世界史サロン

元教師がおくる世界史講義と、ニュースを世界史で読み解くブログ

カテゴリ: 近代ヨーロッパ

受験生にとっては、太平洋の島々をどこが取っていたかなんて、「え~!ここも聞かれるのって!?」感じだと思いますが、前回講義したアフリカのようにざっくりエリア分け戦法を使えば大丈夫です

■イギリス
まずは、メジャー系からいきます。イギリスは、オーストラリアニュージーランドを持っています。皆さんが大学生になったら、ワーホリとかで英語を学びに行く場所として人気なのを知ると思います

彼らが英語をしゃべり、白人が多いのは、この時の植民地化の流れを組んでいます。特にオーストラリアは、犯罪者の島流しとして使われていました。これを流刑植民地といいます

日本でも島流しはありますが、イギリスの島流しは、規模がデカいです。この2つの国家の先住民も聞かれます。オーストラリア⇒アボリジニー、ニュージーランド⇒マオリです

オーストラリアでは、現地に同化した白人の白濠主義(はくごう)も問題になってます。これは、現在でもくすぶっている差別問題です。ワーホリでオーストラリアに行かれる方は、調べて見てください。現時点で、オーストラリア経済は好調なのでよいですが、不調になるとまた問題化すると思います

次にイギリスのマイナー系植民地です。このあたり覚えておくと、点数に差がでます他で覚えるのは、トンガ・フィジー・ニューギニア東部の南側・ソロモン諸島です

-イギリスの植民地-
無題

■フランス
意外だと思いますが、今でも太平洋には2つのフランス領があります。この当時の影響です。ニューカレドニアタヒチを覚えましょう

-フランスの植民地-
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タヒチは、美術家のゴーガンが有名でしたね

■講義 part74 -19世紀の欧米文化史①(文学・美術)-
http://world-history.blog.jp/archives/7728455.html
※ゴーガン情報

■ドイツ
-ドイツの植民地-
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だいたい黄色で囲んだ地域が、ドイツ領です。ビスマルク諸島・マーシャル諸島・カロリン諸島・パラオ諸島・マリアナ諸島が、領土です

ビスマルク・マーシャルぐらいは、覚えましょうあとは、ニューギニア東部北側ですね

ドイツの場合、第一次世界大戦の敗戦後は、これらの領土を日本・アメリカに持っていかれるのを覚えておきましょう

■アメリカ
アメリカは、フィリピン・グァム・ハワイです。このあたりは、フィリピン人が英語をよく話せますし、グァム・ハワイはアメリカ領からも理解できると思います

ハワイは、カメハメハ朝(1795~1893)のリリウオカラニ(在任1891~93)が、独立維持を画策しましたが、結局アメリカに吸収されていきます

●ニューギニア
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ニューギニアといわれる地域は、3か国によって植民地化されていたため、ちょっと別枠で話します。まずニューギニア西部は、オランダ領です。ここから見て、西側にはインドネシアがあり、長くオランダ領です。上のグーグルマップからわかるとおり、現在もざっくり真ん中で国境が引かれ、ニューギニア西部はインドネシア領に組み込まれています

■講義 part56 -ヨーロッパ諸国の海外進出-
http://world-history.blog.jp/archives/4392809.html
※インドネシアの植民地化情報

ニューギニア東部は、ドイツイギリスです。1901年に自治領として自立していくオーストラリア連邦は、ニューギニアのイギリス領を引き継ぎます

ドイツが第一次世界大戦で負けると、ニューギニア東部北側を放棄することになり、オーストラリアは南北双方を管理することになり、やがてパプアニューギニアという名に変わります

この名が、現在のパプアニューギニアに受け継がれています。今回は以上です

次回は、中国分割いきます

アフリカ植民地化の前提として覚えて欲しいのは、アフリカの大半は、イギリスフランスが所有していることです

イギリスは、アフリカ縦断政策と採用し、フランスはアフリカ横断政策を採用しています。私は受験生の時に、アフリカの地図を思い浮べ、下図のように縦線(赤)でイギリス、横線(青)でフランスを暗記しました

これで、「アルジェリアは横ラインにあるからフランス領だな」とか「ケニアは縦ライン上だから、イギリス領かな」とかの類推がききます

で、縦線と横線を引けば、ぶつかるのは当たり前で、そこがイギリスとフランスの紛争地帯になります。そこがスーダンという場所で、ファショダ事件(1898)というのが起きます

