世界史サロン

元教師・今社長がおくる世界史講義と、ニュースを世界史で読み解くブログ

カテゴリ: フランス

帝国主義時代のフランスは、第三共和政(1870~1940)の時代です。ナポレオン3世が、ビスマルクに負けてしまい、この体制が始まります

■講義 part68 -ドイツの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6184102.html
※ビスマルク情報

■講義 part69 -フランスの第二帝政・第三共和政-
http://world-history.blog.jp/archives/6498346.html
※ナポレオン3世情報

19世紀末
あたりのフランスは、イギリスと植民地獲得をめぐって、揉めています。アフリカ・東南アジアで、けっこうぶつかります

さらにビスマルク外交のおかげで、フランスは有力な同盟国持てず苦しんでいましたフランスにとって幸いだったのは、ビスマルクが国王と揉めて、退位(1890)したことです

これで展開が変わります。即座に露仏同盟(1891~94)が結ばれます

このような中で、2つの大きな事件がフランスで起きます。それがブーランジェ事件(1887~89)とドレフュス事件(1894~99)です

ブーランジェ事件は、クーデタ未遂事件です。クーデタ(coup d'État)は、実はフランス語です。直訳すると「国をぶっとばす」です

ブーランジェの身分は、軍人です。彼は、ドイツに負けた国民の悔しさを利用して、国のトップになろうとしました。これで、けっこう国が揺れましたが、失敗しています

次の事件は、反ユダヤ主義、つまり差別とリンクしています。ユダヤ人のドレフュスが、スパイとして、捕まりまりましたが、真犯人が捕まり、彼は無実と軍部はわかります

しかし、面子のため、彼のユダヤ人という素性を利用して、フランス人の差別感情を煽り、あくまでドレフュスを犯人にして、押し切ろうとしました

下画像は、軍人の権利を剥奪されて、剣を折られているドレフュスの図です。中央左手が、ドレフュスです

-ドレフュス事件-
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※wikipedhia

まず差別ですが、欧米人にはユダヤ人への差別意識があります。日本人には、これが本当に理解できません。キリスト教の歴史と密接に関わっている問題です

ユダヤ人は、ユダヤ教という固有の宗教を持っており、キリスト教と違います。相違点は、簡単です。「救世主として、イエスを認めるか、認めないか」です

ユダヤ人は、最後の救世主をいまだ待ち望む宗教です

■講義 part15 -ローマ文化史-
http://world-history.blog.jp/archives/1512252.html
※キリスト教史

ここが、キリスト教が大半を占める欧米で、嫌がられる根拠です。

19世紀ともなると、こういった差別意識と戦う人々がでてきます。有名人は、自然主義作家のゾラです。「居酒屋」で有名でしたね。彼が、この非道に猛烈に抗議します


-ゾラ-
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■講義 part74 -19世紀の欧米文化史①(文学・美術)-
http://world-history.blog.jp/archives/7728455.html
※ゾラ情報

他にも、政治家のクレマンソー(在任1906~09、17~20)もドレフュス側にたちました。彼は、後にフランスの首相まで上り詰めます

彼らの努力もあり、ドレフュスは無実となります

語呂です
白紙(1894)に戻そう、ドレフュス事件

これを見たヘルツルという人は、ユダヤ人国家の建設を運動化させるシオニズムを行うことになります。結果として、これでイスラエルが建国されますから、ドレフュス事件の歴史的重みは、凄いと思います

この時期は、労働組合も盛んです。フランス最大の組合は、労働総同盟(CGT)といいます。彼らは議会主義を否定し、過激に労働者の権利を求めていきました

これを、サンディカリズムといいます

このような中で、2つの有名な社会主義政党が生まれます。それが小ブルジョワ・小農民を支持基盤とする急進社会党と、第2インターナショナルがきっかけで結成されたフランス社会党ができます

フランス社会党は、今の社会党の原型になっていきます。ちなみに今のフランス大統領は、社会党のオランド(在任2012~)です

-オランド-
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■講義 part77 -19世紀の欧米文化史④(探検・国際的諸運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/8659280.html
※第2インターナショナル情報

次回は、帝国主義時代(ドイツ・ロシア)行きましょう

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さてフランスの話です。フランスを見てると、民主主義はすぐにはできないことがよくわかります。この講義では、さらっと流していましたが、フランス革命の最終局面で、ナポレオンが登場したのは、民主主義の悲劇だと思います

