世界史サロン

元教師がおくる世界史講義と、ニュースを世界史で読み解くブログ

カテゴリ: ロシア

前回の講義で、海外にいいようにやられた中国を説明しました。中国国民の中にも、これに対する反発があります

その思いが結実したのが、義和団事件(1900~1901)です。キリがいい年代に発生してるので、サックリ覚えてください

これは山東省を根拠にした白蓮教系の義和団が起こした、外国排斥運動です。スローガンは「扶清滅洋」です。中国のスローガンは、よく正誤問題で出題されます

まずは、中国の省名は有名所を暗記です。「この事件は、何省で起きましたか?」みたいな設問多いです

-山東省-
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次にスローガンですが、よく太平天国の乱(1851~64)と逆にして、聞かれます。こっちのスローガンは、「滅満興漢」でしたね


■講義 part83 -中国の内乱と近代化(太平天国の乱・洋務運動)-
http://world-history.blog.jp/archives/9001991.html
※太平天国の乱

「扶清滅洋」ですが、扶養家族といった言葉から想像できるように、には「助ける」という意味があります。「けて、滅茶苦茶する西してやる」で、彼らの考えが理解できると思います

太平天国の乱時代は、アヘン戦争(1840~42)とアロー戦争(1856~60)の間に起きてます。中国分割が起き始めた段階では、中国人の意識は、内部のよそ者である清に向かっています

多数派の漢人から見れば、万里の長城の向こう側から来たはよそ者ですだから、外国勢力に混乱させられ、ナンバーワンであることを証明できない清に怒りが向いてます

だから、「滅満興漢」です。清の母体民族、「州人をぼして、人の国を復させる」になるわけですね

■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html

これが義和団事件になると、継続的に中国が蹂躙されているわけですから、清⇒外国に対象が移動したのは理解できます

このように流れを理解できていれば、スローガンをどっちか忘れても、時代背景から、推量して答えに到達できます。なので、この一連の流れ、押さえておいてください

この義和団事件ですが、清で防げない外国勢力を、国民で防ぐことなんかできません。日・露・英・仏・米・独・墺・伊というオールスターで、ボコボコにされます

これを8ヵ国共同出兵といいます。義和団事件を終わらせた条約は、北京議定書です。決まり事がけっこうありましたが、北京駐兵権が一番重要です

アロー戦争を終わらせた北京条約では、公使の駐在が認められてましたが、今回は軍に格上げされてます。北京条約・北京議定書似てますね

つまり、駐在駐兵は正誤問題で聞かれます

そしてこの駐在を利用して、満州、今の遼寧省のあたりまで、伸長してきたのが、ロシアです。ロシアは、この好機を利用して、朝鮮にまで手をだそうとします

この時期の日本外交の良さは、世界NO1の国と手を握ったことです。この当時のNO1は、イギリスです。イギリスは、「光栄ある孤立」という名のもとに、同盟を結ばない風土がありましたが、ロシアの南下政策の野心を警戒していました

イギリスは、外交政策を変更し、日英同盟(1902)が成立します。朝鮮の権益にロシアが侵入したきたわけですから、日本は戦争の決断に入ります

朝鮮を譲歩して渡しても、「次は九州くれ、四国くれ」と要求がエスカレートするわけですから、日本はもう戦う以外の選択肢がありません

それが日露戦争(1904~05)です

日本はコツコツ勝利を重ね、なんとか旅順・大連を攻略します。これらの影響で、ロシア国内に厭戦気分が高まり、血の日曜日事件が1905年1月におきます

■講義 part88 -帝国主義時代(ロシア)-
http://world-history.blog.jp/archives/11098268.html
※血の日曜日事件

戦争に勝てないと、内部がグラつきだすのは典型的な話です。日本もギリギリの勝利を続けています。1905年3月奉天会戦にも勝ちましたが、まだロシアは降参しませんでした

-奉天-
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ロシアのプライド、バルチック艦隊が、わざわざバルト海から来ていたからです。すごい距離をきてます。その艦隊が、日本海軍と決戦します。それが、日本海海戦(1905年5月)です

