すいませんホームページ作成して、更新遅れました

本日はイギリス革命・名誉革命です。これはピューリタン革命ともいいます
まずは、イギリスの復習です。王朝がすぐ浮かぶようにしましょうね。

アングロ=サクソン朝⇒ノルマン朝⇒プランタジネット朝⇒テューダー朝⇒ステュアート朝⇒ハノーヴァー朝(ウィンザー朝)

過去ブログで、テューダー朝までは話しましたね

■講義 part37 -封建社会の崩壊と十字軍以後の主要国家-
http://world-history.blog.jp/archives/2423381.html

■講義 part50 -絶対王政(イギリス・フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/2902970.html


エリザベス1世が子供を産むことなく亡くなったため、テューダー朝は断絶し、ステュアート朝(1603~49,1660~1714)に代わります

初代は、ジェームズ1世(1603~25)です。彼は王権神授説の信奉者です。従って邪魔者の議会を無視します

この頃のイギリスには宗教上の三大勢力があります。それはカトリック・ピューリタン・イギリス国教会のです

テューダー朝からイギリス国教会が整備された影響で、王はカトリックとピューリタンを弾圧します

次の王、チャールズ1世も父の影響で、議会を無視します。1628年に議会側は「権利の請願」を行い、王のジャイアン的態度に文句をいいます。これに対して王は、議会解散をしてしまいます

さらにスコットランドにも国教会を強制しようとした結果、反乱が発生します。そして、この反乱軍に負けますw
彼は王権神授説によって、自分の実力を過大評価していると思います

反乱軍から賠償金を請求され、彼は増税のため、渋々議会を開きます

これが1640年の出来事です。10年以上開催していない議会の議題が、「賠償金のために増税したい」ですから、議会は揉めます

短期議会・長期議会ともに不調に終わります2大勢力が激突です

王党派(拠点・ヨーク) vs 議会派(拠点・ロンドン)

2014-3-9_8-19-12

議会派自身も全員が同じ考えでなく、大きく3つの勢力に分かれます。それが、長老派・独立派・水平派です

長老派は、比較的王様より、独立派は真ん中、水平派は過激です。ここで有力になったのが、クロムウェル率いる独立派です

-クロムウェル-
2014-3-9_8-27-1

1642年に反抗作戦を開始します。これがピューリタン革命の始まりです

語呂です
無視に(1642)できないピューリタン

彼は新興勢力のジェントリ・ヨーマンの支持を受け、鉄騎隊という軍隊を結成します。彼らはピューリタンばかりでした。また当時、弾圧されていた宗教派閥ですから、モチベーションの高い軍隊です

ここで踏ん張らないと、ピューリタンの居場所がなくなりますからね

1645年には、ネーズビーの戦いで王党派を撃破します

1649年には、イギリスを苦しめたチャールズ1世を処刑してしまいます

ここからクロムウェルをリーダーとする共和政(1649~60)がスタートです。彼は独立派勢力の確固たる地位を築くため、アイルランド・スコットランドと立て続けに征服します

さらに当時流行りの重商主義を採用していたため、1651年航海法を発布します。重商主義は、商売重視する主義と考えてください。つまり当時一番儲かった貿易をどうするか、クロムウェルは考えるわけですね

ライバルは、オランダです。17世紀では、スペインは衰退しています。このオランダを締め上げるために制定したのが航海法です。この法律は、中継貿易で儲けていたオランダを排除するものです

例えば私たちが魚を買う場面をイメージしましょう

私たちは、スーパーとか魚屋さんで買ってますね。じゃあ魚屋さんは、どこで魚を買うかというと市場です。で、市場は漁師から魚を買うわけです

消費者(国民)⇒小売り(魚屋)⇒卸し(市場)⇒生産者(漁師)

この卸し部分で儲けているオランダを外すため、イギリスは卸しを介さない直接貿易しか認めない法律をつくるわけです。それが航海法です。これはオランダに壊滅的影響を与えるため、1652年に第1次イギリス=オランダ戦争(英蘭戦争)が勃発します

語呂です
オランダにむごい(1651)航海法

この戦争はイギリスに有利に進み、徐々にイギリスは世界の覇権を握ることになります
1653年には、クロムウェルは独裁性を強めるため、護国卿に就任します。正直、王とかわりませんね

結局、議会の意義が薄まったため、不満が溜まっていきます。そのため、クロムウェルの死後、独立派の勢力は衰退し、王様よりの長老派が復活します

長老派は、議会尊重を条件に王政を復活させます。これが1660年の王政復古です

就任した王様は、チャールズ1世の息子、チャールズ2世です。彼は議会を無視しますwだいぶゲスですねw

「王にさえなれば、こっちのもんだ!」という発想です

ここで巻き返した勢力が国教会です。公職につけるのを国教徒に限定する審査法、王様に勝手に逮捕させない人身保護法を整理させます

語呂です
異論、波(1673)なく(79)審査、人身保護

王様側はそれでも、虎視眈々と勢力伸長を考えてます。また次の王様の後継者問題で議会が割れます。有力な王位継承者がカトリックだったため、国教会の勢力は焦ったわけです

結果、カトリックの王を認めるトーリ党と認めないホイッグ党ができます。トーリ党は後に保守党になり、ホイッグ党は後に自由党になります

これ現在でも、イギリスで有力な政党です。例えば2010年5月からイギリスは、キャメロンという人が首相です。彼の政党は、保守党です

まぁ、大丈夫だということで、最終的にはカトリックの王が認められることになります。これでジェームズ2世が就任します。そして案の定、彼はカトリックを復活させようとしますwゲスですw

議会は王の排除にのりだします。ジェームズ2世は、これに凄いあせります自分の親族が同じパターンで処刑されていますからね

彼は抵抗もせず、フランスに亡命します。戦争にならなかったため、これは名誉革命(1688~89)といわれます

議会は、ジェームズ2世亡命後、彼の娘のメアリ2世とウィリアム3世の共同統治が始まります。もちろん条件付きですが。。。

議会は、「権利の宣言」という議会優位の決まりを認めさせます。また、今までの数々の失敗から学び、この宣言を文書化させます

それが「権利の章典」です

この後は、メアリ2世の妹、アン女王(位1702~14)が即位しますが、子供が早くに亡くなったため、ここで王朝が断絶します

彼女の時は、完全にスコットランドが併合され、大ブリテン王国(1707)になっています

王朝断絶後は、ドイツから血縁関係者を持って来てハノーヴァー朝が始まります。王様はジョージ1世です。彼はドイツから来たため、英語は話せず、イギリスの運営は議会に丸投げします

そのため内閣がうまれました。またジョージ2世の時には、ホイッグ党のウォルポールが王が政権維持を望んでいても、議会内で少数派だったため、辞職しました

ここから議会の多数派が内閣を組織する責任内閣制ができました

王の意向に関係なく議会によって政治が行われたため、「王は君臨すれども統治せず」の伝統がイギリスに根付きました

日本の今の天皇制をイメージしてもらえば、理解できると思います

次回は、フランスルイ14世について話します