民主主義は、独裁者に頼りません。にもかかわらず、独裁者のナポレオンを生んでいます。これは歴史の皮肉ですね

■講義 part62 -総裁政府とナポレオン-
http://world-history.blog.jp/archives/5437815.html
※ナポレオン情報

民主主義は、本当に少しづつしか、前に進みません。なので、独裁者がドラマティックに改革すると、「そっちがいいな」となります

これは甘い罠です。独裁は、運命的に腐敗するからです。民主主義の利点は、政治腐敗を前提に作られている所です。つまり、選挙です

これがあるので、独裁者が乱暴しても、選挙で落とすことができます。なので、民主主義は弱点もありますが、マシなんです

私の好きな政治家、チャーチル(在任1940~45、51~55)の言葉を引用しましょう。この人はイギリスの軍人かつ、首相です。第二次世界大戦あたりで勉強します

「本当に民主主義は、最悪の政治形態だ。今まで試された民主主義以外のあらゆる政治形態を除けばの話だがね」

-チャーチル-
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フランス民主主義の苦しみは、また独裁者を誕生させます。それがナポレオン3世(在位1952~70)です。皇帝就任前は、ルイ=ナポレオンといいます。名前でピンと来ると思いますが、ナポレオンのです

-ナポレオン3世-
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ナポレオン3世は、第二共和政の矛盾点をうまく突いて、トップになります。まず第二共和政で、選挙をやって実権を握ったのは、ブルジョワでした。金持ち集団です。ここと労働者・農民が対立します

労働者・農民から人気を得たのが、ナポレオン3世です。今の政治に不満を持っている人々を取り込んだわけです。国民は、彼に良かった頃のフランスを見るわけです。ナポレオン3世が七光りでなかったのが、ブルジョワもちゃんと保護したことです

就任後、国民すべてにいい顔したのが、彼です。ブルジョワは、社長です。彼らは、一杯給料を払いたくありません。労働者は給料欲しいです。矛盾がありますね。これを解消するのが戦争です

戦争で獲得した戦利品を使って、会社を保護、拡大させ、労働者のために保険を整備し、農民の土地所有を保護しました

これをボナパルティズムといいます。この政策は、戦争に負けた瞬間に終わります

まずはクリミア戦争(1853~56)で、ロシアと対立しましたが、ここに勝利します。中国にもアロー戦争(1856~60)で勝利します。イタリア統一戦争(1859)では、イタリア側で参戦し、最終的に領土をゲットしてましたね

■講義 part67 -イタリアの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6154501.html
※イタリア統一戦争情報

インドシナ出兵(1858~67)では、ベトナムを支配下に置きます。とにかく戦争ばかりで、勝利していましたから、人気もありました

しかし、メキシコ出兵(1861~67)で敗北します。この時、メキシコの責任者、マクシミリアンを見捨てて撤兵したため、人気が赤丸急降下です

このミスをなんとか回復しようとやった戦争が普仏戦争(1870)です。これがナポレオン3世の致命傷になりますこの時、弱小と思われていたプロイセンは、じっくりと戦争の準備をしていましたね

■講義 part68 -ドイツの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6184102.html
※普仏戦争情報

スダン(セダン)という町で、彼は捕虜になり、負けます。とにかくナポレオン3世は、彼が関与した戦争を覚えてくださいね「この戦争の時のフランスの大統領は誰ですか?」みたいな問題は、よくでます。以下が、彼の関与した戦争です

・クリミア戦争
・アロー戦争
・インドシナ出兵
・イタリア統一戦争
・メキシコ出兵
・プロイセン=フランス(普仏)戦争


1871年に臨時政府がたてられ、これがまたブルジョワ中心だったので、労働者は自分たちで、他の政府を建てます。それがパリ=コミューンです。この時、大統領のティエールは、これを徹底的に弾圧して潰します

彼が後に、第三共和政(1870~1940)の初代大統領になります。また七月王政期も、首相(在任1836、40)をやっていました

ちなみに第三共和政は、ナチスに占領されるまで続きます

フランスは、覚える王朝が3つしかないので、王朝暗記は、イギリスと比較して楽ですが、政治形態が頻繁に変わるので、そこを必ず覚えましょう

■講義 part37 -封建社会の崩壊と十字軍以後の主要国家-
http://world-history.blog.jp/archives/2423381.html
※イギリス・フランス王朝情報

