世界史サロン

元教師・今社長がおくる世界史講義と、ニュースを世界史で読み解くブログ

カテゴリ: トルコ

さて、久々のイスラムですオスマン帝国(1299~1922)は、一時期はおそらく世界最強といっても過言ではなかったんですが、第2次ウィーン包囲(1683)失敗を最後に下降線を辿ります

■講義 part41 -ティムール・サファヴィー・オスマン朝-
http://world-history.blog.jp/archives/2590485.html

さらにはナポレオンによるエジプト占領(1798~99)は、ナショナリズムを喚起しました。これはオスマン帝国にとって、けっこうな泣き所です広大な地域を支配していますから、オスマン帝国はトルコ人を頂点にする多民族国家です

そこで占領された他民族が、「自分の国を持ちたい」という思いから、反乱をおこしますすでに触れてますが、ギリシア人やエジプト人が反乱を起こします

■講義 part64 -ラテンアメリカ諸国の独立とギリシア独立戦争-
http://world-history.blog.jp/archives/6006451.html
※ギリシア独立戦争

■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※エジプト=トルコ戦争

これらの反乱でオスマン帝国のシステムは、すでに老朽化していることが明らかになりました。もちろんオスマンの王様は、改善に乗り出します

この際の反対派は、イェニチェリです。イェニチェリは、キリスト教系の奴隷でしたが、王直属の軍のため、成果をあげたものは、凄い報奨をもらえてました

オスマン自身は、西洋化を進めないと、ドンドン領土が減っていく恐怖がありましたが、旧制度の廃止で職を失う恐れのあったイェニチェリが抵抗するわけです

28代目のセリム3世(在位1789~1807)なんかは、西洋式軍隊を模索しましたが、イェニチェリに暗殺されています

なんとかイェニチェリ軍団の解散(1826)に漕ぎ着けたのは、30代目のマフムト2世(1808~39)です

-マフムト2世-
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彼の時に、ギリシア独立戦争(1821~29)、第1回エジプト=トルコ戦争(1831~33)、第2回エジプト=トルコ戦争(1839~40)等起きてますから、危機感は相当だったと思います

マフムト2世以降も改革は続きます。ここから続く1839~76年の改革をタンジマート(恩恵改革)といいます

これは31代目のアブデュル=メジト1世(在位1839~61)が、ギュルハネ勅令を発布してスタートします

彼は、クリミア戦争期(1853~56)のスルタンですね

34代目のアブデュル=ハミト2世(在位1876~1909)は、宰相にミドハト=パシャを登用して改革をすすめます。西洋の根幹たる憲法に着目し、ミドハト憲法(1876)を制定しますが、これはアジア初の憲法であり、二院制責任内閣制を備えていましたが、ロシア=トルコ戦争(1877~88)開始をきっかけに運用を停止しました

つまり改革はうまくいかず、オスマン帝国はただ死を待つだけの存在なわけですこういうのを見るにつけ、日本はよく明治維新(1868)が達成できたと思います

次回も、イランなどの中東系を説明します

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今回あげるティムール・サファヴィー・オスマン朝は、モンゴル帝国衰退後にでてきたイスラム王朝です

まずは、ティムール朝(1370~1507)です。王朝名通り、創始者はティムールです。チャガタイ=ハンから独立して成立してます

都は、サマルカンドです

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慶応とか中央アジア史をよくだします。中央アジア史はマニアックですが、有名大では、ポツポツ聞かれます。サマルカンドは、中央アジアで有名な都です。場所含めて、覚えましょうね

彼らは当時イケイケだったオスマン帝国をアンカラの戦い(1402)で破ってます

語呂です
意志をつ(1402)ないだアンカラの戦い

さらにティムールは、中国の明まで征服する野心がありました。実際明に軍を派遣する途中で病死しています

3代シャー=ルフ(位1409~47)は、オスマンや明と和平路線で、文芸を保護したことで有名です。また都をヘラートに遷都しています

4代ウルグ=ベク(位1447~49)は、天文台を作ったことがよく聞かれます。この国は、彼以後衰退し、ウズベク族に滅ぼされます

ティムールの血をひく、ムガル帝国のアイバクは、ウズベク族が強かったので、インド側に攻撃をシフトして、自分の国を作ってます

これ前回、話ましたね

■講義 part40 -ムガル帝国-
http://world-history.blog.jp/archives/2517568.html

そのウズベク族を追い払ってイランに建国したのが、サファヴィー朝(1501~1737)です。ウズベク族を挟んでティムールと入れ替わった形で登場します。シーア派の王朝です

