すいません。。仕事が、超忙しいです!!休みないです!!
本当はセンター試験の解説をしたいのですが、自分の体力がもちません
今回、国共合作がわからないというリクエストを受けたので、基本形だけシンプルに説明したいと思います
まず国共合作は、国民党と共産党が一緒に頑張るよということです
また第1次と第2次の登場人物を混同しないでください
第1次国共合作(1924)では、国民党の主役は孫文、共産党は陳独秀です
-孫文-
この国共合作の目的は、2つです。
1.軍閥打倒(内側の敵)
2.列強の打倒(外側の敵)
軍閥は、今のイスラム国を見ればわかります。かっこいいこといってますが、自分の私腹を肥やすために、結局暴力を使う集団です
国民党と共産党は、真逆の価値観ですが、共通する部分があります。それは中国の統一です。ただこの1点で仲良くします。本当にギリギリの連携です
この均衡が崩れるのが、孫文の死(1925)です国民党を引き継いだ蒋介石は、軍閥よりも共産党を危険視しています
-蒋介石-
1926年、軍閥打倒を開始しますが、彼の支援者は上海を牛耳る浙江財閥です。この上海が労働者、つまり共産党勢力に支配されかかったため、1927年上海クーデタを起こして、蒋介石は共産党を切り捨てます
金持ち支援の国民党は、どうしても労働者の味方、共産党とは手を結べませんでした
これを変える機会が、皮肉にも日本によって引き起こされます。1936年、いよいよ日本の中国への圧力が強まってきた頃、蒋介石が軍閥の有力者張学良に拉致される事件が起きました。これを西安事件といいます。
この時、必死の説得を試みたのが、共産党の周恩来です。トップも陳独秀⇒毛沢東に代わっています。
-周恩来-
これによって蒋介石は考えを改め、第2次国共合作(1937)がなるわけです。実際、国共合作間際には盧溝橋事件が発生し、日本の侵攻はいよいよ始まっていました
第2次の目的は、ただ1つ日本打倒でしょう
第1次・第2次国共合作は、登場人物・政党の価値観・敵は誰かを骨組みで押さえれば、後は細かい知識をつめるだけだと思います
最後に語呂です
いくつよ(1924)、第1次国共合作。いくつなん(1927)だっけ?上海クーデタ。
くさる(936)西安、くさるな(937)第2次国共合作
以上です。皆さんの受験シーズンに簡単なものしかだせず、申し訳ない
カテゴリ:中国史 > 中華民国
講義 part95 -辛亥革命-
これだけ、外国に無茶苦茶されてる中国です。「これは、そもそも中国をまとめてる清自体に問題がある」と思う人が多くでてきます
これが辛亥革命(1911~12)という清を倒す運動につながっていきます
一応、清側も義和団事件の衝撃があるので、光緒新制という改革運動を行ないます。ココには、西太后も噛んでますから、未来が見えてます
だって、光緒帝は改革運動を展開しようと模索して、西太后に潰された人間です。同じメンバで、同じことをやる。こんな矛盾したことはありません
■講義 part93 -中国分割-
http://world-history.blog.jp/archives/15110967.html
※戊戌の変法
ただ、いくつかの良いことは実施しています。以下がそれです。
1.科挙の廃止(1905)
2.憲法大綱(1908)
3.国会開設公約(1908)
4.軍機処の廃止(1911)
語呂です
科挙の廃止に行く礼子(1905)、おや(08)!?憲法大綱・国会開設、軍機処廃止はいい(11)ですね
簡単にいうと、今までの中国文化の否定、欧米の模倣です。科挙なんか、598年の隋から続いたものです。これを廃止したのは凄いと思います
この背景には、模倣に成功した日本があると思います。日本はアジアには絶対ムリと思われた欧米の一角、ロシアを撃破するまで激変していたからです
天皇をトップにいただく日本のシステムは、清の皇帝をトップに近代化したい新生清政府にとって、仕切り直しに絶好のモデルです。彼らの意図はよく理解できます
しかしながら、もっと根本的な部分から変えないと、もう間に合わないと思っていた人がいます。それが、孫文(1866~1922)です
-孫文-
孫文は、まず1894年にハワイで興中会を設立します。場所は特徴的なので、けっこう聞かれます。
語呂です
白紙(894)に戻そう、興中会
これ、ドレフュス事件の語呂と同じです。当たり前です。同じ年に起きた事件だからです。世界史は、いろいろな場所を勉強するので、時間軸がグチャグチャになると思いますが、そういう時に年号暗記は重要です。同年に起きた出来事は、まとめて覚えておきましょうね!!