-バルト海-
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これにも日本は、勝利しました。相手が半年かけて、来たことで疲労というアドバンテージがありましたが、日本海軍は、ロシア艦隊をほぼ壊滅させることに成功しました

朝鮮半島と日本には、日本海という海があり、もしロシアが勝利していたら、日本の権益が分断される最悪の事態が発生していました。その中での大勝利です

アメリカのセオドア=ローズヴェルトの仲介で、日本・ロシアの間にポーツマス条約が締結されます

■ポーツマス条約(1905年9月)
[日本全権・小村寿太郎 ロシア全権・ウィッテ]
・韓国の保護権
・遼東半島南部
・南満州鉄道(長春~旅順間)
・南樺太


韓国の領有は、清・ロシア・日本で争っていました。以下の流れで、日本の帰属になります

日清戦争⇒清×
日露戦争⇒露×


この当時の日米関係は、友好でしたから、ポーツマス条約の前に桂・タフト協定(1905年7月)があって、韓国は日本のもの、フィリピンは米のものと認め合ってます

このあたりあるので、韓国の人は、アメリカに守ってもらいながら、アメリカを嫌いという複雑な感情を持つことになります

日本の韓国領土化に文句をいう国はいんかうなってので、段階的に吸収していきます。それが日韓協約です

第1次日韓協約(1904)
第2次日韓協約(1905)…韓国の保護国化に成功
第3次日韓協約(1907)…韓国軍隊を解散

※第3次は、ハーグ密使事件で皇帝高宗が日本支配の不当を訴えて、失敗し、これをキッカケに協約が結ばれました

1909年には、初代韓国統監伊藤博文が、安重根に暗殺されます。韓国には皮肉ですが、これを理由に、1910年韓国併合が行われました

併合後は、統治機関として朝鮮総督府がおかれます。初代総督は、寺内正毅です。統監・総督は似た表現です。つまり正誤問題で聞かれます

このあたりまでの日本の戦略は、合理的で良かったと思います。まず世界NO1と手を組むということ。各国の同意を得て、韓国を併合したこと。条約においても、賠償金を要求せず、内情を鑑みて、領土だけで我慢したこと。自分の実力にあった、最大限の努力ができていたと思います

ここから先の日本は、本当に終わりの始まりだと思います。。。

次回、中国の辛亥革命いきます

ロシアは、帝国主義時代にガタガタと、政治システムが変わっていく時代です

まだ説明していないですが、キッカケは日露戦争(1904~05)です。これで、ロシアは王政の変更を余儀なくされます

まず社会主義の勢力が、大きく伸長します。ロシア社会民主労働党が、まずでますが、意見の対立で、ボルシェヴィキメンシェヴィキに分かれます

メンシェヴィキの方が、段階的な改革を望み、ブルジョワ勢力も取り込んでいます。指導者は、プレハーノフマルトフです。ボルシェヴィキの指導者は、レーニンです

-レーニン-
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他にも過激な社会主義集団、社会革命党(エス=エル)というのもあります。これは、ナロードニキの流れを組んでいます

■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※ナロードニキ情報

もちろんブルジョワ政党もあります。それは、立憲民主党です
これらの政党が、主導権争いを行います

結局の所、戦争は長続きすると、優勢だろうが、劣勢だろうが、国民の不満は鬱積します。明日食べるゴハンも、苦しむ状態になりますからね

さらにアジアなんて雑魚と思っている欧米の人にとって、簡単に日本を追い込めないロシアの状態に、国民は我慢なりません

これらの不満は、ペテルブルク冬宮前のデモにつながります。率いていたのは、ガポンという神父です。このデモを鎮圧するために、軍隊は武力で鎮圧します

これで多くの死者がうまれ、ロシア皇帝憎しの感情が作られていきます。これを血の日曜日事件(1905年1月)といいます

これがキッカケとなり、各地が暴動です。当時の皇帝ニコライ2世(在位1894~1917)はビビりますこの暴動鎮圧の責任者となったのが、ヴィッテです。彼は、日露戦争を終わらせたポーツマス会議での責任者でもあります