ファーティマ・ブワイフ・サファヴィー朝あたりは、シーア派の王朝について聞かれる問題多いです

都は、初期がタブリーズで、後にイスファハーンです

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初代はイスマーイール1世です。彼は王の称号として、シャーを使用します

最盛期は、5代アッバース1世(位1587~1629)です。彼の時、イスファハーンに遷都し、「イスファハーンは、世界の半分」といわれる美しい都を作りました

彼の凄い所は、当時強かったホルトガルが占拠していたホルムズ島を1622年に取り返したところです

彼以後はなだらかに弱体化し、アフガン人によって決定的ダメージを受け、滅びます

サファヴィー朝は、ウズベク人に始まり、アフガン人に終わるです

最後にえらい長く続いたオスマン帝国の話です。この王朝は、1299~1922年まで続きます。世界史やっていると1922年が最近に思えてしまいます。もう100年ぐらい前ですね

この王朝で覚える王様は、多いです

建国者は、オスマン1世です。ルーム=セルジューク朝から独立します
都は、ブルサです。オスマン帝国でしか聞かれない都です
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次のムラト1世は、バルカン半島に進出し、アドリアノープル(エディルネ)を占拠後、そこに遷都します
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またコソヴォの戦いに勝利し、ドナウ川以南の土地を獲得します
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さらに4代バヤジット1世は、ニコポリスの戦い(1396)にハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ連合軍を破ります。ジギスムントは神聖ローマ皇帝でもあり、1414年にコンスタンツ公会議を開催してましたね

■講義 part36 -中世都市とキリスト教会の衰退-
http://world-history.blog.jp/archives/2370887.html

とにかくオスマンは、イケイケですね

ここでオスマン帝国を揺るがす事件が起きますアンカラの戦い(1402)でティムールに負けて、バヤジット1世が捕虜になり、そのまま病死します

ここから浮上して、また力を取り戻したのは、メフメト2世です。彼が聞かれることは、1453年にビザンツ帝国を滅ぼしたことですね

海上封鎖して軍艦を通れなくてしたビザンツに対し、丸太で道を作り、船を山を通して移動させて攻撃したのは有名な話です

これキッカケで、コンスタンティノープル⇒イスタンブルに名称変更がありました

セリム1世(位1512~20)は、1517年にエジプトで勢力のあったマムルーク朝を滅ぼしています。また世俗の頂点であるスルタンと宗教の頂点カリフをあわせたスルタン=カリフ制を始めています

つまり、めっちゃ強いってことです

こんな強いオスマンの最盛期が、スレイマン1世(位1520~66)です。この人がオスマンで一番聞かれます。彼はスレイマン=モスクという礼拝堂も作ってます
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イスタンブルにあります。ハギア=ソフィア聖堂と同じ場所にありますね。形もにてますから、区別できるようにしてくださいね

まずモハーチの戦い(1526)で、ハンガリー王ラヨショ2世を倒します。結果、ハンガリーはオスマン領になります。モハーチの戦いは、ムガル帝国成立と同じ年ですね

同時に覚えて、暗記の負担を減らしましょう~

さらにスレイマン1世は北上し、1529年ウィーン包囲を行いました
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語呂です
ウィーンをこづく(1529)、スレイマン1世

さらにプレヴェザの海戦で、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍を倒し、地中海を制覇します

語呂です
以後見は(1538)しない、プレヴェザの海戦

スレイマン1世は、ヴァロワ朝のフランソワ1世とは友好関係を築き、同盟を結んでいます。フランスには特別待遇のカピチュレーションを与えています

オスマンの領土拡大は、ウィーンで留まり、フランスと手打ちにしたと思います

ここからジワジワ勢力が減退します。1571年レパントの海戦でスペインに負けます
1683年の2回目のウィーン包囲も失敗し、1699年にはカルロヴィッツ条約で、ハンガリーをオーストリアに渡します

まさに下り坂です。ここからオスマンはやられまくりです

最後にオスマンの政策を少し話ます。オスマンはヨーロッパに領土がありますから、彼ら白人の扱いをいろいろ考えます。ヨーロッパ人のみで作ったイェニチェリという軍隊は凄い強かったです

これは、子供の頃からマインドコントロールして、マシンにような戦士にしています。またキリスト教の共同体をミッレトといい、宗教の自由を与えています

オスマンでは、メフメト2世・セリム1世・スレイマン1世最低限覚えてください

ホントどれも聞かれます

都もブルサ⇒アドリアノープル⇒イスタンブルと移ってます

以上です

次回は、朝鮮史いきましょう

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