世界史サロン

元教師がおくる世界史講義と、ニュースを世界史で読み解くブログ

カテゴリ: ドイツ

今日、フィリピンは祝日なので、更新します

■ドイツ
ドイツの帝国主義行きましょう

正直、ココからドイツは泥沼ですまず私も個人的に好きなビスマルクが、退陣します(1890)その後に出てくるのが、ヴィルヘルム2世(在位1888~1918)です

■講義 part68 -ドイツの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6184102.html
※ビスマルク情報

自分は、結果論で考えます。ヴィルヘルム2世を擁護する人もいますが、彼はドイツを追い込んだ責任者であり、後のヒトラーを生むトリガーの役割を果たしています

なぜ、こうなるかというと、彼が首相でなく、国王だった点にあります。この場合、国家=国王になります。行き着く先は、拡大路線です

これはイギリスやロシアとの衝突と同じ言葉です…

-ヴィルヘルム2世-
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※By Wikipedia

私は、マックス=ヴェーバー「職業としての政治」から、分析すると、ヴィルヘルム2世は結果責任を果たしていません

※ちなみに、この本は受験では聞かれません。プロテスタントのマインドと資本主義を研究した「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のほうが聞かれます

正直、国をまとめる人は「そういう気持ちでやってなかった…」と言い訳がましいことを言うべきでありません。すべては、結果で判断されるべきです


彼には、理想主義者の面が強いです。それが顕著に現れたのが、社会主義者鎮圧法の廃止です(1890)。これで社会主義勢力が、強大な力を持ちます

ビスマルクは、この勢力を危険視していまいた。国家運営において、不安定要素と捉えていたわけです。彼らのうちの大半は、労働者の立場にたって行動してますから、悪くはないと思います

ただ、無政府主義者のように、国家転覆を計る勢力もいたので、コントロールが難しい勢力です。インターナショナルのように国家を越えて連結しますからね

これは、少なからず今の日本も抱えている問題です。機会があれば、別枠で説明します。社会主義については、一言で語れない一長一短があります

■講義 part77 -19世紀の欧米文化史④(探検・国際的諸運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/8659280.html
※インターナショナル情報

少なくとも、ヴィルヘルム2世の選択は、社会主義勢力を爆発的に増やしました。まず有力な組織としてはラサール率いる全ドイツ労働者協会(ラサール派)とベーベル率いる社会民主労働者党(アイゼナハ派)があります

1875年、これが合併して、ゴータ綱領をもとに、ドイツ社会主義労働者党が結成されます。これに呼応しての社会主義者鎮圧法(1878~90)です

これで歯止めをかけようとしていましたが、これが外れます

1891年、エルフルト綱領に基づき、ドイツ社会主義労働者党はドイツ社会民主党に改称されます。この政党は、現在のドイツでも有力な政党です

全ドイツ労働者協会(ラサール派) + 社会民主労働者党(アイゼナハ派) = ドイツ社会主義労働者党 ⇒ ドイツ社会民主党

今のメルケル首相(在任2005~)の前の、シュレーダー(在任1998~2005)はドイツ社会民主党出身です

-シュレーダー-
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次回、帝国主義時代(ロシア)行きます

それでは、ドイツの統一を話しましょう

まずは、復習です。ドイツは長く神聖ローマ帝国(962~1806)が支配し、領邦国家といわれる小さい国の結集した連合国家みたいなものでした

他の絶対主義の国のように1つにまとまっていないので、ヨーロッパで発言権はあまりありませんでした。そこで主導的立場になりたかったのが、プロイセンオーストリアです

■講義 part54 -啓蒙専制君主(プロイセン・オーストリア)-
http://world-history.blog.jp/archives/4180347.html

ナポレオンによって、神聖ローマを滅ぼされ、まず主導権をとったのが、オーストリアです。ウィーン議定書覚えてますか?