まず、この事実を前提として、知識を肉付けしてください。なぜならアフリカ史の典型的な質問が、「この国は、どこの植民地ですか?」だからです

これ以外の国であるドイツ・イタリア・ベルギー・ポルトガルが聞かれたら、難易度高い問題となります

-縦断政策(英)・横断政策(仏)-
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それでは、アフリカの植民地化を説明しますまずイギリスですが、彼らは3C政策を推し進めています。これは、彼らが植民地経営するう上で、最重要拠点です。ここを死んでも守ります。

この3Cは、3つの都市名の頭文字です。ケープタウン(南アフリカ)・カイロ(エジプト)・カルカッタ(インド)です。英語だと、Capetown・Cairo・Calcuttaです。3Cですね

ケープタウン・カイロは、今でも使われている都市名ですが、カルカッタは、コルカタと言われています。まず南アフリカは、ダイヤモンド・金等の鉱物資源が豊富です。またカイロは、スエズ運河を持つため、ここを通る船から通行料を取れます。インドは、綿花を買って、加工した綿製品を売りつけるため、必ず儲かります

以上のことから、非常に美味しい植民地ということが理解できると思います

1881年、エジプトでウラービー(オラービー)の反乱が起きます。さきほど言ったように、エジプトは絶対失いたくない領土ですから、この反乱を鎮圧します。この本乱を理由に、翌年にはエジプトを事実上の保護国化しています

語呂です
嫌やい(1881)ウラービーの反乱、マフディーの反乱

いきなり、マフディーという言葉でてますが、エジプトの下にあるスーダンでも反乱起きてます。それが、ムハンマド=アフマド率いるマフディーの反乱(1881~98)です

ちなみに1881年は、フランスによって、チュニジア保護国化されてる年でもあります

けっこう長引いたため、太平天国の乱で活躍したゴードン戦死しています。この人は、よく聞かれるので、覚えてくださいね

■講義 part83 -中国の内乱と近代化(太平天国の乱・洋務運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/9001991.html
※ゴードン情報

アフリカ南部においては、1814年からオランダ領⇒イギリス領となっており、ここをケープ植民地として徐々に拡大していきます

ここではセシル=ローズ(在任1890~96)という人が、ケープ植民地を経営しています。教科書で3C政策の拠点であるカイロ~ケープタンを結ぶ存在として、よく紹介されてますね

-セシル=ローズ-
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■南アフリカレポート
http://world-history.blog.jp/archives/3817131.html
※自分の南アフリカ旅行で、セシル=ローズにふれてます

ここで居場所を追われた、現地に入植したオランダ人の子孫をブール人といいますが、僻地に行って、トランスヴァール共和国。オレンジ共和国を作ります

この拡大期の1898年に、ファショダ事件(スーダン)で、英・仏は衝突しますが、両国は戦争を回避します。お互いリスクを取らずに、仲良くアフリカを占領しますという意志です

ここで、ダイヤモンド・金が発見されたため、イギリスは再侵略します。まさにジャイアンですwこれを南アフリカ(南ア・ブール)戦争(1899~1902)といいます

もちろんイギリスの勝ちです。これで、今の南アフリカと同じぐらいの領土になり、ケープ植民地⇒南アフリカ連邦に格上げです。ここで、アパルトヘイトという白人優遇、黒人差別が推進されていきます

1904年、英仏は条約を結びます。これを英仏協商といいます。イギリスのエジプト領有、フランスのモロッコ領有をお互い認めたものです

以後は、代表的な聞かれる植民地を列挙します

イギリス…エジプト・南アフリカ・ケニア・ナイジェリア・アシャンティ(ガーナ)
フランス…チュニジア・モロッコ・マダガスカル

ベルギー…コンゴ
※レオポルド2世が、尽力。この植民地、聞かれますだれも、アフリカにベルギーの植民地があると考えないからです

ドイツ…カメルーン・南西アフリカ(ナミビア)・東アフリカ植民地(タンザニア)
ポルトガル…アンゴラ・モザンビーク

イタリア…リビア・エリトリア・ソマリランド


上記の植民地の位置含め、どこが支配国か、しっかり覚えてくれれば、アフリカ史はだいぶ楽ですこれで、アフリカはほとんど取り尽くされたので、あとは戦争で奪うしかありません