政治形態の流れは、以下です

第一共和政⇒第一帝政⇒復古王政⇒七月王政⇒第二共和政⇒第二帝政⇒第三共和政

「第一共和政はロベスピエールで、第一帝政はナポレオンだったな」とイメージできないと世界史では戦えませんよちなみに第二次世界大戦後は、第四、第五共和政です。現在のフランスは、第五共和政(1958~)の時代です

次回は、イギリスのヴィクトリア時代いきます

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さてフランスの話です。フランス革命で国民が主役の国が生まれ、それを抑圧しているのが、ウィーン体制でしたね

■講義 part63 -ウィーン会議-
http://world-history.blog.jp/archives/5889961.html

正統主義に基づき、フランスにはブルボン朝が復活しています。王様は、ルイ18世(在位1814~25)です

基本、フランス国民には嫌われいます。次のシャルル10世(在位1824~30)も、もちろん嫌われています。彼は国民の支持を得ようと、アルジェリア出兵(1830)を行います

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これによって、フランスはアルジェリアの支配権に入ります。ここから1962年まで、フランスのものです。したがってフランスに行くとわかりますが、アルジェリア系の移民が多いですし、彼らは普通にフランス語をしゃべります

初めてフランスにサッカーW杯で優勝に導いたのは、アルジェリア系フランス人のジダンです

-ジネディーヌ・ジダン-
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さらにシャルル10世は、議会を解散させて、本格的に絶対王政を復活させようとします。これで、フランス国民の我慢に限界がきて、暴動が発生します

それが、七月革命(1830)です

これによって、ブルジョワジーの国にかわります。ブルジョワジーは、金持ちです。金持ちが呼んだ王様が、オルレアン家ルイ=フィリップ(在位1830~48)です。これによって立憲君主政が始まります。これを七月王政ともいいます

この時の情景を描いた絵画が、ロマン派ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」です。みなさんも一度は見た絵だと思います。ルーブル美術館で、「モナ=リザ」の側で展示されています

これ、19世紀のヨーロッパ文化史で、一番聞かれると思います

-民衆を導く自由の女神-
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ちょっと脱線しますが、「自由の女神」はアメリカが最初と思っている人がいると思いますが、あれはフランス人が作ったものです。アメリカの独立100周年を記念して送られています

その時の像のモデルが、このドラクロワの絵画です。だから顔が似ています。フランス政府のロゴにも女神が描かれてます。フランスに行けば、すぐに見れるロゴです

-フランス政府のロゴ-
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フランス語で、「自由・平等・博愛」と書いてますね

これに刺激を受けた形で、ベルギーが独立(1830)し、各地で反乱が続発しました。ポーランドのワルシャワ暴動も聞かれます。またカルボナリも、この時、イタリアで暴動を起こしています

■講義 part64 -ラテンアメリカ諸国の独立とギリシア独立戦争-
http://world-history.blog.jp/archives/6006451.html
※カルボナリ情報

フランスの七月王政の次の課題が、選挙権の拡大です当時、まだ選挙権は、金持ちしかありませんでした。人口の1%ほどです

そこでギゾー首相は、改革宴会を開いて、選挙権の拡大を話し合います。フランス革命の目的は、国民が主役でしたね?

七月革命では、共通のとして、国王・貴族・聖職者が定義され、ブルジョワジー・中小資本家・労働者は結束できました

しかし今は、ブルジョワジーx中小資本家・労働者対立構造がかわったわけです

これをギゾーはまとめられず、二月革命(1848)が勃発して、彼は辞職、ルイ=フィリップも亡命します。これで、国民が主役の第二共和政(1848~52)が始まります。選挙も男子普通選挙を実施します(四月普通選挙)

共和派のラマルティーヌ国立作業場を作って、労働者の働く場を提供した社会主義者ルイ=ブランなどが尽力します

この二月革命の影響が、ウィーン体制を終わらせます。ウィーンで、三月革命が起きます。これでメッテルニヒが退陣して、ウィーン体制が終了します

ベルリンも暴動が起きて、フランクフルト国民会議で、今後のドイツについて話し会いがもたれ、コシュートを軸に、ハンガリー民族運動、ベーメン民族運動、マッツィーニがイタリア民族運動、ポーランドではクラクフ蜂起が発生しています