まず、原因を考えるとわかりますが、デモのキッカケは戦争です。これを止めるのが第一です。これを放置している間、軍隊すら暴動に参加しています

これをポチョムキン号の反乱(1905年6月)といいます

いよいよ皇帝の首が危ないですロシアは戦争継続を断念します。ポーツマス条約(1905年9月)に調印します

しかし、これだけでは無理です。戦争に負けているからです。責任は誰でしょう?どうみても皇帝になります。国民を納得させるアメでもない限り、止まりません

そこでニコライ2世は、十月宣言(1905年10月)を発表し、ドゥーマ(国会)の開設と、憲法の制定を認めます

血の日曜日事件から、ここまでの流れを第一次ロシア革命といいます

血の日曜日事件⇒ポチョムキン号の反乱⇒ポーツマス条約⇒十月宣言

並べ替え問題があれば、年号暗記がなくても、当時の流れを覚えいれば解答できます。上記の流れを自分で説明できるようにしていてくださいね

ここで力を持ったのは、立憲民主党です。ヴィッテも彼らの路線を支持しますが、皇帝は不満です。喉元すぎれば、ナントカで、自分以外の者が権力を持つことが納得できません

1906年に首相だったヴィッテを解任し、ストルイピン(在任1906~11)をあらたに任命します。これで、立憲民主党も支持者を失い、力がなくなります

ストルイピンは、暴動の芽が、ミールから生まれると考えていました。ミールは農村共同体ですね。農民は貧しい人多いですから、社会主義の影響を受けやすいです

ミールをつぶし、自立した農民を増やせば国力もあがると考えました

■講義 part72 -ロシアの改革と東方問題-
http://world-history.blog.jp/archives/7210555.html
※ミール情報

この考え、ちょっと浅薄だったと思います。ミールは、国が何も助けてくれないなかで、弱い彼らが何とか生きていくためのだったことを理解できていません

ストルイピンは、貴族出身ですから、経済的なものだけで、物を見過ぎたと思います。ただ、彼はミールを潰せば、暴動が減って、経済力もつくと思ってますから、ミール解体を断行します

最後のセーフティーネットを砕かれたわけですから、農民に貧富の格差が増大します。ここで儲かった一部の人はいいですが、頼るもののない農民は困窮し、さらに憎しみを増大させるわけです

またストルイピンは、いろいろルールを変更して、自分に操縦しやすい国会を作りました。立憲民主党や社会主革命党などは、そこで議席を失います

ほうぼうに憎まれたストルイピンは、最終的に暗殺されてしまいます

彼のやろうとしたことは理解できますが、ロシアの流れを大局から判断して、適切に行動できるまでの才覚はなかったと思います

ロシアの矛盾は解消されず、不満のマグマが溜まり、次の革命を待つことになります

次回は、帝国主義時代(アメリカ)です

ロシアいきます。この講義の後に、ひさびさにニュースについて説明したいと思います。クリミア問題です

今回の講義の後に、クリミア問題に触れたほうがいいと思っていたので、今まで言及していませんでした。それでは行きます

まず復習です。19世紀のロシアの王朝は、ロマノフ朝(1613~1917)です

■講義 part55 -啓蒙専制君主(ロシア)とポーランド分割-
http://world-history.blog.jp/archives/4283924.html
※ロマノフ朝情報

ウィーン体制(1815~48)以後のロマノフ朝の王様は、全覚えでお願いします
覚え方は、アレ、ニコ、アレ、アレ、ニコです。「なに言ってんだ!てめー!」と怒らないでください。私は、これで覚えてます

アレクサンドル1世(在位1801~25)⇒ニコライ1世(在位1825~55)⇒アレクサンドル2世(在位1855~81)⇒アレクサンドル3世(在位1881~1894)⇒ニコライ2世(在位1894~1917)