ドイツ連邦の盟主は、オーストリアでしたね。まぁ、メッテルニヒがバリバリ活躍してますから、プロイセンは勝てません。ここまでは勉強したと思います

■講義 part63 -ウィーン会議-
http://world-history.blog.jp/archives/5889961.html
※ウィーン議定書情報

ここで、プロイセンはドイツ関税同盟(1834)を結成して、巻き返しをはかります。経済学者リストの助言に基づいています。保護貿易主義というやつです

2種類の貿易があって、それは自由貿易と保護貿易です。これは対立する考え方です。全体で見ると、長期的には自由貿易は正しいのですが、自国の利益(※これをナショナル・インタレスト=国益といいます)を考えると、軟弱な産業を保護して、成熟するまで育てる保護貿易も悪くはありません

ちなみに自由貿易は、政府など関与せず、好きにさせれば良いという考え方です

プロイセンは、新興国ですから、イギリスなんかと真っ向勝負したら砕け散るだけです。だから、プロイセンは保護貿易を採用し、自国が強くなるのを待つわけです。イタリアと同じ、弱小国の苦しみです…

次にプロイセンに来たチャンスは、二月革命(1848)です。ここでフランクフルト国民議会を開催し、フリードリヒ=ヴィルヘルム4世をドイツ皇帝にしようとしますが、失敗します

■講義 part65 -七月革命・二月革命(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/6038154.html
※二月革命情報

ドイツ統一は、プロイセンが軸の小ドイツ主義とオーストリアが軸の大ドイツ主義で揉めます。プロイセンは、二月革命のドサクサでも、ドイツを自分のものにできませんでした

オーストリアが設定したウィーン体制は崩壊し、弱体化した時にさえ、自分の意見が通らなかったのです。ここで、プロイセンはじっくり軍事力を蓄える道を選択します

私の中では、世界史上5本の指に入る政治家ビスマルク(在任1862~90)が、ここで登場します

-ビスマルク-
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また当時の国王も賢明で、ヴィルヘルム1世(在位1861~88)といいますが、彼は国王でありながら、ビスマルクの好きに政治をさせました

この二人三脚で話は、進みます。ビスマルクが採用したのが鉄血政策です。鉄=武器、血=兵士のことです。彼の発言は、こんな感じです

「現在の大問題は言論や多数決でなく、鉄と血によってのみ解決される」

弱いままだと、誰も意見を聞かないということです。そのため軍拡を宣言します。これは脆弱な海軍しかないベトナムが、ギャーギャー騒いでも、結局中国のゴリ押しが通る世の中を見れば、理解できると思います

-ASEAN首脳会議 南シナ海、中国へ圧力…G20に代表、支持訴え (ニュース)-

産経ニュース 2014.5.12 00:17
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140511/asi14051120340003-n1.htm

ASEANは、東南アジアの連合体です。全部あわせても、たぶん中国に勝てません。なので、いくら言っても、中国は無視すると思います

プロイセンは力を蓄え、オーストリアとの戦争の準備をします。オーストリアと戦争するために、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題にオーストリアを巻き込みます

当時、ドイツとデンマークで国境地帯で揉めていました。そこがシュレスヴィヒ・ホルシュタインです

-シュレスヴィヒ・ホルシュタイン-
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プロイセンもオーストリアもドイツ人ですから、ここでは共闘できます。デンマーク戦争(1864)で、プロイセン・オーストリアは、デンマークを倒します

結果、シュレスヴィヒをプロイセンが、ホルシュタインをオーストリアが管理することになります。この地域を最終的にどちらのものにするのか、ケンカが始まります

これビスマルクが仕組んだ罠だといわれています。彼は、ホルシュタイン地区へ、しばしば軍を侵入させて挑発します。これにオーストリアは、戦争を決意します

この時、プロイセンには軍事の天才モルトケがいました。彼はプロイセンの軍事担当です。プロイセンは戦争を想定して、準備をしていました。戦争に勝つために必要なのは、兵站(へいたん)です。あまり聞かない言葉だと思いますが、戦争学では常識の言葉です