もう、完全にウィーン体制は保てませんね

語呂です
いや行こー(1815)ウィーンへ、シャルル10世に癒され(1830)ないフランス、嫌よ辞(1848)めてよ、メッテルニヒ

ウィーン体制は、七月革命・二月革命で崩壊します。また各革命で、どのような暴動が起きたかをチェックしてください

「七月革命の影響で、ポーランドのクラクフで暴動が発生した」…これは不正解です。この正解は、ワルシャワです。こんな感じで、七月革命・二月革命の影響を混ぜて聞いてくる問題が王道であります

次回は、自由主義・社会主義について話します

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フランス革命のつづきです。ロベスピエールの独裁に懲りたフランスは、権力の分散した政府を1795年憲法によって作ります

それが、総裁政府(1795~99)です。ブルジョワジーが軸の政府です。5人の総裁を置いて、統治します。おそらく、平和な時代なら、これでも機能しますが、今は激動の革命期です

もちろん、この政府は苦戦します総裁政府が成立する直前には、王党派の反乱を受けましたし、成立後もバブーフという人が反乱を企てます

外敵の侵入にも悩んでいましたが、ここでは幸運に恵まれます。この政府の軍には、ナポレオン(1769~1821)がいました

-ナポレオン-
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まずは、イタリア遠征(1796~97)でオーストリア・イタリア軍を撃破します。カンポ=フォルミオ条約を結び、これで、第一回対仏大同盟が瓦解します

語呂です
第一回対仏大同盟、処刑で泣くさ(1793)、イタリアで泣くな(1797)

これは、ルイ16世の処刑で結成され、イタリア遠征で終わったことを覚える語呂です

次のナポレオンのターゲットは、エジプトです。ここ当時は、イギリスの権益になってます。今でもそうですが、ここにあるスエズ運河は貿易の最重要拠点です

この運河を通らないで、アフリカ大陸を回って、商品を運んでもいいですが、距離が長すぎるため、輸送費が高くなってしまいます。そのため、スエズ運河は、重要なんです

イギリス-エジプト-インドのラインが、イギリスの富を生み出しています。ここを断てば、相当な打撃があると、ナポレオンは考えたわけです

エジプト遠征(1798~99)が行われます。これに対してイギリスはロシア・オーストリアと第二回対仏大同盟を結成します

ナポレオンがエジプトに専念している間、総裁政府はイタリアに攻め込まれ、せっかく得た領土を失います。ナポレオンは足を引っ張る総裁政府をうっとおしいと思い、ブリュメール18日のクーデタ(1799)をおこします

これは革命暦でいうと、霧月ともいいます。革命暦で聞かれるのは、テルミドールのクーデタの熱月と、これの2つぐらいです。必ず覚えましょう

ナポレオンが作ったのが、3人の統領からなる統領政府です。そこの第一統領は、ナポレオンです。実質の軍事独裁です

ナポレオンはまず、フランス銀行を設立して、お金を掌握します。皆さんも理解できると思いますが、お金を握れば、多くの人に言うことを聞かせることができます

まず金を握るのは、いい選択だったと思います。これで金持ち集団、ブルジョワジーが彼を支持します

次にナポレオンは、ローマ教皇ピウス7世と和解します。これを宗教協約(コンコルダート)といいます。1801年の出来事です

フランス革命は、古い価値観の破壊でしたから、カトリックが排斥され、理性が重視されていました。そのためローマと疎遠になっていたんですね

当時のフランス国民は、ほとんどカトリックですから、教会が否定されたことは、国民に大きな不安を引き起こす面がありました

「内向的な人に、明日から社交的になれ!!」といっても無理ですよね。人の心は、そうそう急激に変われません

なので、和解したわけです。これでカトリックは、フランスで布教活動ができます。しかし、ナポレオンは革命期に没収された財産は、国民のままにしました

双方に利益のある状態を作ったわけです。これで多くのフランス人から、彼は支持されたわけです。第二回愛仏大同盟との戦いも有利に行い、アミアンの和約(1802)を結びます