アレクサンドルとニコライで回していますねニコライ2世が、ロマノフ朝の最後の王様になります

イメージとしては、ウィーン体制を仕切っていたのが、アレクサンドル1世で、ウィーン体制が動揺するぐらいから、ニコライ1世です

アレクサンドル1世といえば、神聖同盟の結成で有名です。ニコライ1世は、デカブリストの乱(1825)からと覚えてください。一発GO(1825)です

■講義 part63 -ウィーン会議-
http://world-history.blog.jp/archives/5889961.html
※神聖同盟

■講義 part64 -ラテンアメリカ諸国の独立とギリシア独立戦争-
http://world-history.blog.jp/archives/6006451.html
※デカブリストの乱

19世紀から、トルコで「東方問題」が発生します。オスマン帝国内で起きる反乱のことです。この方向の定義は、極めて主観的です。世界史で、方角を聞かれたら、だいたいヨーロッパが中心になります。ヨーロッパから見て、トルコは東方ですね?なので「東方問題」です

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これ、単純に人間の精神構造的問題です。どうしても、私たちは自分中心で、ものを考えますからね。だから、彼らは新大陸発見と言ったり、インディアンと言ったりしていましたね。インディアンは、インド人のことですね

最初は、アメリカ大陸はインドと思われていたため、起きた誤解です。これって凄い失礼だと思います日本歩いてたら、「Hey!!インド人」と言われたら、フリーズしますよね

話を戻します

「東方問題」が初めて顕在化したのが、ギリシア独立戦争(1821~29)です。これについては、すでに触れていますね

■講義 part64 -ラテンアメリカ諸国の独立とギリシア独立戦争-
http://world-history.blog.jp/archives/6006451.html

ロシアは、ギリシア側で参戦していますから、ギリシア独立によって利益を得ました。ボスフォラス・ダーダネルス海峡の通行権です。ちなみに海峡は、細い場所のことです

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黒海を通って地中海に出るには、ここを通る以外の方法がありません。ロシアが貿易する際に、ここの通行権が非常に重要です。ここを潰されると、経済大打撃なわけです

ロシアの戦略としては、どんどん南に下りてきます。貿易航路を開くためです。これを南下政策といいます。また方角でましたね。よくロシアの説明では、不凍港を求めて南下するなんでいわれます

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ロシアを地図でザッと見ると、ほとんどの場所が、北海道より上にあるのがわかります。海に囲まれているとはいえ、港が凍って使えないわけですね

なので、温暖な地域に南下してくるわけです

この地図で見る、黒海の価値は、確かにロシアにとって高いものだとわかります。オスマン帝国内は、この頃まだまだグラついています

次はエジプトが、オスマン帝国に反旗を翻します。ちょうどこの時いたエジプトの総督は、ムハンマド=アリー(在位1805~49)という人です

-ムハンマド=アリー-
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彼はオスマン帝国内で、エジプトの軍隊を近代化させて、独立に備えていました。ここに第1回エジプト=トルコ戦争(1831~33)が勃発します

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イギリスやロシアなどは、この小競り合いを利用して、利益を得ようとします。戦争自体は、エジプト有利で、シリアはエジプトのものになります。またロシア自身も、オスマン帝国を支援したことで、ウンキャル=スケレッシ条約(1833)で、ボスフォラス・ダーダネルス海峡独占通行権を得ます

これに味をしめたムハンマド=アリーは、次に総督の世襲権を求めて戦争します。第2回エジプト=トルコ戦争(1839~40)です

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ここが、ヨーロッパ外交の凄い所です。昨日の敵が、今日の味方になります。各国は、国益でしか動きません。普通に行けばエジプトのほうが強いので、支援するフランスが戦争後、利益のでるのは明らかです。そのためイギリスは、他の国を誘ってオスマン帝国側につきます

これでフランスの利益一人占めを防ぎます。戦争後、エジプトは世襲権を得る代わりに、シリア放棄することになりました

イギリスには、まだ課題があります。それはロシアの強大化を防ぐことです。第2回エジプト=トルコ戦争を終わらせた1840年ロンドン会議で、ウンキャル=スケレッシ条約を破棄させることに成功します