この言葉は簡単にいうと、戦争を継続するために必要な補給のことです。この兵站を確保することで、戦争が圧倒的に有利になります

たとえばナポレオンがロシアで失敗したのは、焦土作戦によって、補給ができなかったことにありましたね

■講義 part62 -総裁政府とナポレオン-
http://world-history.blog.jp/archives/5437815.html
※焦土作戦情報

モルトケがしたことは、鉄道電信の整備です。これをオーストリア国境付近までひきます。電信は通信設備のことですね。鉄道によって物資を、電信によって情報を素早く渡すことができます。兵站を確保したわけですね

こんなことは、戦うことを前提にしないとできません

そして、この戦略をオーストリアは知りません。プロイセン=オーストリア(普墺)戦争(1866)が開戦し、サドヴァの戦いで大勝し、オーストリアは雪崩をうって敗れます。この戦争は、七週間戦争ともいいます

プロイセンは、ドイツ連邦を解体し、プロイセンを盟主した北ドイツ連邦(1867~71)結成に成功します。シュレスヴィヒ・ホルシュタインもプロイセンのものになります

オーストリアは、この後ドイツを諦めて、東ヨーロッパの支配に重点を置きます。オーストリア=ハンガリー(二重)帝国に改名します

しかし、プロイセンはオーストリアをあまり追い込みませんでした。本来なら賠償金やもっと領土の割譲を求めますが、それをしませんでした。理由は、フランスです。ここと対峙することを考えると、敵は増やせません

イタリアの時も、フランスはちょっかいだしていましたね。フランスはデカくなる国を牽制します。1868年にスペイン王位継承問題でも、プロイセンの王族レオポルトが一時即位することが決定しましたが、それをフランスは取り消しにしました

この時の状況説明を、ビスマルクはあえて過激にプロイセンに説明します。これをエムス電報事件といいます。これでフランス憎しの炎がプロイセンに蔓延します。フランスもそこまでの発言をしていないので、怒ります。これで戦争です

もちろんプロイセンは、フランスと戦争する準備をしっかりしていました。またフランス自身は、新興国なんかに負けるわけないという過信がありました。すでに勝負は決まっています

プロイセン=フランス(普仏)戦争(1870)は、プロイセンの大勝利に終わります。フランクフルト講和条約、これでフランス屈指の工業地帯アルザス=ロレーヌをゲットし、賠償金50億フランももらいます

さらに北ドイツ連邦を格上げしたドイツ帝国(1871~1918)の建国を、ヴェルサイユ宮殿で宣言します。

-ドイツ帝国の宣言-
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ドイツがプロイセンのものになる流れは以下です
ドイツ連邦⇒ドイツ関税同盟⇒北ドイツ連邦⇒ドイツ帝国

順番の並べ替え問題もでますから、しっかり覚えましょう。これにフランクフルト国民議会を混ぜるパターンもあります

他国の建国宣言をヴェルサイユ宮殿でされるほど屈辱はないと思います。ビスマルク自身もそれを理解しています。そのため、今後はいかにフランスを孤立させるかに力を注ぎます

孤立化を促進させるのは同盟です。日本が米国と仲良くしているのは、間違いなく中国を孤立化させるためです。ビスマルクは、恩を売っていたオーストリア、さらにロシアを誘って三帝同盟(1873)を結成します

これは、ロシアとオーストリアがバルカン半島の領有をめぐって、揉めだした結果、崩壊します。次に結成した同盟は三国同盟(1882)です。ここにはイタリアを誘いました
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一旦離れましたが、とにかくビスマルクは、フランスとロシアが手を組むことを恐れています。挟み撃ちという最悪の事態を想定するからです

ドイツはそのため、ロシアと再度条約を結びます。それが再保証条約(1887)です。これによって、フランスの孤立化に成功します

この状態が維持される限り、ドイツは安泰です

これだけやっただけでも凄いですが、ビスマルクは同時に国内も整備していました。まずドイツはプロテスタントの国のため、カトリックを弾圧していました。これには中央党というカトリック集団が反発します。これを文化闘争(1871~80)といいます。宗教集団は強い結束がありますから、ビスマルクはここの弾圧は、次第に止めていきます