特に後発の、ドイツ・イタリアは焦ってますこれが第一次世界大戦の1つの要因ともいえます。ドイツは、1905年第1次モロッコ事件1911年第2次モロッコ事件を起こして、モロッコをドイツの領地にしようと画策します。フランスの背後には、イギリスの支援んがありますから、ドイツはうまくいきません

1905年の事件は、タンジール。1911年の事件はアガディールで起きています。第1回に関しては、アルヘシラス会議で、ドイツの譲歩が決定します。第2回とひっかける正誤問題に注意です

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イタリアは弱い者イジメで、領土を取ります。イタリア=トルコ戦争(1911~12)で、トリポリ・キレナイカを占領し、これをリビアとして領有するぐらいしか、できてません。ショボイです…

これ以前には、エチオピア戦争(1895~96)なんてのも起こしてますが、近代化に成功していたメネリク2世率いるエチオピアの前に敗北していますショボイです…

アフリカは、ほぼほぼ植民地されていますが、されていないレア国家もよくきかれます。それがエチオピアリベリアです。この時期に植民地を免れた2つの国家として記憶してください

-エチオピア・リベリア-
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※エチオピアは、頑張ってましたが、結局イタリアのムッソリーニが1935年に侵攻して、占領します

次回、太平洋諸地域の植民地化です

ロシアは、帝国主義時代にガタガタと、政治システムが変わっていく時代です

まだ説明していないですが、キッカケは日露戦争(1904~05)です。これで、ロシアは王政の変更を余儀なくされます

まず社会主義の勢力が、大きく伸長します。ロシア社会民主労働党が、まずでますが、意見の対立で、ボルシェヴィキメンシェヴィキに分かれます

メンシェヴィキの方が、段階的な改革を望み、ブルジョワ勢力も取り込んでいます。指導者は、プレハーノフマルトフです。ボルシェヴィキの指導者は、レーニンです

-レーニン-
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他にも過激な社会主義集団、社会革命党(エス=エル)というのもあります。これは、ナロードニキの流れを組んでいます

■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※ナロードニキ情報

もちろんブルジョワ政党もあります。それは、立憲民主党です
これらの政党が、主導権争いを行います

結局の所、戦争は長続きすると、優勢だろうが、劣勢だろうが、国民の不満は鬱積します。明日食べるゴハンも、苦しむ状態になりますからね

さらにアジアなんて雑魚と思っている欧米の人にとって、簡単に日本を追い込めないロシアの状態に、国民は我慢なりません

これらの不満は、ペテルブルク冬宮前のデモにつながります。率いていたのは、ガポンという神父です。このデモを鎮圧するために、軍隊は武力で鎮圧します

これで多くの死者がうまれ、ロシア皇帝憎しの感情が作られていきます。これを血の日曜日事件(1905年1月)といいます

これがキッカケとなり、各地が暴動です。当時の皇帝ニコライ2世(在位1894~1917)はビビりますこの暴動鎮圧の責任者となったのが、ヴィッテです。彼は、日露戦争を終わらせたポーツマス会議での責任者でもあります