ちなみにギリシア独立戦争を終わらせたのもロンドン会議(1830)です。10年後にも同名の会議があるんだと記憶してくださいね

その後、ロシアは飼い犬に手を噛まれる状況が生まれますオスマン帝国が、イェルサレムの聖地管理権をロシアからフランスに移しました。この時のフランスのトップは、ナポレオン3世です

■講義 part69 -フランスの第二帝政・第三共和政-
http://world-history.blog.jp/archives/6498346.html
※ナポレオン3世情報

これにロシアのニコライ1世が、激怒します。ちなみにイェルサレムは、ユダヤ・キリスト・イスラムの聖地でしたね。そこの管理をフランスに任せたわけです

さらにフランスはカトリック、ロシアはギリシア正教です。派閥も違います。「用心棒代わりの自分に相談もないんかとキレたわけです

ロシアがオスマン帝国に仕掛けた戦争が、クリミア戦争(1853~56)です。この戦争中にロシアの王が代わります

ニコライ1世(在位1825~55)⇒アレクサンドル2世(在位1855~81)

ニコライ1世は、デカブリストの乱で始まり、クリミア戦争中に終わるイメージです。ニコライ1世は、ギリシア正教徒の保護を理由に戦争を開始します。つまり、「オスマン帝国内のロシア人を助けます」という論理です

150年以上経った現在でも、ロシアはこの論理で、ウクライナに仕掛けたわけです

-ロシア大統領、クリミア編入を表明 欧米が追加制裁へ(ニュース)-
2014/3/18 20:53

http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1803U_Y4A310C1MM8000/
※「ロシア系住民の保護」を理由にクリミアを編入しています

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オスマン帝国は、ロシアにやられるのは確実ですから、英仏はオスマンを支援します。外交の基本は、バランスオブパワー勢力均衡です。サルデーニャは、イタリア統一に向けてのアピールでしたね

■講義 part63 -ウィーン会議-
http://world-history.blog.jp/archives/5889961.html
※勢力均衡情報

■講義 part67 -イタリアの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6154501.html
※クリミア戦争参戦情報

語呂です
いや~ゴミ(1853)コロコロ(56)、やっぱり(パリ条約)クリミア戦争

ロシアが難攻不落と考えていたセヴァストーポリ要塞が、この戦争で陥落します。この要塞がある場所、現在もロシアの軍事基地があり、それがクリミア半島にあったため、クリミア半島は、どうしてもロシアの側に引き込みたかったんですね

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クリミア戦争にロシアは敗れ、南下政策は完全に挫折しますパリ条約の内容いきます

パリ条約(1856)
・南ベッサラビアを放棄…ルーマニアのものになります
モルダヴィア・ワラキアの承認…事実上の独立を獲得。後のルーマニアです
・黒海は、非武装地帯
・ドナウ川航行の自由…各国を横断して、黒海に流れる川の共同利用を決めました
-ルーマニア-
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-ドナウ川-
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ロシアは、なんとかリベンジの機会をうかがいます。それがロシア=トルコ(露土)戦争(1877)です。オスマン帝国内で起きたボスニア・ヘルツェゴヴィナの反乱を利用します

-ボスニア・ヘルツェゴヴィナ-
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今回の口実は、スラブ民族の保護です。今度はロシア人よりデカい、スラヴという概念で、戦争をしました

■講義 part34 -ビザンツ帝国と東ヨーロッパ-
http://world-history.blog.jp/archives/2192820.html
※スラヴ情報

この戦争一騎打ちです。もちろん弱小オスマン帝国には、負けません。ロシアに有利な条約を結びます

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■サン=ステファノ条約(1878)
・ルーマニア独立
・セルビア独立
・モンテネグロ独立
・ブルガリアは領土を拡大し、ロシアの傘下

当時のブルガリアは、地中海に面する領土を持っていました。ここがロシアに入るということは、南下政策成功を意味します

-ブルガリア(1878)-
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語呂です
嫌な話(1878)のサン=ステファノ条約