彼の経済政策は、保護政策です。新興国ですから、「ヨーイ、ドン!!」で戦えません。なので、自国の会社を特に産業資本家とユンカーを助けます

ユンカーは、地主さんのことです。以前にも触れています

■講義 part54 -啓蒙専制君主(プロイセン・オーストリア)-
http://world-history.blog.jp/archives/4180347.html
※ユンカー情報

これによってクルップなんていう兵器会社は急成長します。成長の陰では、だいたい労働者が犠牲になります。社会主義勢力が増えるわけですね

社会主義者の中には、皇帝を狙撃して、不満を訴える人もいましたから、ビスマルクは社会主義者鎮圧(1878)を制定しました。これによって弾圧されたのが、ドイツ社会主義労働者党です。めっちゃ長い名前ですが、めっちゃでます。覚えましょう

こんな感じで合併してできた集団です
全ドイツ労働者同盟(ラサール派)社会民主労働党(アイゼナハ派)=ドイツ社会主義労働者党

ビスマルクは、社会主義運動には細心の注意を払います。基本大多数は、労働者ですから、一歩間違うと、自分が退陣することになります

彼がやったことが保険の整備です
疾病保険制度(1883)
災害保険制度(1884)
養老保険制度(1889)


「皆さん、我が政府は国民のことを考えてますから、社会主義に騙されないでください」というのが彼の主張です。これによって団結の流れを削ぎます。これを「アメとムチ」の政策といいます

彼が内政・外政ともに一流なのがわかりますね。彼は過去の人々の失敗や成功から学んで、未来を見つめた希有な人だったと思います。最後に彼の言葉を紹介します。これをできていない人は、凄い多いと思います

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

これ、試験にはでない言葉ですが、俺は大好きです

次回は、フランスの第二帝政いきます

さて、イギリスのように議会主役にして国をまとめる方法を前々回学びましたが、王様が賢くなることで国をまとめようという考えも生まれました

それが、啓蒙専制君主です

この考えの発案者が、フランスのヴォルテールです。この人は、文化史で激聞かれるので必ず覚えましょう簡単にいうと、理性によって国をまとめようという発想です

当時は、迷信が信じてられていた世界です。王の感情によって、人の命は紙くずのように捨てられていました。感情による判断を避け、賢く行動しましょうというのが理性であり、啓蒙思想です

啓蒙思想の影響を受けた人が、啓蒙専制君主です

-ヴォルテール-
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代表的な人は、プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世、ロシアのエカチェリーナ2世です

プロイセンは、ドイツにできた新興国家です。始まりはドイツ騎士団です。この騎士団領が、神聖ローマの名門ブランデルブルク選帝侯国と合併します。ここのホーエンツォレルン家が、多くの優秀な王を輩出していきます

■講義 part35 -十字軍-
http://world-history.blog.jp/archives/2362950.html
※ドイツ騎士団

■講義 part37 -封建社会の崩壊と十字軍以後の主要国家-
http://world-history.blog.jp/archives/2423381.html
※ブランデルブルク選帝侯国

フリードリヒ1世(位1701~13)の時、スペイン継承戦争で武勲をあげ、プロイセンは王国になります。赤ひげといわれ、十字軍に参戦した神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(位1152~90)とまったく同名なので、注意です

フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位1713~40)は、軍隊王といわれるように、軍隊を整備しました。で、一番聞かれるのが、フリードリヒ2世(位1740~86)です。彼は、啓蒙専制君主ですね

彼は「君主は国家第一の僕」といい、国家の拡大に尽力しました。この言葉、テストにでます記憶しておいてください

-フリードリヒ2世-
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これも十字軍時代の人に同じ名前の人がいるので注意です。このフリードリヒ2世が、フランスとオーストリアの対立をうまく利用して、領土を獲得します

それが、オーストリア継承戦争(1740~48)です

語呂です
なじれ(1740)、テレジア。世は(48)あきまーへん(アーヘン和約)

この戦争は、オーストリア・ハプスブルク家のマリア=テレジアが、神聖ローマ皇帝に即位する際、ブルボン家のフランスが反対してたことで勃発しています。下画像の右のおばちゃんです。若い時はカワイイです