下ネタ語呂です。すいません…
エジプトいーな、キュ、キュ(1799)パイオツ(1802)、あ~んみあん和約

エジプト遠征の結果できた、この同盟は1802年に瓦解しています。1804年には、ナポレオン法典を成立させ、私有財産の不可侵を宣言し、「もう勝手に領地を没収しないよ」といいます

ナポレオンの功績は、ここまでケチのつけようがないので、さらに自らの権限を強化した第一帝政(1804~1814)を始めます。この時の情景を、ダヴィドが描いていますが、よくテストで聞かれます

-ナポレオンの戴冠式-
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これに黙っていないのが、イギリスです。フランスが、またイギリスに攻撃してくるのは、明らかだからです。そのため1805年第三回対仏大同盟が結成されます

ナポレオンのライバルが、ここで活躍します。それがイギリスのネルソンです。彼は、トラファルガーの海戦で、ナポレオンに勝利します。彼は、エジプト遠征時のナポレオンを封じ込めることにも成功しています

-ネルソン-
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実は、この戦いでネルソンは死亡しますですが、イギリス人にとって、彼は英雄になりました。ロンドンに行けばわかりますが、トラファルガー広場のネルソンのモニュメントは、観光名所になってます

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これは戦勝を記念してできました。もちろんネルソン像は、フランスのほうを向いて、今でもにらみをきかせています

自分も行きましたが、だいぶこの柱、高いです

さすがのナポレオンも、ちょっと海戦で手こずってますねまぁ、イギリスは島国ですから、海洋国家として、確固たる地位がありますからね

日本のような海洋国家も、海軍が強いです

ナポレオンは、イギリスに匹敵する力を蓄えるため、大陸制覇にのりだします。その結果起きたのが、1805年アウステルリッツの戦い(三帝会戦)です

これで、ロシアのアクレクサンデル1世、オーストリアのフランツ2世(神聖ローマ皇帝を兼ねる)を撃破します

フランスは、ドイツにライン同盟という傀儡国家を建設して、1806年に神聖ローマ帝国は滅亡します

講義 part32 -ゲルマン大移動-
http://world-history.blog.jp/archives/2041598.html
※神聖ローマ情報

これで、第三回対仏大同盟も終わりです

同年10月には、イエナの戦いでプロイセンも破ります。これでイギリスを除く主要国家を倒していますから、本丸のイギリスに焦点を絞ります

単純に戦っても勝てませんから、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発表して、イギリスと他国の貿易を禁止します。補給を断つ方向にいったわけです

これは経済活動を止めることですから、イギリスだけでなく、ヨーロッパの国々も苦しみました。ロシアは、その後貿易再開を行うことになります

イエナの戦いのケジメは、1807年ティルジット条約で締結しました。これでプロイセンの持っていたポーランドは、ワルシャワ大公国の名前に変えて、フランスの支配下に入りました

この条約なんですが、テストではヒントに屈辱という言葉が必ずでますナポレオン関連で、「屈辱的な条約何ですか?」となったら、ティルジット条約を選んでくださいね

プロイセンの凄い所は、この敗戦を冷戦に分析します。フランスにあって、自国にないものを考えるわけです。そこで活躍したのが、シュタイン(任1807~08)とハルデンベルク(任1810~22)です

彼らのおかげで、農民解放が進みます。いまだに生産効率の悪い農奴を使っていたことに原因を見つけたわけですね

軍制改革は、シャルンホルスト・グナイゼナウが行いました。相手が戦争の天才、ナポレオンですから、ここ必死です。彼らが考え出したのが、参謀制度や昇進が貴族出身しかなかったことを止めて、実力主義に変更します

ちなみに参謀制度は、有力なアドバイザーを各チームに置くシステムです。これによって、大軍団の動きをよりスムーズに動かすことができるようになりました

教育は、フンボルトに任せます。彼はベルリン大学を作ります。そこの総長がフィヒテです。彼は「ドイツ国民に告ぐ」で、ドイツ人として心構えを熱く語ります。国を一致団結させないと、とてもフランスに勝てないからです