この状況に、特に焦ったのがイギリス・オーストリアです。この問題を話し会おうと会議が開かれます。それがベルリン会議で、ビスマルクが「誠実な仲介人」を公言して、あらたな条約を締結します

それが、ベルリン条約(1878)です

■ベルリン条約(1878)
・ブルガリアは領土を縮小し、オスマン帝国の傘下
オーストリアは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ行政権を獲得
イギリスは、キプロスを獲得

これ駄々をごねた英・墺が得して、露だけが損をしています。結局、南下政策失敗ですビスマルクは、ロシアを犠牲に、イギリスを味方に付けることに成功したわけです

このあたりの外交、実に複雑です

ビスマルクは、ロシアに恨まれ、さらにロシアがフランスと仲良くなられるのを異常に恐れていました。そのための再保証条約(1887)の締結だったわけです

■講義 part68 -ドイツの統一-
http://world-history.blog.jp/archives/6184102.html
※ビスマルク体制

これらの失敗によって、ロシアは改革が他国に比較して、進んでいないことが、自覚されました。早い段階では、デカブリストの乱の時期には、インテリゲンティアという知識階級が、改革を訴えていました

国王自身も、アレクサンル2世などは、農奴解放令(1861)を発布したりもしました。これは、お金を払ったら、土地を買えるシステムだったので、貧乏の農民はなかなか自立できない中途半端なものでしたが、なかには頑張って自作農になった人も現れました

自立できない農民は、ミールといわれる農村共同体でやり繰りすることになります。このミールなどの協同システムをうまく使って発展しようと考えたのが、ナロードニキといわれる人たちです

彼らのスローガンは、「ヴ=ナロード」(人民の中へ)でした

ナロードニキの中には過激な人たちもいて、ロシアがダメな原因を王様と考えていました。この一派は、暗殺を企てて、成功してしまいます

アレクサンル2世暗殺は、1881年に起きます。

語呂です
嫌やい(1881)、アレクサンドル2世暗殺

19世紀のロシアは、まず王様を覚え、次に戦争です
ギリシア独立戦争⇒エジプト=トルコ戦争⇒クリミア戦争⇒露土戦争

ロシアの南下政策は、結局失敗しています。「西に南下できないなら、次は東に南下だ、これが後の日露戦争(1904~05)になるわけです

この話をブログで取り上げるのは、だいぶ先でしょう

今回は、以上です。次回は、ニュースのクリミア問題を解説します

啓蒙専制君主の続きです。ロシアについてふれましょう。

まずは復習からです。今、もめているウクライナにキエフ公国(9~13世紀)というのがありました。ウクライナの首都は、キエフです

ここからだけでも、ロシアとウクライナの結びつきが強いのがわかります。ロシアがウクライナを支配権に置きたい気持ちが理解できます

自分の国家のルーツになるエリアですからね

■講義 part33 -ローマ・カトリックの発展-
http://world-history.blog.jp/archives/2135662.html (キエフ公国)

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キエフがガッツリ、モンゴル人にやられてしまい、その後に成立したのがモスクワ大公国(14~16世紀)でした。

■講義 part34 -ビザンツ帝国と東ヨーロッパ-
http://world-history.blog.jp/archives/2192820.html (モスクワ大公国)

この王朝衰退後、ミハイル=ロマノフロマノフ朝(1613~1917)を建国します。できて早々は、ステンカ=ラージンの乱(1670~71)などが発生して、苦戦しました

このロマノフ朝を近代化させたのが、ピョートル1世(位1682~1725)です。この人がロシアの絶対王政を確立させますが、啓蒙専制君主ではありません

-ピョートル1世-
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中国史でも、でてくる王様ですね。ネルチンスク条約(1689)を締結していましたね

