあたったのが、欽差大臣林則徐です。そして、この取り締まりに逆ギレして起こしたのが、アヘン戦争(1840~42)です

まさに外道ですw

習近平(任期2013~)は、力強くなった中国は、今こそ過去の屈辱から脱する時と考え、各地で揉め事を起こしています

■日中・日韓関係について(2013年12月5日開催) 
http://www.fis.takushoku-u.ac.jp/worldnow/21/4-1.html
拓殖大学 世界は今 2014年冬号 — vol.21より

”アヘン戦争での敗北以来170年余にわたり屈辱の歴史を背負わされてきたわが中華民族が、ついに偉大なる復興への道を探り当て、世界を瞠目させる成果を収めつつある。中華民族の偉大なる復興こそが、近代以降の中国人が最も強く待ち望んでいた夢である。この夢には過去のいくつもの世代の人々の深い思いが込められている”

つまり彼らは、アヘン戦争からのリベンジを今、行っているわけです

アヘン戦争は、もちろん清のボロ負けです結んだ条約は、南京条約です

■南京条約(1842)
・広州・福州・厦門・寧波・上海の5港開港
・香港の割譲
・公行の廃止
・賠償金の支払い(1200万両)
・関税協定権の付与


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さらには、1843年7月には五港通商章程で、領事裁判権を認めさせます。虎門寨追加条約では最恵国待遇や土地租借などを認めさせます

領事裁判権は、中国でイギリス人が捕まってもイギリスの法で裁かれるということです。また最恵国待遇は、他の国が特権をもらうと、自分の国も同じ権利をもらえる美味しいシステムです

この不平等条約の波にアメリカフランスが乗ります

1844年望厦条約(アメリカ)・黄埔条約(フランス)が結ばれ、イギリスと同程度の待遇になります

また南京条約によて、イギリスは上海に租界を手に入れました。租界とは、治外法権の領土です。ここでは、中国であっても中国のルールは通じず、イギリスのルールで物事が進みます

あとは文化史を少し、アヘン戦争期、林則徐は世界情勢把握の一貫で、魏源という人に「海国図志」という地図を作成しています

が思ったほど強くないとわかったイギリスは、さらなる侵略を進めます。1856年10月にアロー号事件が発生し、中国人にイギリス船が海賊行為を疑われる事件が発生します

またフランスも1856年2月、フランス人宣教師が殺害される事件が、発生したため、英仏はアロー戦争(1856~60)を仕掛けます

これは別名、第2次アヘン戦争ともいいます

ちなみに、この時期の王は9代目の咸豊帝(在位1850~61)です

語呂です
南に走れ(1840)、アヘン戦争。北はコロコロ(1856)、アロー戦争

ちなみに、この語呂南京条約(1842)と北京条約(1860)にもふれてます。これをに聞いてくる出題は多発しているので、注意してください「アヘン戦争を終了させたのは、北京条約である」みたいな誤った聞き方をされます

アロー戦争は、天津条約(1858)であらかた決まるはずだったのですが、条約締結の責任者が砲撃される事件が発生し、北京条約までかかりました

ちなみに南京条約・北京条約ともに、ココに記載したことは、全暗記でお願いします

■北京条約(1860)
・キリスト教布教の自由
・海港の増加※天津を含む11港
・九竜半島南部の割譲
・外国公使の北京駐在
・外国人の内地旅行の自由
・アヘン貿易の公認
・長江航行の自由

超高度な情報ですが、北京に外交官が駐在するため、清側も対応する機関を設立しました。それを総理各国事務衙門といいます。初代は恭親王です。東大模試などで聞かれてます

ちなみにこの戦争時に、円明園破壊されたことも聞かれます

■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html
※円明園情報

この条約を見れば、清がどれだけ、ボコボコになったか理解できますアヘン貿易を公然と認めてますからねどれだけイギリスにやられたかを知った上で、最近のニュースを見ると、まったく違った解釈ができると思います

-中国、エリザベス女王謁見を要求? 首相訪英巡り報道(ニュース)-
朝日新聞 2014年6月19日00時36分
http://www.asahi.com/articles/ASG6L1T0PG6LUHBI001.html

次回は、中国の改革運動について話します

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