これは、フランスによって、ドイツがなくなるとう危機感から来ています。危機感は大切です。これがないと、国について考えることがありません

日本人には、これが決定的に足りないと思います。以前にも言いましたが、これを感じる第一歩は、海外になるべく早くでることだと思います

自分の国が、どれだけ恵まれているか、すぐに理解できると思います

話を戻します。とにかくプロイセンの試みは、時間をかけて、ジワジワ成果をあげていきます。しかし、結果はもう少し先になります

その間にフランスの逆鱗に触れたのが、先ほど言ったロシアです。ロシアは、穀物取引を再開しないと、厳しい状況なので、大陸封鎖令を無視します

1812年ロシア(モスクワ)遠征が行われます。ココで、フランスはまさかの敗北を喫します。ロシアの戦術である焦土作戦にやられます

フランス軍の長所は、補給を占領した町で調達することにあります。これによって、雷のようなスピードで、相手が準備する前に、攻め込むことができます

しかし、焦土作戦は、占領地に食糧などをまったく残さないで、燃やしてしまうことです。さらに拠点は、フランスから見て、さらに奥地に移していきます。ロシアは寒いですから、食べ物ない、寒いで、フランス軍の士気は劇的に下がっていきました

結果、フランスは、ボコボコにされます。実は日本も同じミスを、第二次世界大戦でしてます。当時の首都である南京を落としても、中国軍は拠点を奥地に移動して、徹底抗戦しました

これで負けるわけです

戦争において、補給問題は、本当に重要だということを理解しておいてください

ここが絶好のチャンスとみた各国は、第四回対仏大同盟(1813~14)を結成します。ライプチヒの戦い(諸国民戦争)で、プロイセン・オーストリア・ロシア連合軍は勝利して、パリを陥落させます

これでナポレオンは、エルバ島に島流しの刑です

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比較的、フランスに近いこともあり、この島から抜け出して、ナポレオンは再度戦いを挑みますが、1815年ワーテルローの戦いで、イギリスのウェリントンに完全敗北します

これで、今度は遠いセントヘレナに島流しです

-セントヘレナ-
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以上が、ナポレオンの生涯です。彼は島関連の質問が、けっこうあります。コルシカ島生まれ、エルバ島の島流し、最後はセントヘレナです

コルシカ島⇒エルバ島⇒セントヘレナ

またフランス革命は、政府の名前がよくかわりましたね

国民議会⇒立法議会⇒国民公会⇒総裁政府⇒統領政府⇒第一帝政

まずは、政府の名前をしっかり覚えて、ロベスピエールはどこだったか、イタリア遠征はいつの時かと、じっくり肉付けしていってください。このあたり、けっこう出題されますよ

次回は、フランスの戦後処理を話し合うウィーン会議に入ります

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フランス革命に入ります。ココ、面白いんですが、日本の幕末と一緒で、状況が目まぐるしく変わるので、苦手な人もいます

これは、リーダーになる人が、短期で入れ替わるのが原因です。例えば、新撰組というのがありますが、正直彼らは。時代の流れを理解できていません

一時期、持てはやされましたが、結局は反乱軍扱いです

さてフランスの話です。フランスはルイ14世(位1643~1715)以来、湯水のようにお金を使っています。かつ、その投資に見合う利益はありませんでした

そしてアンシャン=レジーム(旧制度)というものが、旧態依然と残っています。時代遅れのものということです。代表例としては、三部会です。1302年フィリップ4世が作ったものでしたね

■講義 part37 -封建社会の崩壊と十字軍以後の主要国家-
http://world-history.blog.jp/archives/2423381.html
※三部会情報

三部会は、以下の身分で構成されます
第一身分…聖職者
第二身分…貴族
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-----
第三身分…平民



ポイントは、人口の2%を占める聖職者と貴族が、免税特権を持っていることです。なので、彼らは特権身分ともいわれます。第三身分とは根本的に違います

そのため、大きな隔たりがそこにはあります

当時は、イギリスで産業革命も起きている時代です。商売に秀でた人が、世の中を動かすようになっています。聖職者・貴族ともに、そんなことはできません

しかし、フランス国土の40%は彼らが所有していました。今風にいえば、ダメ上司が、プライドだけ一人前で居座っている状態です

そりゃ、戦争にも勝てません

聖職者の中にも、現状の矛盾に気づいているシェイエスは、「第三身分とは何か」という本で、特権身分を批判しています

まずは財政改革が試みられました。主導者は、重農主義者のテュルゴー、銀行家のネッケルです。これが、見事に失敗しますw

彼らは当時の聖域、免税特権の廃止に着手したことで、特権身分の怒りを買い、クビにされます。例えば、今の日本なら、米の改革に手をつけたら、全農が黙っていないのと一緒です