まず、原因を考えるとわかりますが、デモのキッカケは戦争です。これを止めるのが第一です。これを放置している間、軍隊すら暴動に参加しています

これをポチョムキン号の反乱(1905年6月)といいます

いよいよ皇帝の首が危ないですロシアは戦争継続を断念します。ポーツマス条約(1905年9月)に調印します

しかし、これだけでは無理です。戦争に負けているからです。責任は誰でしょう?どうみても皇帝になります。国民を納得させるアメでもない限り、止まりません

そこでニコライ2世は、十月宣言(1905年10月)を発表し、ドゥーマ(国会)の開設と、憲法の制定を認めます

血の日曜日事件から、ここまでの流れを第一次ロシア革命といいます

血の日曜日事件⇒ポチョムキン号の反乱⇒ポーツマス条約⇒十月宣言

並べ替え問題があれば、年号暗記がなくても、当時の流れを覚えいれば解答できます。上記の流れを自分で説明できるようにしていてくださいね

ここで力を持ったのは、立憲民主党です。ヴィッテも彼らの路線を支持しますが、皇帝は不満です。喉元すぎれば、ナントカで、自分以外の者が権力を持つことが納得できません

1906年に首相だったヴィッテを解任し、ストルイピン(在任1906~11)をあらたに任命します。これで、立憲民主党も支持者を失い、力がなくなります

ストルイピンは、暴動の芽が、ミールから生まれると考えていました。ミールは農村共同体ですね。農民は貧しい人多いですから、社会主義の影響を受けやすいです

ミールをつぶし、自立した農民を増やせば国力もあがると考えました

■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※ミール情報

この考え、ちょっと浅薄だったと思います。ミールは、国が何も助けてくれないなかで、弱い彼らが何とか生きていくためのだったことを理解できていません

ストルイピンは、貴族出身ですから、経済的なものだけで、物を見過ぎたと思います。ただ、彼はミールを潰せば、暴動が減って、経済力もつくと思ってますから、ミール解体を断行します

最後のセーフティーネットを砕かれたわけですから、農民に貧富の格差が増大します。ここで儲かった一部の人はいいですが、頼るもののない農民は困窮し、さらに憎しみを増大させるわけです

またストルイピンは、いろいろルールを変更して、自分に操縦しやすい国会を作りました。立憲民主党や社会主革命党などは、そこで議席を失います

ほうぼうに憎まれたストルイピンは、最終的に暗殺されてしまいます

彼のやろうとしたことは理解できますが、ロシアの流れを大局から判断して、適切に行動できるまでの才覚はなかったと思います

ロシアの矛盾は解消されず、不満のマグマが溜まり、次の革命を待つことになります

次回は、帝国主義時代(アメリカ)です

今日、フィリピンは祝日なので、更新します

■ドイツ
ドイツの帝国主義行きましょう

正直、ココからドイツは泥沼ですまず私も個人的に好きなビスマルクが、退陣します(1890)その後に出てくるのが、ヴィルヘルム2世(在位1888~1918)です

■講義 part68 -ドイツの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6184102.html
※ビスマルク情報

自分は、結果論で考えます。ヴィルヘルム2世を擁護する人もいますが、彼はドイツを追い込んだ責任者であり、後のヒトラーを生むトリガーの役割を果たしています

なぜ、こうなるかというと、彼が首相でなく、国王だった点にあります。この場合、国家=国王になります。行き着く先は、拡大路線です

これはイギリスやロシアとの衝突と同じ言葉です…

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※By Wikipedia

私は、マックス=ヴェーバー「職業としての政治」から、分析すると、ヴィルヘルム2世は結果責任を果たしていません

※ちなみに、この本は受験では聞かれません。プロテスタントのマインドと資本主義を研究した「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のほうが聞かれます

正直、国をまとめる人は「そういう気持ちでやってなかった…」と言い訳がましいことを言うべきでありません。すべては、結果で判断されるべきです


彼には、理想主義者の面が強いです。それが顕著に現れたのが、社会主義者鎮圧法の廃止です(1890)。これで社会主義勢力が、強大な力を持ちます

ビスマルクは、この勢力を危険視していまいた。国家運営において、不安定要素と捉えていたわけです。彼らのうちの大半は、労働者の立場にたって行動してますから、悪くはないと思います

ただ、無政府主義者のように、国家転覆を計る勢力もいたので、コントロールが難しい勢力です。インターナショナルのように国家を越えて連結しますからね

これは、少なからず今の日本も抱えている問題です。機会があれば、別枠で説明します。社会主義については、一言で語れない一長一短があります

■講義 part77 -19世紀の欧米文化史④(探検・国際的諸運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/8659280.html
※インターナショナル情報

少なくとも、ヴィルヘルム2世の選択は、社会主義勢力を爆発的に増やしました。まず有力な組織としてはラサール率いる全ドイツ労働者協会(ラサール派)とベーベル率いる社会民主労働者党(アイゼナハ派)があります

1875年、これが合併して、ゴータ綱領をもとに、ドイツ社会主義労働者党が結成されます。これに呼応しての社会主義者鎮圧法(1878~90)です

これで歯止めをかけようとしていましたが、これが外れます

1891年、エルフルト綱領に基づき、ドイツ社会主義労働者党はドイツ社会民主党に改称されます。この政党は、現在のドイツでも有力な政党です

全ドイツ労働者協会(ラサール派) + 社会民主労働者党(アイゼナハ派) = ドイツ社会主義労働者党 ⇒ ドイツ社会民主党

今のメルケル首相(在任2005~)の前の、シュレーダー(在任1998~2005)はドイツ社会民主党出身です

-シュレーダー-
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次回、帝国主義時代(ロシア)行きます

帝国主義時代のフランスは、第三共和政(1870~1940)の時代です。ナポレオン3世が、ビスマルクに負けてしまい、この体制が始まります

■講義 part68 -ドイツの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6184102.html
※ビスマルク情報