-マリア=テレジア-
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-若かりし、マリア=テレジア-
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彼女は、16人の子供を産んでます。馬力がありますねその15番目の子供が、マリ=アントワネットです。フランス革命時の悲劇の女王ですね

よくあるブルボン家とハプスブルク家のケンカですね。これにフリードリヒ2世が、フランス側で参戦します。プロイセンはこの戦争で、工業と鉱業で有名なシュレジエンをゲットします

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マリア=テレジアは、神聖ローマ皇帝に即位できましたが、プロイセンに領土が奪われたのが納得できていませんでした。そのため彼女は、宿敵フランスと同盟を結びます。これを外交革命といいます

そしてリベンジマッチを仕掛けます。それが、七年戦争(1756~63)です。

語呂です
いーなコロコロ(1756)、七年戦争

ここでプロイセンは、最大のピンチです。フランス・オーストリア、さらにロシアまでを敵に回していますからね。イギリスと同盟を結び、先制攻撃を仕掛けましたが、終始劣勢でした

フリードリヒ2世は確かに優秀でしたが、幸運もありました。まずロシアの王が亡くなり、親プロイセンの王が新たに即位します。またイギリスが、フランスとの植民地争いに勝利します

これで、オーストリアとプロイセンの単独の戦いになります。フリードリヒ2世は、なんとかフベルトゥスブルク条約で講和します。プロイセンは、シュレジエンを確保することに成功します

プロイセンの置かれている状況は、新興国家の苦労をうまく表現しています。これは、明治維新で遅れて発展した日本にも類似しています

もともとあった老舗に、ベンチャー企業が挑むようなものです

ベンチャーは不安定な経営基盤のため、少しの不安定要素があるだけで、倒産の危機がやってきます。そのため、フリードリヒ2世のような啓蒙専制君主が生まれたのは、歴史の必然だと思います。賢い王様でない限り、新興国家を拡大できませんからね

彼は、ユンカーという地主貴族を支持基盤に、国家を大きくしました。フリードリヒ2世をもってしても、一部のエリートを利用した突貫工事でしか国を拡大できませんでした

プロイセンの前近代的姿であるグーツヘルシャフトは改善されていません。グーツヘルシャフトとは、ユンカーによる農奴経営です。近代国家になる上で、農奴の解放は必須です

アダム=スミスから始まる自由主義経済学は、その名の通り、自由に重きを置いています。自由が実現されてはじめて、切磋琢磨された競争原理がうまれます

農奴はそれを放棄し、他人に依存し、自ら考えることを止めています

つまり経済的発展が、頭打ちになるわけですね。まぁ、しょうがない部分もあります。アダム=スミスの名著「諸国民の富」が刊行されたのが1776年ですから、自由競争の原理が理解され、浸透するのには時間が必要です。プロイセンに積み残した課題があるということですね

オーストリアのほうも、農奴については考えていました。取り組んだのは、マリア=テレジアの息子、ヨーゼフ2世(位1765~90)です。ちなみにヨーゼフ2世は、マリア=テレジアの画像にも写ってます

-ヨーゼフ2世-
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彼は、1781年に農奴解放令を発表します。この改革は、最終的には保守派によって潰されていますが、啓蒙思想が農奴に対しての問題意識を生んだのだと思います

次回も、啓蒙専制君主について話します

折に触れ、中世のキリスト教が腐敗していたのは伝えましたが、ついに大規模な反対運動が起こります

きっけは、教皇レオ10世(位1513~21)の贖宥状(免罪符)です。贖宥状は、お札です。これを買うと、罪が償えますというのが、贖宥状です

の力で、天国を買うわけです

レオ10世は、当時建設中だったサン=ピエトロ大聖堂の建設費捻出のためにドイツを利用しました。ちなみにこの聖堂は、ミケランジェロが絡んだりと、凄いメンバで作っていましたね。お金が必要です。