-農協離れ加速、利権に風穴か、福井県の地域農協が全農に反旗- (ニュース)
http://diamond.jp/articles/-/15043

日本のお坊さんも、いただくお布施に対して、課税がありません。ココに税金をかけると、けっこう揉めだすと思います

また、三部会の構造的に、大多数の意見は通りません。身分別議決法を採用しているからです。これは、各身分一票のシステムです

三部会の内、特権身分は2票持ち、一般人は第三身分の1票しかありません。議会でいくら改革案をだしても。必ず否決されるわけですね

第三身分は、「やってられん!!」ということで、新しい議会である国民議会を設立します。「新しい憲法を作るまで止めないぞ」と決意表明を行います。これを球戯場(テニスコート)の誓いといいます

-球戯場(テニスコート)の誓い-
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ちなみに、この絵の作者はダヴィドです。フランス革命関連の絵は、だいたい彼の絵が出題されるので、名前を覚えておきましょう

この当時のフランスの統治者は、ルイ16世(位1774~92)とマリ=アントワネットです

-ルイ16世-
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-マリ=アントワネット-
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なかなか改革が進まないことにパリ市民もキレて、1789年7月14日バスティーユ牢獄襲撃を行います。これが、フランス革命の始まりです。時々、日にちまで聞かれるので、頑張って覚えましょう。もちろん、現在のフランスの祝日に、この日はなります

かなりの大事になったので、ルイ16世は、封建的特権の廃止を決定します。これを受けて、国民議会は、人権宣言を発表します

起草者の一人には、貴族のラ=ファイエットがいました。彼は、アメリカ独立戦争にも参加しています

国民議会は、第三身分が主流ですが、一部の貴族や聖職者も参加していました。他に有名な貴族は、ミラボーです。彼は、かなりのキーパーソンでした。国王にも繋がっていて、国民議会の情報を流していました

国王の恐れは、国民の怒りが自分に向かってくることです。ミラボーのおかげで、国王は安心して、推移を見守れました

実際、1789年の10月5日には、ヴェルサイユ行進が起きて、ヴェルサイユ宮殿⇒テュイルリー宮殿に国王夫妻を強制移動させれています。テュイルリー宮殿は、パリにありました。パリとヴェルサイユは微妙に離れています

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ちなみにヴェルサイユ行進の起きた原因は、穀物価格の高騰です。「自分たちの現状を知ってくれ」というアピールです

ルイ16世が、命の危険を感じるのもわかります。そして運悪く、91年4月にミラボーが急死します国王はパニックだったと思います。国民議会の動向がわかりませんからね。

ついに彼らは、オーストリアへの亡命作戦を決行します。マリ=アントワネットは、オーストリアのマリア=テレジアの娘だったので、そのツテを頼ったわけです

■講義 part54 -啓蒙専制君主(プロイセン・オーストリア)-
http://world-history.blog.jp/archives/4180347.html
※マリア=テレジア情報

これをヴァレンヌ逃亡事件といいます。1791年6月20日のことです。「この緊急事態に、国王が逃げるとはどういうことだ!!」ということで、国民の信頼度はゼロになります国王は、軟禁状態になります

これに危機感を覚えたのが、オーストリアなどの王政国家です。革命の火の粉が、自分の国に来てもおかしくありません

そのため、1791年8月27日にピルニッツ宣言をだして、フランスへの干渉を開始します。このような中で1791年憲法が制定され、立法議会が誕生します

この議会内の派閥を紹介します

フイヤン派…貴族・金持ち中心の立憲王政派。ラ=ファイエットバルナーヴが中心
ジロンド派…穏健共和派。商工業ブルジョワ中心の派閥。
※ブルジョワは、フランス語で資本家のことです
ジャコバン派…急進共和派。山岳派ともいわれる。下層市民中心の派閥。ロベスピエールが中心