■講義 part69 -フランスの第二帝政・第三共和政-
http://world-history.blog.jp/archives/6498346.html
※ナポレオン3世情報

19世紀末
あたりのフランスは、イギリスと植民地獲得をめぐって、揉めています。アフリカ・東南アジアで、けっこうぶつかります

さらにビスマルク外交のおかげで、フランスは有力な同盟国持てず苦しんでいましたフランスにとって幸いだったのは、ビスマルクが国王と揉めて、退位(1890)したことです

これで展開が変わります。即座に露仏同盟(1891~94)が結ばれます

このような中で、2つの大きな事件がフランスで起きます。それがブーランジェ事件(1887~89)とドレフュス事件(1894~99)です

ブーランジェ事件は、クーデタ未遂事件です。クーデタ(coup d'État)は、実はフランス語です。直訳すると「国をぶっとばす」です

ブーランジェの身分は、軍人です。彼は、ドイツに負けた国民の悔しさを利用して、国のトップになろうとしました。これで、けっこう国が揺れましたが、失敗しています

次の事件は、反ユダヤ主義、つまり差別とリンクしています。ユダヤ人のドレフュスが、スパイとして、捕まりまりましたが、真犯人が捕まり、彼は無実と軍部はわかります

しかし、面子のため、彼のユダヤ人という素性を利用して、フランス人の差別感情を煽り、あくまでドレフュスを犯人にして、押し切ろうとしました

下画像は、軍人の権利を剥奪されて、剣を折られているドレフュスの図です。中央左手が、ドレフュスです

-ドレフュス事件-
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※wikipedhia

まず差別ですが、欧米人にはユダヤ人への差別意識があります。日本人には、これが本当に理解できません。キリスト教の歴史と密接に関わっている問題です

ユダヤ人は、ユダヤ教という固有の宗教を持っており、キリスト教と違います。相違点は、簡単です。「救世主として、イエスを認めるか、認めないか」です

ユダヤ人は、最後の救世主をいまだ待ち望む宗教です

■講義 part15 -ローマ文化史-
http://world-history.blog.jp/archives/1512252.html
※キリスト教史

ここが、キリスト教が大半を占める欧米で、嫌がられる根拠です。

19世紀ともなると、こういった差別意識と戦う人々がでてきます。有名人は、自然主義作家のゾラです。「居酒屋」で有名でしたね。彼が、この非道に猛烈に抗議します


-ゾラ-
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■講義 part74 -19世紀の欧米文化史①(文学・美術)-
http://world-history.blog.jp/archives/7728455.html
※ゾラ情報

他にも、政治家のクレマンソー(在任1906~09、17~20)もドレフュス側にたちました。彼は、後にフランスの首相まで上り詰めます

彼らの努力もあり、ドレフュスは無実となります

語呂です
白紙(1894)に戻そう、ドレフュス事件

これを見たヘルツルという人は、ユダヤ人国家の建設を運動化させるシオニズムを行うことになります。結果として、これでイスラエルが建国されますから、ドレフュス事件の歴史的重みは、凄いと思います

この時期は、労働組合も盛んです。フランス最大の組合は、労働総同盟(CGT)といいます。彼らは議会主義を否定し、過激に労働者の権利を求めていきました

これを、サンディカリズムといいます

このような中で、2つの有名な社会主義政党が生まれます。それが小ブルジョワ・小農民を支持基盤とする急進社会党と、第2インターナショナルがきっかけで結成されたフランス社会党ができます

フランス社会党は、今の社会党の原型になっていきます。ちなみに今のフランス大統領は、社会党のオランド(在任2012~)です

-オランド-
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■講義 part77 -19世紀の欧米文化史④(探検・国際的諸運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/8659280.html
※第2インターナショナル情報

次回は、帝国主義時代(ドイツ・ロシア)行きましょう

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