ドイツは、当時神聖ローマ帝国といわれています。ここは、領邦国家といって多くの諸侯で構成される連合国家です。イギリスやフランスのように強大な王権がありません

つまり、つけ込みやすいわけです。ついた名が「ローマの牝牛」です。メスの牛っていうことは、従順だということですね

ちなみにレオ10世は、大富豪メディチ家の人です。つまり商人が、教皇をやっていたわけです

これに反抗したのが、ザクセン生まれのマルティン=ルターです。この人は、ヴィッテンベルク大学の神学教授でした。この大学は、ルターでしか聞かれません。セットで覚えましょう

-ルター-
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-参照・wikipedia-

ルターは、1517年九十五カ条の論題を発表します。これが宗教改革に始まりです。内容を簡単にいうと、「お札に効果はなく、信仰でしか、天国にいけません」という、もっともなことを言います

語呂です
以後いな(1517)いルターの宗教改革

1520年には、「キリスト者の自由」で、信仰義認説を主張します。お札じゃなくて、信仰が素晴らしいということですね

神聖ローマ皇帝カール5世(位1519~56)は、1521年ヴォルムス帝国議会を開催し、ルターに発言の撤回を求めますが、ルターは撤回しませんでした

そのため皇帝はルター派を禁止します

語呂です
ごっつい(1521)ヴォルムス、ルターを禁止
1521年、またパクリです。ここコルテスも、マゼランも関連した事件の年でしたね

■講義 part44 -大航海時代 後半-
http://world-history.blog.jp/archives/2702310.html

このままだとルターは、殺されてもおかしくない状態でしたが、ザクセン選帝侯フリードリヒが、ルターをヴァルトブルク城にかくまいます

ザクセンは、金印勅書(1356)で王を選ぶ7人の内の1人でしたね。神聖ローマで、かなりの有力者です

■講義 part37 -封建社会の崩壊と十字軍以後の主要国家-
http://world-history.blog.jp/archives/2423381.html

ルターは、城の中で「新約聖書のドイツ語訳」を行います。これをドイツ国内に相当な衝撃です。われわれも、どんなに良いものでも古文で書かれたら、何がなんだかわかりません

その古文にあたるのが、ラテン語でしたね

これによって、ルターの考えは、急速にドイツに浸透します。ちなみに彼の考えの特徴は、信仰義認説聖書第一主義です

聖書第一主義は、「聖書を読めば、お札で天国行けるなんて、どこにも書いていない。教会が嘘をいっているのは、明らかだ」とうことになります。「キリスト教徒の頼りは、聖書ですよ」と主張しています

このルターの行動に刺激を受けて、1522年に騎士戦争、1524年にはミュンツァーによるドイツ農民戦争が起きます

ドイツ農民戦争は、イギリス・フランスに比べて劣っていた農奴制の廃止を求めた運動です

ルターは、この運動に対して賛成⇒反対に意見を変えています。これ彼が学者であったことの限界だと思います。彼はあくまで神学世界のことにしか興味がありません。それに結ぶついて起こる政治や国民のことを考える力は、不足していたと思います

カール5世のほうも、この事態の収拾に苦心します。1526年には、第1回シュパイアー帝国議会でルター派を認めるようにしました

これによって、ルター派が急拡大したため、危機感を覚え、1529年の第2回シュパイアー帝国議会では、ルター派を再度禁止しました

完全な支離滅裂ですねw

これにルター派は、猛烈に抗議します。当たり前ですねこれが、プロテスタント(Protestant)、抗議する人の言葉の由来ですね

1530年、ルター派はついに反皇帝同盟のシュマルカルデン同盟を結成します

1545年には、カトリックがトリエント公会議を開きますが、「カトリック最高!!」というわけわからんものでしたw1546~47年には、トリエント公会議の不満から、シュマルカルデン戦争が発生します

最終的な決着は、1555年アウグスブルクの宗教和議までかかります

ここも1つ特徴があり、都市諸侯にルター派信仰の自由を認めました。個人の信仰の自由はありません

この結果生まれたのが、領邦教会制です。諸侯が、領主かつ、司教のトップを兼ねていました

以上です


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