■講義 part86 -帝国主義時代(フランス)-
http://world-history.blog.jp/archives/9988564.html
※ドレフュス事件
この他の革命団体として、章炳麟・蔡元培の光復会、黄興の華興会があります。これらの革命団体が1905年、東京で統一されます。それが中国同盟会です
興中会+光復会+華興会=中国同盟会
この団体は、機関誌「民報」で、国民を革命へと鼓舞します。彼らのスローガンは以下になります。
■三民主義
・民族の独立…他国なんかに侵略されず、自立するぞ
・民権の伸長…国民の権利を強くするぞ
・民生の安定…国民の生活を安定させるぞ
■四大綱領
・駆除韃虜…清朝を倒す
・恢復中華…強い中国の復活
・創立民国…国民の誕生
・平均地権…土地はみんなのもの
孫文たちは、以上のことを清ができないと思ってます。それが象徴的に現れたのが、幹線鉄道の国有化(1911)です
これは、外国からお金を借りるため、鉄道を担保にしたいがため、民間から鉄道利権を取り上げた事件です。これは中国の人にとって、売国的に映ったわけです
もちろん、お金は四国借款団といわれる英・米・仏・独から借りる予定でした。この国有化事件をキッカケに、四川暴動が起きます。また連鎖的に、武昌蜂起も起きました
ここが重要なのが、武昌では軍部が、国民の側についたことです。2014年9月、香港で反政府デモが起きましたが、おそらくこのデモ自体は鎮圧されるでしょう。軍部が協力するかが、革命の成功させる上でのポイントです
■2014年香港反政府デモ
http://ja.wikipedia.org/wiki/2014%E5%B9%B4%E9%A6%99%E6%B8%AF%E5%8F%8D%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%83%87%E3%83%A2
辛亥革命と今の中国の決定的な違いは経済です。今でも各地で中国各地で暴動が起きていますが、経済が発展しているうちは大丈夫です。辛亥革命時は、鉄道担保に金を借りようとしてるわけですからね
経済が悪化した時、それが中国が辛亥革命のようなことになると、私は見ています。注意深く、ニュースを見ていてください
軍部の中で、寝返ったボスで有名なのは、袁世凱です。彼は、西洋式軍隊の新軍といわれる軍隊のうち、北洋軍のボスでした
こうして、清は倒れ、1912年中華民国が、南京に成立します
孫文たちは、軍隊の力を必要としていましたから、彼をリーダーとして認めます。彼は、そのため臨時大総統といわれるものになりました
1912年には、宋教仁らが国民党を立ち上げ、袁世凱の暴走を止めようとしましたが、宋教仁自身は、暗殺されてしまいました
袁世凱には、国民のためなどという思いなどなく、自分が皇帝になりたいという野心しかありません。1913年には帝政を開始します
これは猛反発を招き、彼自身病死したこともあって、なんとか取り消しになりましたが、権力をうまく1点に集中できない状態が続き、軍部が各地の勢力を、自分の領土のように扱う、軍閥といわれる勢力の伸長を許してしまうことになりました
中国が真の意味での統一をするのは、毛沢東の登場まで待つ必要がありました
-毛沢東-
次回は、アジアの民族運動いきます