■講義 part27 -清-
http://world-history.blog.jp/archives/1849214.html

基本、当時のヨーロッパの中心は、イギリスであり、フランスです。そこから離れているロシアは、田舎扱いです。ヨーロッパでロシアは2流・3流扱いです

ピョートル1世自身、それを理解しています

そしてロシアは、地政学的に致命的な弱点を持っています。それはです海自体は領土内にありますが、凍らない港、不凍港がありません

大量の商品を運べる船による貿易は、お金を稼ぐうえで必須であるのに、1年中使える港がないのです。そのため、事あるごとにロシアは、バルト海、黒海、日本海への進出を企てます

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ここで、ロシアと喧嘩になった国があります。それは、スウェーデンです。北欧の国とロシアで、バルト海をめぐる争いが始まります

スウェーデン王は有能なカール12世でしたが、これをロシア・デンマーク・ポーランド連合軍で倒します。ニスタット条約が結ばれ、ロシアはバルト海東岸の地域を手に入れます

ピョートル1世は、バルト海沿岸地域を開発し、ペテルブルグという都を作り、そこを首都にしました

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モスクワから、だいぶ西側に寄せてきましたね。当時はインターネットなんてありませんから、最新の情報を得たい場合、物理的距離がそのまま影響します

そのため、いち早く情報を得たかったピョートル1世は、都を移したわけです。そのため、この都は「西欧への窓」ともいわれます

さらに彼は、東方への野心も捨てていません。探検家ベーリングを派遣して、ベーリング海峡の確認やアラスカの領有も行っています

このように基盤が整備された中で、啓蒙専制君主のエカチェリーナ2世(位1762~96)があらわれます。彼女はフランスの影響を受けてます。そのため、ヴォルテールとも親交がありました

-エカチェリーナ2世-
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後発国家にありがちですが、彼女は農奴制を維持します。これに反対して1773年にコサックという集団が、プガチョフの乱を起こします。この鎮圧に苦労したため、彼女は余計、農奴制を強化します

また南下して、クリミア半島にあったクリム=ハン国を併合しています。ここから、ロシアとウクライナの因縁が生まれてきます

-クリミア半島の歴史や軍事的重要性-
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA2603W20140307 (ロイター)

さらには、当時衰退していたポーランドを、周辺のプロイセン・オーストリアとともに分割して、領土化します。全3回行い、最終的にポーランドは消滅します

ポーランドの境遇は、今の韓国に似ていると思います。まわりを中国・ロシア・日本に囲まれ、戦力的には絶対敵いませんから、中国に寄ったり、アメリカに寄ったりして、なんとか自分の立場を保持する姿勢は、日本外交よりも難易度が高いです

ポーランドの立場になれば、たまったもんじゃないです。弱肉強食の世界では、弱い者は何もできません。コシューシコという人が、これに抵抗しましたが、結局捕えられてしまいました

ポーランド人で聞かれる人は、世界史ではほとんどいません。しかし、彼の名は、受験では聞かれるので、必ず覚えましょう

-コシューシコ-
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ポーランド分割の語呂です
何!(72)くさ!(93)人なく、ご(1795)ねるポーランド

ピョートルと同じく東への意識もあります。その影響で1792年ラクスマンが根室に来航します。部下との組み合わせを間違わないでくださいね

ピョートル1世 - ベーリング
エカチェリーナ2世 - ラクスマン


彼女のいた時代、世界でデカイ事件が起こってます。まずアメリカで独立戦争(1775~83)が起きてます。またフランス革命(1789~99)も起きます

独立戦争では、1780年武装中立同盟を結成し、イギリスに干渉しません。当時、世界のトップはイギリスです。そこの拠点であるアメリカが独立するのは、ロシアにとって願ったり、叶ったりです。相手の力を削げますからね。

かといって、積極的に戦争もしません。自分たちの力が低下します。中立という名目で、足を引っ張るわけです。それよりも彼女にショックだったのは、フランス革命だと思います

が主役と思っている時代に、国民が主役の価値観が台頭したわけですからね。

激動の時代に生まれた彼女ですが、ロシアの拡大化には成功したと思います

次回は、ヨーロッパの植民地について話します

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