フイヤン派の立憲王政の夢は、ルイ16世の逃亡未遂によって、頓挫しています。そのため、ジロンド派が実権を握ります

ジロンド派は、干渉してきているオーストリアと戦争をしますが、連戦連敗します。そのことによって、信頼度が下がります

そこで立ち上がったのが、国民が自主的に集まった義勇軍です。ここで、自分たちを鼓舞するラ=マルセイエーズという歌も生まれます。今のフランス国歌ですね

この義勇軍が支持していたのが、ジャコバン派です。ジロンド⇒ジャコバンへと実権が移行するわけです。それが決定的になったのが、1792年八月十日事件です

ジャコバン派はテュイルリー宮殿に急襲して、国王夫妻をタンプル塔に幽閉します。そして王権の停止を宣言します

ジャコバン派が主流になって設立したのが、国民公会です。男子普通選挙によって成り立つ議会です。別名、第一共和政といいます

どんどん王の立場が危なくなっているので、フランス国内にオーストリア・プロイセン連合軍が侵入してきます

ヴァルミーの戦いが起きますが、ここで義勇軍が、勝利します。正直、凄いことだと思います。つい最近できたばかりの寄せ合い所帯が、よく勝ったと思います。やはり士気の高さが、ぜんぜん違うんだと思います

今まで国は、王や貴族のものでしたが、それが国民のものになろうとしています。自分たちが主役になれるチャンスです。これを失いたくない気持ちは、とてつもないと思います

プロイセン軍に従軍していたゲーテはこう言いました「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」

ゲーテは、文化史でだいぶ聞かれるので、要チェックです

国民公会は、熱に取りつかれていますから、1793年についにルイ16世の処刑を行います。自分たちの立場の正しさを見せしめるために、王を殺しました。ブルボン朝の終わりが来ましたね

私の意見としては、そこまでしなくて良いだろうと思っています。フランス始まって以来の国民が主役の国家に、夢中だったのだと思います

これに呼応して、外国が黙っていません。この処刑ブームのようなものが、自国で発生したら、混乱しかもたらしません

イギリスのピット首相が、各国を集めて、第一回対仏大同盟を結成します

国民公会側は、徴兵制実施します。これに反対して、ヴァンデーの農民反乱が起きましたが、これを鎮圧します

国民公会の政府にあたる機関を公安委員会といいますが、ここの権力をロベスピエールが握ります

-ロベスピエール-
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顔だけ見ると真面目そうですが、けっこうヤバイ人ですw警察機関である保安委員会と、裁判所である革命裁判所を使って、自分と違う意見の人を次々殺してきます

ちょっと北朝鮮みたいな感じですね

ジャコバン派の中で、もっとも過激な集団を山岳派といいますが、そこに派閥の性格がハッキリでていますね

彼らのした政治は、恐怖政治といわれています。同じ仲間だったマラーダントンも排除されています。もうお構いなしです

国民公会の支持基盤は、貧しい人ですから、ロベスピエールは彼らに見返りを与えます。それが、封建地代の無償廃止です

農民は、税金を払わなくていいってことです

人間は現金なもので、これで革命のモチベーションは一気に低下します大多数の人が目的を達成して、満足したわけですね

となると、ロベスピエールがウザいという気持ちだけが残ります。国民公会は、1793年憲法によって、次々に改革を行います

代表的なものをあげます

最高価格令…貧しい人たちのために商品の価格に上限を設定します。
※これ経済的にダメです。価格は需要と供給のバランスによって決まるからです。さらに商売人から不評です。後に廃止です
革命暦…新しい暦を設定します。これも不評で、後に廃止されます。
メートル法…これ、今もわれわれ使ってますね。1メートル、2メートル等の尺度を決めました。イイモノですね
理性の崇拝…キリスト教を否定して、合理的に考える理性を崇拝しろと強制します。ある意味、宗教的で、本来の理性の定義から逸脱そています

これだけ見ても、改革がだなと思います

この他に、当時普及したもので、ギロチンというのがあります。ルイ16世の処刑ですでに使用されています。それまでは、死刑執行人が斧なので殺していましたが、失敗することが多く、必ず処刑できる機械が求められていました

人権的な配慮からギロチンが考案されました

-ルイ16世の処刑-
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今の私たちが見ると、ギロチンは十分恐いですw

1794年の7月27日、あまりに改革を急ぎすぎたロベスピエールは、クーデタにあいます。これをテルミドール(9日)のクーデタといいます

この言い方は、革命暦の言い方で、熱月ともいいます。7月ですから、熱い月。わかる気がします。フランスは、またちょっと混乱します

カリスマが必要ですね。他国の侵略もまだ終わっていません。そう、ナポレオンの登場です

次回、ナポレオン行きます

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